ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(6)

2014-07-24 | 〆リベラリストとの対話

4:議会制民主主義について

コミュニスト:あなたは前回対論の最後に、アメリカ的価値観を最大限度発動して国家の廃止に同意するとしても、議会制度の廃止は受け入れ難いと言われましたね。つまり、国家は廃止しても、「民営」の議会制度のようなものは残すべきということでしょうか。

リベラリスト:そうですね。あなたが提唱する民衆会議は、代議員を免許取得者からくじ引きで抽選するという興味深いものではありますが、アメリカ人的には、偶然に委ねられる抽選より意識的選択である選挙のほうがより民主的だと思います。

コミュニスト:「選挙=民主主義」という定式を絶対化する思考を、私は「選挙信仰」と名づけました。たしかに選挙政治は旧来の王侯貴族による世襲政治よりは政治参加の枠を拡大した歴史的な功績があることは認められますが、そこで止まっています。選挙の決め手は、貨幣経済の下では、金の力です。だからこそ、日本では選挙を通じた世襲政治という手品も可能ですし、世界一の民主主義を誇る御国のアメリカはまた世界一の金権選挙の国でもありますね。選挙された議員とは、結局のところ裕福なブルジョワ/プチブルジョワの名士連ということになるのです。

リベラリスト:たしかに、アメリカの金権選挙には大いに反省すべき点があります。ならば、いっそあなたのもう一つのご提案である貨幣経済の廃止に従えば、選挙から金権的要素は一掃されるのでは? 

コミュニスト:そうなるでしょう。しかし、選挙から金権的要素が一掃されたとしても、それで解決するわけではありません。選挙とは所詮人気投票ですから、選挙の当落と政策の良否や人格識見は全く無関係なのです。

リベラリスト:それは言い過ぎでしょう。選挙では一定の政策が示され、有権者に選択が問われるのですから、政策が全く提示されない形式的な抽選とは大きく異なります。

コミュニスト:選挙で政策が提示されるのは事実ですが、実際のところ、有権者は各候補者の政策提案をそれほど詳細に比較検討して投票しているわけではありません。また近年は「イデオロギーの終焉」イデオロギーの浸透により、政党や候補者ごとに大きな政策の違いはなく、金太郎飴の状態です。そうなると、決め手は容姿を含めたイメージとか知名度になるでしょう。

リベラリスト:しかし、代議員免許取得者からの抽選というあなたの構想では、民衆会議代議員は知識人中心となるのではないでしょうか。それもある種の「名士政治」ではありませんか。

コミュニスト:代議員免許試験は代議員として必要な素養と倫理を問うもので、専門職試験ほど難関ではないので、知識人中心となることはなく、あくまでも代議員の資質をコントロールする手段にすぎません。選挙には、そういう資質保証のシステムが欠けているのです。要するに、議会制民主主義とは、政治参加の枠を広げるための間に合わせの暫定民主主義だったということです。

リベラリスト:すると、あなたは議会制民主主義はもう歴史的な使命を果たし終えたと考えるわけですね。

コミュニスト:はい。ただ、資本主義が当面続く限りはまだその役割を完全に果たし終えていないでしょうが、少なくとも共産主義の上部構造としては適合しない制度です。

リベラリスト:しかし、直接民主主義ではなく、間接民主主義という点では、民衆会議制も議会制と五十歩百歩の観がありますね。

コミュニスト:私は、直接民主主義/間接民主主義という区別をやめて、直接代表制/間接代表制という区別を導入します。選挙で選抜される条件を備えた者しか代表者になれない間接代表制に対し、免許さえあれば誰でも抽選で代表者になれる民衆会議制は直接代表制であり、これこそ議会制に取って代わるべき完成された民主主義の制度だと考えます。

リベラリスト:そうですか。あなたには「選挙信仰」の信者と揶揄されるかもしれませんが、私としては、まだ議会制に捨て難いものを感じますし、多くのアメリカ人もそうでしょう。

コミュニスト:もちろん、新しい思考が浸透するには一定の歴史的な時間を要します。とはいえ、日本でもアメリカでも選挙政治家の資質が近年とみに低下していることは、意識され始めていると思います。歴史的な地殻変動はもう始まっているのではないでしょうか。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

コメント    この記事についてブログを書く
« リベラリストとの対話―「自由... | トップ | アメリカ憲法瞥見(連載第1回) »

コメントを投稿