こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

単純化された情報の波に流されない

2020年11月06日 | 電脳化社会
空気が澄んでくるこの時期、夜明けが美しく、つい刻々移り変わる空の様子を表現したくなる。今朝のこの空だったら、”日の出直前、朝比奈の山の向こうにまだ隠れている太陽は、高く浮いている小さめの無数の雲を薄い桃色から橙色に染めている。遠くの空は青と黄色が溶け合ったようで、山と紅葉の目立ってきたケヤキの影を黒々と浮かび上がらせている。”とでもなるか。でも、なんだかくどい。もう少し上手にまとめたいといつも思う。”晩秋の薄明は朝比奈の稜線を浮かび上がらせ、空に浮かぶうろこ雲は曙光を浴びて桃色に返照していた。ケヤキもずいぶん色づいてきた。”などと言い換えることができたらいいな、などと思うが、そうすると今度は訳が分からなくなる。

こういう表現を生み出すには、多くの文章に接して用法を理解していなければできない。重要なのは、語彙数の問題ではない、こういう言葉をどうやって使うかを知っているかどうかということによる。そしてこういう言葉を扱うことができるかは、こういう概念を知っているかということに通じる。スマホを便利に使うことができる様になった現代社会、多くの人がスマホニュースから情報を得ている。それらの情報は即時性が高く、取捨選択も容易である意味ユーザーフレンドリーだ。そこで使われている言葉は平易でわかりやすい。でも、それらは単純化された”単純化された情報”だ。単純化された情報の中には情報こそあれ、概念はない。

単に風景だの季節を表現する程度だったらいいが、いざ、政治的なこと、哲学的なことを表現するとなったら、そういった概念を知らなくてはそれらの生み出す自分にとっての有用なことを得ることはできない。概念を得るのとスマホアプリのいじり方を覚えるのとではわけが違う。自由という概念を知らなければ自由になることはできない。民主主義を知らなければ自らの手で指導者を選ぶことはできない。自由が何か、民主主義が何か、独裁が何か、そういったことのは義務教育でとっくに学んでいるが、人間は学んだことを容易に忘れてしまう。忘れることが悪いわけではなく、RAMには一定量しか保存できないのだから仕方がない。だが、ハードディスクに保存したデータをいつまでも塩漬けにしていたら、それらの”本当はいつも考えていなくてはいけない”重要な概念が消滅してしまう危険がある。最悪なのはファイル名だけ覚えていて、その内容を忘れてしまっていること。うろ覚えのファイルの中身を勝手に想像して、自分なりの自由だ民主主義だといっていると、それらはずいぶん曲解されたものになっているはずだ。
無学な人、というのはそうやって知識の更新をしない、すなわちそんな勉強しない人のことを指すのではないか。そして、スマホの情報ばかりに頼った思考を続けていると、自分も無学な人間に堕落してしまうかもしれないと、不安になる。
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