私の勤め先の病院では偶数月の第1水曜日に病理解剖症例の検討を臨床医と病理医とで行うCPC(臨床病理カンファレンス)が開かれる。この病院に来てから十カ月、私が担当させてもらうのは一昨日で五度目となった。
今勤めている病院は一般市中病院なのだけど、専門病院勤めの長かった私には、ありふれた病気も勉強し直さなくてはいけないことが多い。癌取扱い規約は版を重ね、行なうべき染色は増えた。このままでは井の中の蛙だと、専門病院を辞め、五十の手習いよろしく、私が最も尊敬する病理医のところに押しかけ、仕事を通じて指導してもらった。昔取った杵柄と言えるかわからないが、そこそこの診断はできるようになった。だけど、肝心の病理解剖はまだまだだった。
人体病理に関する全ての知識を動員して行う病理解剖は、病理医の仕事としては最難関の業務。全身の諸臓器に亡くなるまでに起こった変化を丹念に調べ、それらの所見を総合して診断する。ほんの少しの見落としや誤った解釈が、臨床診断との齟齬を生み出す。一昨日の症例でも、死因について解釈の難しいところがあり、上司の助けを仰ぐこととなった。私が思いつかなかったような解釈を与えてくれたおかげで、収拾がつかなくなりそうだったディスカッションもなんとか収めることができた。
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CPCが終わった後、上司に「ありがとうございました。それにしても解剖の診断というのは本当に大変ですね」とこぼしたら、「当たり前だよ、僕だって報告書を書くのはいつも本当に苦労しているんだ」と返された。レジェンドといわれるような病理医であってもそうこぼしてしまうほど、病理解剖の報告書を作成するのは難しい。
病理解剖に対する考え方というのはいろいろあって、存在意義について否定的なことを言う人は多い。検査の延長のように考える臨床医は少なくない。だが一昨日のCPCでもいろんなことがわかり、臨床医も病理医も患者さんから学ばせてもらったことがたくさんあった。病理解剖は物理的、経済的そして何より精神的に行うことが難しいが、その存在意義は揺るぎないものだと、改めて感じる。
コツコツとでも前に進む
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