こんな気持ちでいられたら

人生とは大きくて長いトンネル。
暗闇を歩くのは難しいけど、出口にある光を目指し、自分を信じ、笑顔とともに生きていこう。

がんばってね!

2010年01月31日 | 家族
いよいよ明日、2月1日から神奈川、東京の中学受験が始まる。
三十数年前の私の頃と違って、2月4日頃までに大勢が決まる。我が家も娘が中学を受験する。このブログで「中学受験は必要か?」を書いてから、ほぼ一年がたった。
小学校5年まで塾に通っていなかった娘が、中学受験をしたいと言い出し、家内もそうさせたいということで、N研に行かせることにした。夏の森戸-逗子遠泳大会前後の2週間以外は、勉強漬けの毎日で、3年、4年からやってきた子(5年生からは当たり前)たちに追いつくのに苦労した1年だった。

それにしても、昨今の中学受験模様の変わりようには驚いた。去年、思った進学塾と中高一貫校の協力関係、というのはそのとおりだったが、もっと驚いたのは、中高一貫校の生き残り戦略の凄さだ。
大学付属校、系列校の飛躍的な増加はそのひとつだろう。神奈川地区でも中央大学(横浜山手女子学園) 明治学院大学(捜真女学校)青山学院大学(横須賀学院)などが、附属化、連携化をして学生の囲い込みをするようになっている。早稲田や慶應も小学校を作って、いいところの師弟を早めに取り込むようになっているわけだし、よそだって頑張るのは当たり前か。
もうひとつは、”午後受験”。これは塾に勧められたのだが、要するに入試のはしごだ。
我が娘も明日は、午前、午後と横浜地区の学校を受験する。午後の試験で生徒を募集する学校は、近年進学に力を入れてきた学校で、非常に熱心な教育をする、と校長自らが宣伝部長のような感じで頑張っている。そういった学校は、トップ校を落ちていても、中学受験のための勉強をした、教育熱心な家庭の子であるということで、入って欲しいのだろう。
私たちの頃と違って、序列ははっきりしているものの、トップ校を目指すのが偉いわけではなく、それぞれの力に応じた学校を堂々と選ぶ時代に移っているということも感じる(これは女の子だから思うことかもしれないが)。

歩いてすぐのところ(娘の通学路)に、荏柄天神があり、家内と3人でお参りした。
「そういえば、毎日天神様の前を通っていたんだね」と尋ねると「そうだよ」。
そう聞いて、明日の受験のことよりも、これまでの娘の小学校生活の6年間がもうすぐ終わることを思った。「もうこの道を通るのも、2ヶ月無いね」「あと、30日くらいだよ」。

体調は、特に悪くないようだから、この1年間で頑張った力を発揮して欲しい。
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病院で死ぬことと病理解剖・・・注3)病理解剖はなんのために行うのか?

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
病理解剖は完璧ではない。窒息にしても、不整脈にしても、行った医療行為が、絶対にその死因に結びついているかを証明することはできない。だから、医療ミスはせいぜい、手術の失敗、患者の取り違え、投薬ミス、などに限られる。

人が死ぬとき、その原因がわかるときと分からないときがある。
出血多量による死亡でも、事故などで大きな血管が体の表面から切られた場合は、原因として確定できるが、同じ事故でも体の中への出血であれば、解剖をしないとわからない。
あざでもがあればわかるが、そういったものがわからいときもある。そんなとき、もしかすると、”事件性なし”と警察官が判断して終わってしまう、ということもある。
病院で死ぬと、病理解剖を行うが、病理解剖の目的はそもそも、「その人の死を通じて、未来の医療に役立てるため」だ。医療係争のためではない。
私は医学の発展に尊いご協力をいただいた、ご遺族にも感謝し、ご遺体にも畏敬の念を持って解剖にあたる。
”医学の発展”ということは、現代の医学が完璧ではない、ということを示している。もちろん完璧ではない。というより、分からない事だらけだ。脳などのことはほとんどわかっていないし、心臓がどのくらい弱っていると止まるのか、なんてことも厳密にはわからない。これに、各種の治療、薬剤が加わってくるのだから、それぞれがどんな影響を、時間的、空間的に及ぼしあっているのか、なんていうことは本当のところ、わからない。

だから、病理解剖を行って医学の進歩に役立てていくのだ。
病理解剖は医療ミスを見つけるためのものではない。病理解剖を行って、病気本来の不利益、以外の原因が発見されたときに、医療ミスが明らかになる、かもしれないのだ。

病理解剖は病気の原因を明らかにすることで、医療の、医学の向上に資するためにおこなうべきものだと考えている。
そして、そのことは、”医療亡国論”の観点からはもっとも理解されておらず、病理医自身が、そのモチベーションを保ちづらくなっている。
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病院で死ぬことと病理解剖・・・注2) なぜ、私の代わりの病理医はいなかったのか?

