こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

少ししのぎやすくなったかな、でも熱帯夜

2018年08月31日 | 日々思うこと、考えること

冷房を入れなくても寝ていられるようになった。8月の初旬には冷房なしではやっていられなかったけど、もう夜中は必要なくなったようだ。ナイトも大丈夫そうだ。体が慣れたのだろう。部屋の気温は28度だけど、湿度は80%代前半と少しだけ低い。

が、それでも熱帯夜(「夜間(夕方から翌朝まで)の最低気温が摂氏25度以上のこと」)が常態化しているというのは、やっぱり温暖化が進んでいるということで、そのうち”熱帯夜”の定義も、最低気温28度とか30度になっていくに違いない。

今日も快晴。急な雨を除けばいい天気となって、気温も上がっていくだろう。

まだまだ、熱中症が怖い状況だから、妻には気をつけるように言っている。

出張の準備は、まだまだ道半ば。感覚としては、1/3程度。講義の一部はかつて書いた本をテキストとして使うことにした。日本語で書かれているのだけど、図と写真がわかりやすいアトラスなので、言葉は通じるだろう。板書を併用したらいい。

先方にも、その旨、連絡しておこう。

スケジュールがごちゃごちゃ

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宿題代行をさせないと言ったところで

2018年08月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

ネットオークションで、宿題代行をさせないとのニュースを聞いて、いろいろなことを考える、というかそういう考えもあるのかとびっくりした(宿題代行のネット出品禁止 文科省、運営3社と合意 2018.8.29 産経ニュース)。でもまあ、宿題の代行なんてどこからが代行でどこからが自力かなんてわからない。親に手伝ってもらっていたら、親の方が一生懸命になってしまったりなんてことだってある。小学校の宿題なんて大人から見たら簡単そうに見えるから、そうなってしまうのも道理だと思う。

大体、夏休みに宿題を出すこと自体どうなのかとも思う。禁止だなんだとこんなに騒ぐくらいならば、読書感想文なら本を読むことを宿題として、感想文は学校で書かせたらいいのではないか?工作とか家庭科だったら、設計図なり型取りを宿題として学校で完成させたらいいのではないか?

休みは休み、それぞれが思い思いのことをしたらいいのであって、学校が”あるべき休み”を決めることが間違っていやしないか。

私も依然として出張用のスライドがなかなかまとまらないで、四苦八苦。夜中に目が覚めてしまうほどだけど、代行してくれる人はいない。自分で作らなくては人になんて、話すことはできないからだ。専門家が少ないという理由もある。これが私のミッションだと思って最後までやり遂げたいと思ってはいる。

ということで、あと一踏ん張り。

今日も軽めで

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ハイビスカスの花言葉は繊細な美

2018年08月28日 | ガーデニング・菜園・花・緑

2年前の秋の終わり、妻が友人の花屋さんから譲ってもらったハイビスカスの鉢植えがある。行灯仕立て風になっていて、なかなか豪華なものだった。季節が終わり、処分したいのだけどもったいないからどうかと言われ、少々安めにして譲ってもらったのだった。

でも、その年の冬、霜にやられてほとんど全ての葉っぱがダメになってしまった。その後、枯れ枝を抜いていったら前の半分ぐらいの丈になってしまったが、夏がきたらそれなりに葉は出た。今年の冬は霜に当たらないように注意して育てた。その甲斐あってか、この夏は、ぼうぼうながらも枝ぶりは随分良くなり、花も咲き出した。

今朝起きたら、2輪も咲いていた。この秋、たくさん咲いてくれるだろうかと、楽しみになる。

ハイビスカスの花言葉は繊細な美、だそう。1日しか花を咲かせないという特徴を表しているそうだ。

昨夜は帰宅時、ものすごい雷雨となって、停電や冠水もあったらしい。スッと気温が下がるのを期待していたのだけど、最高気温はあまり上がらないようだが、湿度は90%を超える高さ。ナイトと駅に着いた頃には汗だくとなってしまった。まだまだ、気候は厳しい。

夏休みの宿題はまだ

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他人を傷つければ自分も傷つく

2018年08月27日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

他人を傷つければ自分も傷つく。

でも、他人を傷つけている人は同時に自分も傷付いていることに気がつかない。

ましてや子供はいじめが互いを傷つけているということなどわかりはしない。

そして、多くのいじめっ子はそのまま大人になるが、大人になった頃いじめ(もしくはそれを黙認していた)の記憶が蘇り、自分が深く傷ついていたことを知り、傷は心の中に深く刺さったままとなる

