1989年6月4日に起きた天安門事件から30年を迎えました。
「天安門事件30年を前に各地で中国政府に批判の声」の記事はこちら
1989: Man vs. Chinese tank Tiananmen square
改革開放政策の「胡耀邦(こようほう)元総書記」の死(1989年4月15日)がきっかけとなり、民主化を求める政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まり大規模なデモになった時の映像です。
この事件の話は、中国ではタブーで公の場では論じてはならないことなので
この映像を見ていて、あの青年はどうなったのかと気になっていました。
中国では
天安門事件→六四(リョウスー)もしくは、八九六四(パージョウリヨウスー)と呼ばれて、毎年6月4日前夜に治安警備が従来以上に強化され、スマホ送金など、事件を連想する金額、指定が不可能になっているそうです。
他にも「ピュリツァー賞」の報道写真で衝撃を受けた写真があります。
●焼き場に立つ少年
(直立不動の姿勢で、おんぶした弟の火葬の順番を待つ。)
●ハゲワシと少女
(重篤な栄養失調の少女は少年で、救護により回復する。)
●ナパーム弾の少女
(やけどの少女と、救った元記者と38年ぶり再会する。)
●安全への逃避
(2人の母親と子供たちが、水のなかを歩いて逃げている姿。)
●世界貿易センターへのテロ攻撃・・・落ちてゆく男 などがあります。
南ベトナム軍のナパーム弾を浴びて、服も肌も焼かれて全裸で逃げ惑う「ナパーム弾の少女」の写真を、ポルノ認定で削除されたこともあったそうですが、これらの報道写真はすべて「世界の真実」です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ナパーム弾の少女の名前は「キムフック」
キムフックはこの空襲で重度の火傷を負い、一命は取りとめたものの、この後17回にも及ぶ手術を受けました。彼女を救った当時イギリス・ITNテレビ記者のクリストファー・ウェイン氏が南ベトナム政府の高官に直談判して、キムフックさんを設備の整っていない病院から、当時の旧サイゴン市内のバスキー病院に転院させることに尽力した。ウェインとキムフックは38年後の2010年に、イギリスで再会を果たしました。
1992年にキムフックさんは結婚して2児の母となり、ベトナム人の夫とともにカナダ国籍を取得。1997年11月10日、ユネスコ親善大使に任じられました。2004年10月22日には、世界各地の戦争・紛争に遭遇している子供たちを救済する活動が認められ、カナダ・トロントのヨーク大学から名誉法学博士号を授与されたそうです。
※ウィキペディアより抜粋させて頂きました。
幸せになっていたキムフックさんを知り良かった!と思いましたが
「焼き場に立つ少年」の写真を撮ったジョー・オダネル氏が
何度か日本に来て探したそうですが、分からなかったそうです。
「天安門事件30年を前に各地で中国政府に批判の声」の記事はこちら
1989: Man vs. Chinese tank Tiananmen square
改革開放政策の「胡耀邦(こようほう)元総書記」の死(1989年4月15日)がきっかけとなり、民主化を求める政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まり大規模なデモになった時の映像です。
この事件の話は、中国ではタブーで公の場では論じてはならないことなので
この映像を見ていて、あの青年はどうなったのかと気になっていました。
中国では
天安門事件→六四(リョウスー)もしくは、八九六四(パージョウリヨウスー)と呼ばれて、毎年6月4日前夜に治安警備が従来以上に強化され、スマホ送金など、事件を連想する金額、指定が不可能になっているそうです。
他にも「ピュリツァー賞」の報道写真で衝撃を受けた写真があります。
●焼き場に立つ少年
(直立不動の姿勢で、おんぶした弟の火葬の順番を待つ。)
●ハゲワシと少女
(重篤な栄養失調の少女は少年で、救護により回復する。)
●ナパーム弾の少女
(やけどの少女と、救った元記者と38年ぶり再会する。)
●安全への逃避
(2人の母親と子供たちが、水のなかを歩いて逃げている姿。)
●世界貿易センターへのテロ攻撃・・・落ちてゆく男 などがあります。
南ベトナム軍のナパーム弾を浴びて、服も肌も焼かれて全裸で逃げ惑う「ナパーム弾の少女」の写真を、ポルノ認定で削除されたこともあったそうですが、これらの報道写真はすべて「世界の真実」です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ナパーム弾の少女の名前は「キムフック」
キムフックはこの空襲で重度の火傷を負い、一命は取りとめたものの、この後17回にも及ぶ手術を受けました。彼女を救った当時イギリス・ITNテレビ記者のクリストファー・ウェイン氏が南ベトナム政府の高官に直談判して、キムフックさんを設備の整っていない病院から、当時の旧サイゴン市内のバスキー病院に転院させることに尽力した。ウェインとキムフックは38年後の2010年に、イギリスで再会を果たしました。
1992年にキムフックさんは結婚して2児の母となり、ベトナム人の夫とともにカナダ国籍を取得。1997年11月10日、ユネスコ親善大使に任じられました。2004年10月22日には、世界各地の戦争・紛争に遭遇している子供たちを救済する活動が認められ、カナダ・トロントのヨーク大学から名誉法学博士号を授与されたそうです。
※ウィキペディアより抜粋させて頂きました。
幸せになっていたキムフックさんを知り良かった!と思いましたが
「焼き場に立つ少年」の写真を撮ったジョー・オダネル氏が
何度か日本に来て探したそうですが、分からなかったそうです。