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
日本の病理専門医は2000人に満たない。その病院を関連病院として有する大学病院にも病理医はせいぜい10名程度しかいない。その病理医の殆どは、生きている人間の検査(病理組織検査)に駆り出され、院外の金にならない、トラブルがらみの持ち込み解剖を進んでやろう、という病理医はいないため、私以外にいない。ということになる。

今回の医師不足対策でも小児科、産婦人科が主だ。

病理医の仕事は地味で、患者からの賞賛とは無縁だ。
病理診断の結果を話すのは臨床医の仕事だと思われていて、患者は機械が行う検査結果と同列のものとして、結果を臨床医から聞く。臨床医は、よほどの訓練をしたもの以外、組織の標本は読めないのに、あたかも自らが診断をしたかのように、”自分で解釈した”結果を患者に説明する。

先日、病理外来で患者に直接説明することがあったが、病理診断が最終診断である、という緊張感のなかで説明した。生検結果にせよ、手術結果にせよ、もちろん病理解剖にせよ病理診断結果に疑問がある場合、臨床医にではなく、診断を行った病理医から直接説明をしてもらうようにした方がいい。
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病院で死ぬことと病理解剖・・・注1) 日本の医療はなぜ、何も変わらないのか

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
日本の医療は”生きている人間”には、お金を取れる、ということで関心があるが、一旦死ぬと、次の瞬間からは、それまで嫌というほど撮っていたCT画像一枚撮らなくなる。我が国では人がなぜ死んだのか?ということに対する関心は殆どない。そのため、病院で死んでも、死んだらどうでもいいという医療がまかり通っている。臭いものに蓋、ということを言っているのではない、亡くなったのは仕方ないにしても、それを次の医療につなげていくという、医師としてのモチベーションが無いのだ。だから、病理解剖を行いたい、と思う臨床医はすごく少ない。
だから、病理解剖はみんな嫌いだ。臨床医が嫌がるから、解剖数は減るし、そもそも病理解剖は病院の持ち出しなので、病院にとってはやらないで欲しいことだ。立会う(金を生む)臨床医の時間をとるし、病理医なんていうものを雇わなくてはいけないし、解剖室や標本を作る設備を整えないといけないし・・・
病理医自身は病理解剖を通じて、病気の原因、命の終わりを知るために仕事をしているので、病理解剖は嫌いではない。でも、取り巻く環境がこのような状況であるため、金になる生検を好んで、解剖を自嘲気味に忌避する空気はある。
我々病理医は、病院にとって”不採算部門”の代表格として扱われており、国公立の公的病院においても状況は同じである。我が国の病理を取り巻く環境は完全に負のスパイラルに入っている。

一言言っておくと、そのような中でも、病理解剖を行わせて欲しいという、医療機関は、病理解剖のシステムが有ること自体すごいことだし、証拠を自ら保全しようという意志があるという点で、何もしない病院とは比べようがないほどすごいことだということを知っていて欲しい。
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病院で死ぬことと病理解剖

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
私がこれまでの人生で後悔していること、は多々あるが、その中でも心が締め付けられるようにつらくなることがある。2年前に亡くなった義理の父のことだ。

義父はいくつかの基礎疾患があり、体が弱っていたのだが、それでもすぐに亡くなるような状況ではなかった。リハビリ病院に転院してから2週間ほどたったところだろうか、風邪をこじらせ、急性期病院に転院した。
そしたら、翌日、亡くなった。

どう考えても、不整脈のコントロールが上手でなかったように思われ、私も担当医に問いただそうと思って、説明に臨んだのだが、担当医は延命のためにはこうするしかなかった、とかそういったことばかりに話をそらし、原因については「心臓が弱っていたから」ということばかりだった。