この前、”聲の形(こえのかたち)”というアニメ映画が教育テレビ(NHK Eテレ)で放映されていた。

ろう者の方に関わるテーマということが興味深く観た。

内容はろう者の女の子をめぐる話というよりは深刻なイジメ問題の映画だった。

いじめられる側はもちろんだけど、いじめる側も傷つき重い十字架を背負うという話で、どちらかといえば”いじめられない側”にいた私には観ていて辛くなる内容だった。

新聞にもこの時期、いじめに関する記事が多く出ている。

こちらはいじめられっ子に対する救援メッセージの色あいがつよい。

私は児童心理学者ではないので詳しいことはわからないが、子供から大人になっていく過程で、誰かをいじめをしてしまうというのは避けようがないのだろうか。

そして、自我の芽生えなど精神構造の変化が加わっているからコントロールすることも難しいのかもしれない。

誰かが憎いというわけではない、誰かほんの少し異質な存在を際立たせ、いじめないではいられないということがあるのだろうか。

いじめようという心理は大人になっても続く。

卑近な例でいえば、政治家や芸能人のゴシップは”公人”であることを大義名分としたいじめにすぎない。

まあ、いじめられることと引き換えにその場に居るとも言えるが。

今さらとはいえ、私たち大人はどうしたらいじめの軽減化に貢献できるだろう。

子供たちに直接呼びかけることはできないが、パワハラとかセクハラを減らしていくこと、そういう態度を子供たちに示すことが、その一助になるかもしれない。

背中を見せて生きる

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”人生”という大きくて長いトンネルの中で(3)

2018年08月26日 | 生き方について考える

”人生”という大きくて長いトンネルの中で、私たちの魂は、釘を打ち付けてある傾斜のついた板の上を、希望という唯一の光を目指し、右往左往しながら転がっていく。肉体という魂のキャリア(担体)には寿命があり、肉体の活動が停止するとき、希望という光溢れる暗闇からの出口に至り、さまよえる魂はトンネルの外の世界へと解放される。

人生で思い悩むことがあるときには、少しの間目を閉じて、魂のありかを確認する。すべての欲求は魂が欲することであり、誰か他人が強要してくることではない。瞑想などというほどのものでないけれど、少しの間でも目を閉じさえすれば魂は暗闇の中でただ転がっているものであること、肉体は魂を運ぶキャリアでしかなく、執着すべきものではないことが自覚できる。魂のことをそれぞれの大脳が紡ぎだす幻影のようにいうがそんなことはない。遺伝子こそが魂なのだ。それぞれの人の細胞をなす遺伝子こそが魂なのだと思う。

だけど、現実世界にはすでに光と音が溢れている。ほとんどは無駄な明滅であり無秩序な騒音でしかないのに、ほとんどの人間はそれにとらわれ、目を閉じるチャンスを失っている。そういう意味で魂を感じるということは難しいことだ。それでも日々続けていくことで、それぞれの魂を救ってあげることはできる。 今回の話をまとめると、 人生とは大きくて長いトンネルである、 人の誕生とはトンネルの中に放り込まれるということ、 肉体とは遺伝子のキャリアにしかすぎずを、トンネルの中は魂が出口を目指して進む。 トンネルの中は真っ暗で何も見えず障害は多い。魂はそんな中を右往左往しながら進んでいく。 日々の悩み、迷いはそんなトンネルの中の障害でしかない。 トンネルの中には沢山の人が歩いていて、互いに助け合ったりぶつかり合ったりするけど、それはそれぞれが必死に出口を目指しているだけのこと。 トンネルの出口には光が溢れていて、すべての人はその光を目指して進んでいる。 暗闇の中にある光とは希望であり、出口にある光とはすなわち希望。 暗闇から解放される時とは死であり、光に包まれる時。 魂を感じることでこれらのことを理解すれば人生を死に向かって受け入れていくことができるかもしれない。

このテーマ、初めは上・中・下で終わらせようと思っていたのだけど、なんだか掴みかけたような気がするので、忘れないようにカテゴリーのひとつに分けて、もう少し続けることにします。

目を閉じることで

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出勤前の片道散歩

2018年08月25日 | 犬との暮らし

犬の散歩は飼い主の義務だ。

一日中家に閉じ込められている犬が唯一外に出ることができるのが散歩なのだから、犬にとっては朝晩のエサの次に嬉しいことであるのは間違いない。

今朝も出勤がてらフラットコーテッドレトリバーのナイト(もうすぐ8歳)を連れて散歩に出た。いつもと気分を変えようと鶴岡八幡宮の境内を通り抜けることにした。

ハスの花が見たいと思って、源氏池の端まで行ったのだけど残念ながらほとんど終わっていた。ラジオ体操をしている方がいて、その中を横切るのだが、みなさん日陰に入っているので、真ん中はガラ空き。犬を連れていてだれかの迷惑になるということはほとんどない。犬嫌いの人もいるしれないけど、視界に入るぐらいは許して欲しい。