私の経験からも、担当医の言う事は何となく分かるし、解剖を行ってもおそらく予想通りの所見が得られるものと思った。そもそも、普段からほとんど勉強していないような受け応えしかできない医者に何を言ってもしょうがないと呆れてしまった。でも、私が病理医だと名乗っていたので、「あの、先生、病理解剖は?」といったところ、「それは、ここではできません、大学病院まで運んで、そこでやらないと。すぐにはできないので、明日になるでしょうかね」と回答された。
この病院には解剖室はないのか?と尋ねようかと思ったが、総合病院といっても、解剖室なんて、有るか無いか分からないし、あったところで、物置のようになっているだろうし、病理医がここ(私)にいても、介助の臨床検査技師もいる訳ないし、ホルマリンだって十分は無いだろう。と思うと、いざ自分でやろう、という気も萎えてしまった。
闘病生活の長さ、仮に今回亡くなっていないくても、あの体で社会復帰は果たして出来ていただろうか?これで死因が医療ミスだとして、この目の前にいる無能な医者を吊るし上げたところで、日本の医療の何が変わるというのだ(注1)。そして、義父の病理解剖を行うのは私以外にいないという状況下で(注2)、”不整脈”という難しい状況を医療ミスとして証明できるのか(注3)?という、絶望的な考えから、解剖は依頼しなかった。
でも、いま、それでも、解剖を行っておけばよかったと思う。なぜ、義父が亡くなったのか?全てがわからなくても、その一部だけでも解明しておくべきだった。医療ミスかどうかではなく、なぜ、亡くなったのか?そのことを知ろうとする意志を持っておくべきだった。そう後悔している。
私自身が病理解剖のことを全くわかっていなかった。私自身の存在意義を全くわかっていなかった。
この先も、より良い病理医でいたいと思うが、日本の医療がどの方向に向かっていくのか分からない状況の中で、私はどうすればよいのか、自問する日々が続くだろう。
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病理解剖と病理検査

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
植木屋さんに芝を貼ってもらって、今日で外構も終わり。
とりあえず、我が家も完成

家の中から見てもらおうと、植木屋さんに上がってもらい、しばし歓談。
そこで、「病理っていうのは血液とか見るんですか?」と聞かれて、「まあ、血液”も”みますが、ほかに、ほくろとか、がんとか、そういったものを見たり、腎臓とか肝臓とかが調子悪かったら、そういったものがどんな状況にあるかを、顕微鏡で調べるんですよ」とお話した。
「生きている人、の体の一部をしらべて、これらかの治療に役立てる、そういうのを病理検査、っていうんですよ。もうひとつは亡くなった方を調べる、これが病理解剖っていうんです。解剖は、その方がなんで亡くなられたのか?を調べるんですよ」と、続けた。
病理検査というものが一般の人には知られていない。
手術をする外科医とか耳鼻科医が、患者さんの体の一部から組織をとる。その組織がただ炎症で腫れているのか、それとも、他の理由で腫れているのか、それを調べるのが病理(組織)検査で、病理医、という専門の医者が行う診断だ。
だから、結果を説明している医者は自分で診断をつけたわけではない。私たちの病院では病理外来で、直接患者さんに説明する機会を作っているが、他の病院ではそのようなことは殆ど行われていない。
だって、病理医が少なすぎる(日本全国に2000人いない)し、臨床医にとっては別の医者が入ってくるのを嫌がる人もいるし。ただの炎症だったら、病理医がわざわざ出ていく必要はないが、ちょっと込み入った病気の場合は、病理医に相談してみるのもいいかもしれない。

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奥行きある標本

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
木の枝が重なっているのがおわかりだろうか。
というか、何本もの木が平面上に並ぶわけがない。これが写真。
だけど、病理のガラス標本には1枚3μm位の厚みがある。この厚みというのが問題で、細胞のおおきさが、赤血球で9μmくらいで、厚い標本ではこれが重なって、細胞が2個くらい見えて、”奥行きのある”標本になってしまう。
そうなると大ごとで、細胞が実際よりもたくさんいるようにみえてしまい、診断に困ってしまうことがあったりする(細胞診、という分野ではこの奥行きが大事になってくるが、標本の作り方がそもそも違う)。
標本を作るのはほとんどが、臨床検査技師という職種の人で、上手な人は(気温に応じてまで)均質な厚さの標本を作ってくれるが、そうでもないとバラバラで、結構困る。

そうは言っても、病理医が標本まで作っている暇は無いので、お願いしている。より良い診断を目指して、みんなでそれぞれのパートを頑張っている、というのが、病理診断の一面だ。
奥行きのある標本を作るか、そうでないかは、臨床検査技師の双肩にかかっており、病理医がクオリティーの管理を常日頃から期待している点の一つだ。
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地下一階

2010年01月29日 | こんきも
帰りがけに寄ったデパートで、下りに乗った時のこと。
出口のある、一階で降りるつもりだった。すでに、七、八人乗ってて、下のほうの階のボタンが押されていたので大丈夫だろうと思っていたら、一階のボタンは押されておらず、一人を除いてみんな地下一階で降りた。一階に戻るところで、思わずもう一人、私と一緒に「乗り過ごした」人に、「地下で降りる人って多いんですね」と苦笑しながら話してかけてしまった(結構、この間が長かったので)。「ホント、私も気がついて、ボタンをおしたんですけど、間に合いませんでしたね。」
思い込みで、行動すると何が起こるかわからない。ちゃんと確認しないといけなかった。

帰りの電車でも、発車間際に動かなくなった。5分くらいプラットフォームから少し動いた状態で停っていたのだが、あとの車内放送で、発車間際に、閉まるドアに”傘”を入れて乗ろうとした人がいて、その傘(だけ)が挟まって動けなくなった、とのこと。その人も、そうすれば乗れると、とっさに思ったのだろうが・・・事故になってからは、遅いですよ。
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二つの高…高血圧と高血糖

2010年01月28日 | 通勤
NHKの朝のニュースで早朝高血圧が話題になっていた。
高血圧とくればその相方は高血糖、両者は相乗的な生命予後不良因子だ。

血糖値が続いて高い値をとると、血管内皮細胞の具合が悪くなる。同具合がわるいかはよくわからないが、弱くなっているところに、血圧が急に上がったら太い血管はともかく、細い血管は破れやすくなる。とくに、脳の血管はその先に逃げ道がないので、よけいに深刻だ。
そんなんで、脳出血は、脳の血管が詰まってしまう脳梗塞と同じように怖い。

で、出勤前のクソ忙しい時間に血圧測定。おお、病院の健康診断で測るときより20mmHgほども低いではないか。自分が白衣高血圧であることは良く自覚していたのだが、これほどとは。

でも、これって、頭の血管が切れるときは、病院(勤務先)で、ってことなのかな?
となれば、血糖値を高くしないように、間食は慎もう。
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マイカー通勤

2010年01月27日 | 通勤
私の通勤は片道1時間40分だ。2回乗り換えがあるので、乗り継ぎが悪いと2時間近くかかることもある。自動車だと鎌倉からでも都内まで1時間以内だ。休日出勤の時や、某科の迅速の予約が入っている時(帰りが夜中になる)は車で行くが、基本的には電車通勤だ。
マイカー通勤で一番怖いのは飲酒運転だ。もちろん、ハンドルを握る時間が長くなればなるほど、事故を起こす確率は高くなっていくのだが、飲酒運転は確率ではない。
一度でも飲んで運転して、「案外、大丈夫じゃない」なんて思ったら最後、どんどん増えてしまうに違いない。この前なんて、環八で釣行帰りとおぼしきおっさんが、信号待ちで缶ビールを飲んでいるのを見て、たまげた。ああいうのが、子供をはねて、怪我をさせたりしたらどうなるのだろう。
だが、後悔している連中は、自分が不自由になったことだけ言っている。こいつらにつける薬はないものだろうか。
「後悔の日々…」飲酒ドライバー20人の文集(読売新聞) - goo ニュース

さて、マイカー通勤、とくに都内(23区内)へのもので、いいことはあまりないように思う。
飲めないし、運動不足になるし、(職場の)駐車場確保が大変、生活の切り替えが難しい(車=家)、等々。私の勤務先の病院でも、患者さん用の駐車スペースに堂々と車を止めている職員がいて、いやーな気分だ。
でも、急変しやすい患者さんを抱えている臨床科の先生なんかは、車じゃないとやっぱり無理か・・・
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電動自動車(今欲しいけど、今は買えないもの)

2010年01月26日 | gooトラックバック
今欲しいもの、といえば電気の補助がついている自転車(正式には電動アシスト自転車)。
結構、安くなったとはいえ、まだ5万を越える。今度の家は鎌倉の谷戸の中腹にあるので、海に向かって下っていく行きはよいのだが、帰りは、胸突き八丁の坂が最後に待ち構えていることになる。この、5万円、新しい家の外構だ、植栽だといったものに、どんどんお金が出ていって、どうしても工面できない。
ということで、クイズかなにかの景品にでも出ていないだろうか?
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ポカポカ