池の水面は涼しげに見えるけど、今日はとても暑くなるそうだ。7時前ですでに28度。強風のせいで多少はマシなのかもしれないが、それでも熱風。昼間はどうなることやら。

境内で骨董市が開かれるらしく、すでにテントがたくさん出ていた。正しくは第17回鎌倉骨董祭というらしい。もうそんなになるのかと思うと、少し驚く。強風で品物が飛んでいかないようにするのは大変だろう。

海の方を見ても空は真っ青。今日は大しけだろう。海水浴に来ている人はくれぐれも気をつけて遊んで欲しい。それにしても、ここのところ海を見ていない。明日あたり見に行ってみようか。段葛を駅に向かって歩いていたら、顔見知りの犬に出会った。ナイトとは仲良しの子でしばし遊ばせる。横須賀線の発車時刻にはまだ余裕がある。

そんなところに妻が車で迎えに来てくれた。ナイトと私とで車に乗りこみ、駅まで送ってもらう。車だとあっという間だ。妻はそのままナイトと一緒に帰る。朝でも日差しは強いから、黒犬のナイトにとっても駅までの往復はきついようで、喜んで車に乗り込む。これが”片道”散歩の意味。

さあ、今日も一日、仕事を頑張ろう。別れる時にナイトの頭を撫でてやらなかったので、帰ったらいつもの倍、撫でてやろう。

人生の話の続きは明日

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”人生”という大きくて長いトンネルの中で(2)

2018年08月24日 | 生き方について考える

 

昨日は、人生という大きくて長いトンネルには起伏も壁もあって、これを抜けるために、出口に見えるかすかな光を目指すことが人生というものだというところまで書いた。真っ暗闇の中での上り下りとか壁だから、それはもう誰しも不安だらけになる。そうするうちに閉塞感に襲われるようにもなる。私自身、閉塞感が無いかといえばそんなことは全くなくて、生きていることに息苦しさを感じることはしばしばある。

日々壁にぶつかり、あれこれ悩み、現状を打破したいと試行錯誤しているけれど、それらもすべて面倒になって、このまま閉めてしまったらどうだろうという”仮定”が頭をよぎることもあるが、今のところそれを実行に移すつもりはない。幸い、そんな時に助けを求めることのできる人が、周囲にいるということもある。トンネルの中には自分だけではなく、他人も一緒に放り込まれているということを忘れてはいけないのだ。みんなが一緒に右往左往しているわけだし、時々すれ違ったりぶつかったりしている。

そんな真っ暗なトンネルの中でも生きていたら、ともに手を取り合って生きてくれる人はいるはずだ。はじめに暗闇の中で手を握ってくれていた”親”がいなくなったら、あとは自分一人で生きていくこととなる。一人で歩いていると思うと孤独だが、だれかと触れ合うことは必ずあるのだから、一緒に歩いてくれる人を探したほうがいいだろう。もちろん相手は、異性でも同性でもいい。暗い中をさまよい歩いくのはあくまでも自分であり、その魂が欲することをあえて抑制する必要はない。

”人生”という大きくて長いトンネルの中を希望という光に向かって歩いていくのは、それぞれの人間の魂なのだ。それぞれの魂は下り坂の真っ暗なトンネルの中をスマートボールの玉のように転がり落ちているようにも見える。”魂を救済する”などといっても、その救済者の魂もまた暗闇の中でさまよっている。私たちそれぞれの魂がこの暗闇の中にあるのは必然であるのだから、それを救済することなどできない。ただ一緒に固まって歩けば不安が減ずるという程度のことに過ぎない。

 

目を閉じてみたら誰にでもわかる。

大きくて長いトンネルの暗闇の外には明暗があり、様々な音がある。

そして、自分の魂を感じることができる。

瞑想などという難しいことではない、ちょっとの間目を閉じ、自分を感じてみたらいいだけだ。

スマホを閉じて

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”人生”という大きくて長いトンネルの中で(1)