2010年01月25日 | 鎌倉
昨日、今日と朝は寒いものの昼間は暖かい日が続きますね。
明日はちょっと寒いようだけど。

今度の家は東南に開けた谷戸の中腹に建っているので日当りは良好で、我が家のマルチーズは、昨日のお客さん用に出しておいた折りたたみベンチに座ってご機嫌だ。
いったん、日が暮れると寒いのは真冬なので仕方ないが、春が早く来るのだろうか。  今冬は少し寒かったので、「温暖化、大丈夫じゃない」なんて思っていたが、冬が短くなってしまっただけなのだろうか。

立春まで寒さは続いて欲しいのだが・・・なんか変なお願いだ。
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私の富士山スポット

2010年01月24日 | 鎌倉
今日は新居に初めてお客さんをお招きした。
みんな、東京の人なので、食事は当然魚介類。
買い出しに佐島漁港まで来たら、富士山がとても綺麗だった。
私の富士山スポット、といっても、日常生活の動線上から見るものだ。
湘南からの富士山を見るスポットとしてNo.1は長者ヶ崎。江ノ島を右手前においてみえる富士山の美しさが、”景色”長者たる所以だ。長者ヶ崎の手前の逗子海岸からもいいし、江ノ電の七里ガ浜から鎌倉高校前駅に降りる坂の上からの景色も絶景だ。
職場の病院のある東京からも富士山がよく見えるスポットがある。手前の丹沢はよくみえるが、江ノ島がみえない。
写真は佐島漁港の手前の山の上から見える富士山。海を左手に広く配して、これも美しい。

それにしても、今日は昼間暖かかった。
妻が腕によりをかけて作ってくれた金目鯛の包み焼きは、とっても美味しかった。
買出しに行って、よかった。お客さんもよろこんでくれたかな?
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驚きの景色?景観?光景?・・・珍景(?)

2010年01月23日 | こんきも
娘と某中学校に願書を出しにいった際に遭遇したすごい景色、景観、というか光景。こういう場合、どう表現していいか判らない。

いや、特に絶景とか、悲惨なとか、目を覆いたくなる、とかそういったものではない。
解像度の悪い写真で申し訳ないが、なんと、これ、送電線の鉄塔に緑の布が被せてある状態。
だが、”被せてある”というよりは、風に飛ばされた布が引っかかっている様なものなのだが、その”布”がとてつもなく巨大というわけ。

怪獣映画のようだ。

どうやって引っ掛けたのだろう・・・東電に聞いたら教えてくれるんだろうけど。もしかすると、すでに、ナントカ珍百景とかに、投稿されているかもしれない。そこで、解説でもがあったとしたら、だれか、教えて下さい。

足場かけて、修理でもするんだろうけど、強い風が吹いたらどうするんだろう、なびいたりしちゃわないのだろうか。心配。

もっと、近くで見たかったのだが、塾に行く時間の迫っている娘と一緒だったので、泣く泣く帰ってきた。
合格発表の頃は、何となく”まとも”になっちゃっているだろうな。

うーん、珍景(?)
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天声人語

2010年01月22日 | こんきも
最近つまらないと感じることが多い。
なんでだろうと思って、最近のテーマを思い起こしてみると、政治経済のこと、身の回りにおこったことが主だ。この事自体は昔から変わっていないのだが、よくよく考えてみると、ブログとどこが違うのだろう?という思いに至った。
天声人語はただのブログに成り下がっていた。
となると、星の数ほどあるブログに対抗するのは難しいことだ。多様化の時代、普遍的な話ばかりをしていれば、ありがたがって読むということはなくなりつつあるに違いない。

気になるテーマもある。サラリーマン川柳や、1ヶ月のうちになくなった方の生前の言葉といったことの引用。これって、昔だったら「へえ」とも思っただろうが、「リンクはってないから、後で調べるか」くらいにしかならない。

ブログではないのだから、頑張って、そこらへんのブログより質の高い内容、文章にしないと、「天声人語はしばしば入試に使われます」なんていうのが、そのうち「作家の○○の公式ブログが入試に頻出」なんてことになりかねない
お金を出して新聞を購読して、時間を割いて駄文を読まされる身にもなって欲しい。そういったプレッシャーもストレスになるのか、書いておられる方の、テンションの上がり下がりすら、ときどき感じられてしまう。

天声人語に限らず、ネットメディアの充実は、新聞業界にとって極めて深刻な影響を与えているのだな、と思ってしまう。
私の周りでも新聞をとらない人が増えている。紙媒体を読むということは、人間にとって極めて重要なことだと、思い込んでいるのだが、情報量、簡便性などさまざまのことを考慮すると果たしてこのまま紙媒体は残っていくことができるのか?とさえ思ってしまう。
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