2018年08月23日 | 生き方について考える

”人生”というものを大きくて長いトンネルに例えてみた。

トンネルの入り口は小さく、もちろん中は真っ暗で何も見えない。好き好んでそんなところに入りたくはないが、とにかく足を踏み入れてしまった以上、右往左往しながらでも前に進むしかない。入り口に戻るということは無に戻るということを意味するからだ。トンネルの外の世界は(たぶん)明るくて、無限に広がいのだけど、トンネルの中にいる限りそのことは知り得ない。大きくて長いといっても、それは他人との比較の問題ではない。それぞれの人にとって人生は全てだから”空間的広がり”とか”時間”という概念はそこには必要ない。人生イコール1(人)だ。

大きくて長いトンネルの中には自分以外にも多くの人がいる。その人たちもまた、自分と同じように真っ暗なトンネルの中で右往左往している。まっすぐ歩いているつもりでも、他人にぶつかりながらで多大な迷惑をかけている人もいれば、周囲に対して注意深くそっと歩いている人もいる。なにせ真っ暗だから正しい道など誰にもわからない。たまに、歩くことをやめてしゃがみこんでいる人だっている。でも、歩みの早い遅いはあっても、みんな真っ暗なトンネルの中を出口に向かって歩いている。では、どうやって出口に向かっているのだろう。

トンネルの中には様々な程度の起伏があり、壁がある。でも、トンネルの出口にはかすかな光があって、誰もが暗闇から抜け出るためにそこを目指す、それが生きることなのではないかと私は思う。その光が、希望とよばれるものかもしれないが、希望は人生の終わりにしかない。

人はみなその出口にある希望という名の光を目指して、右往左往しながらも進んでいく。それがそれぞれの人生なのだ。

人間に限った話ということで

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障害者雇用者数のごまかし

2018年08月22日 | 生き方について考える

中央省庁での障害者雇用者数に水増しがあったことが明るみに出た(障害者雇用水増し拡大 野党追及、13府省庁「精査中」 日経新聞8/21  記事は下記参照)。障害者雇用促進法に基づいて、障害のある人をある一定数雇用しなくてはいけないのに、その数を水増しして要件を満たす程度に雇用していたようにごまかしていたらしい。法律化しないと達成できないようなことだから、法律化したのにそれを役所が守っていなかったのだから、まったく情けない。役人というのは本当に役に立たない人なのか?”1976年の法改正時から”ということだから、かれこれ40年になる。”野党が追求”などと言っているけれど、非自民政権時代もそうだったということだから、同じ穴の狢だ。政治家にいまさら期待もできないが、障害者は政治から置き去りにされていたということだとすればいたたまれない。

今のところ私にはこれといった障害は無く障害者手帳は持っていない。だから障害者と呼ばれる人の立場になることはできないが、身の回りには障害者と呼ばれる人はいるので、どのような人が障害者とされるかはわかっているつもりだ。人間誰にでも、それなりに個性があって、他の人から見て、それは助けを得なくてはいけないものであるかもしれない。一見して助けが必要とわかる障害、わからない障害というものがある。

2年前に”社会は健常者のスタンダードにあわせて動いているだけで、健常者以外の人はそれに合わせるのが大変(社会的弱者のことを考えながら生きる 2016年08月13日 )”ということを書いた。社会とは最大公約数的な”健常者”の範疇で構成されているのではない。障害者を雇用したら、役所にも障害者の視点からの施策というものが生まれてくるに違いない。

昨日の帰宅時、車椅子で電車に乗っていた人がいた。気をつけていたのだろうけど、何かのはずみで車椅子が勢いよくクルリと回ってしまった。私も慌てて立ち上がって、付き添いの人と一緒に抑え、ことなきを得た。そのあと、大変恐縮しておられたのが印象に残った。それほど恐縮しなくてもいいのに、と思ったがそうもいかないだろう。自分のそんな姿は見られたくなかったかもしれない。障害がある、と他人から見られるということ自体、辛いことでありそのようなことを無くしていく努力が社会全体に必要だ。

障害のある人が当たり前に世の中にいるという社会を作り、何らかの障害がある人が、社会的に活躍する道というものを切り拓いて行くことが、新たな社会を生み出していくという発想が必要だと思う。

障害を持つかもしれないと自覚する

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障害者雇用水増し拡大 野党追及、13府省庁「精査中」日経新聞8/21より

 中央省庁の障害者雇用に水増しの疑いのある問題が拡大の様相を見せている。立憲民主党などの野党は21日、国会内で厚生労働省や財務省、内閣府など13府省庁からヒアリングし、徹底調査を要求した。同日、法務省で水増しの可能性が浮上したほか、静岡県など地方自治体でも新たに発覚。障害者雇用に関する国のガイドラインが順守されていない実態が浮き彫りになっており、広く行政機関で長年続いていた可能性がある。中央省庁の障害者雇用数が水増しされていた問題を巡り、国会内で開かれた野党合同ヒアリング。手前は関係府省庁の担当者=共同(写真略) 野党はヒアリングで厚労省が水増しを認識した時期や調査の完了時期を問いただした。関係省庁はいずれも事実関係に関し「精査中」と答えた。他省の出席者は厚労省の調査について「6月20日に再点検の依頼があった」と説明した。 立憲民主党の福山哲郎幹事長は21日の記者会見で「組織的改ざんともいえる。各省庁で水増しの手法を共有していたのではないか」と訴えた。同党の辻元清美国会対策委員長は国会内で自民党の森山裕国対委員長と会談し、衆院厚生労働委員会での閉会中審査を申し入れた。森山氏は「厚労省で調査を急いでもらい、委員会ができるかは真摯に検討したい」と語った。 与党からも苦言が相次いでいる。自民党の竹下亘総務会長は記者会見で「障害を持っている方々に対して思いやりが足りない」と批判した。吉田博美参院幹事長は記者会見で「遺憾に感じる」と話した。 障害者雇用の水増しを巡っては、国土交通省や農林水産省のほか、21日には法務省でも障害者手帳などを確認せずに、雇用率に算入していた可能性が新たに浮上した。すでに野田聖子総務相が総務省であったと認めている。総務省担当者が「ほぼ、どの省においても同じような実態だった」と説明したと、野田氏は指摘している。 障害者雇用促進法では企業や公的機関に一定割合の障害者を雇うよう義務付けている。国や自治体の法定雇用率は現在、2.5%と、民間企業の2.2%より高い水準にある。厚労省のガイドラインでは障害者雇用率に算入する対象者は、身体障害者手帳などを持つ人が原則となる。水増し問題に共通するのは、担当者が障害者手帳や診断書などを確認せずに雇用数に含めていたことにある。いずれも不正な水増しはないとしている。 厚労省によると、国の行政機関全体で障害者雇用数は約6800人で、うち厚労省は1442人、国交省は890人、法務省は802人。国全体では法定雇用率と同じ2.5%となっている。 雇用率の達成を義務付けた1976年の法改正時から水増しが続いていた疑いがある。野党ヒアリングに出席した日本障害者協議会の藤井克徳代表は「お手盛りの検証ではなく、当事者を含めた検証が必要だ」と語った。 水増しは中央省庁から地方自治体にも波及。愛媛や山形県がすでに公表したほか、埼玉、静岡、長崎、佐賀県でも水増しの疑いを公表した。全都道府県が17年6月時点で法定雇用率を達成しているとしていた。しかし、実際には法定雇用率を下回ることが予想される。民間企業は法定雇用率を下回ると、1人当たり5万円の納付金を求められる一方で、行政機関にはこうしたペナルティーはない。野党からは「民間と比べて官庁は甘すぎる」との批判が出ており、第三者を交えた徹底した究明や検証が求められそうだ。 14年には厚労省が所管する独立行政法人、労働者健康福祉機構で障害者雇用率の水増しが発覚。機構を調査した第三者委員会は組織的な関与を指摘していた。無所属の会の黒岩宇洋衆院議員は野党ヒアリングで「第三者委員会で調べるしかない」と述べた。


文句を言っているだけではダメか

2018年08月21日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

政治、経済、社会で気になることがたくさん起きている。権力者やその周囲の人たちに対して”白紙委任”していたということに気が付いた人が、ツイッターとかフェイスブックで怒っている。でも、文句を言うばかりで何か行動を起こしているかというとそうでないように思える。”お上”がすることに口は出さない。そんな考え方も、私が50歳前までだったら許されたかもしれない。でも、人生残り半分を切った今、私がしなくてはいけないことは、この世の中を受け入れるだけではいけないのだと思うようになってきた。

世の中で起こっていることで、私に見えることはほんのわずかだ。それでも、身の回りでも困ったことがたくさん起こっている。医療業界でも、医者不足の問題と医学部入試のことから介護の問題、果ては医療従事者の働き方の問題まで枚挙にいとまがない。病理医不足なども解決の見込みの全くない問題の一つだ。ブログを立ち上げた十年前、病理医不足は深刻だったが、今だに不足は解消されていないどころか、より深刻になっている。病理医の仕事がどんどん増えて、人数が少々増えても追いつかないのだ。人的資源を集約化するということも検討されているが、施設ごとに病理医が配置されなくては医療の質は下がる。結果として施設間で病理医は取り合いとなっている。

でも、もうこんな文句を言っているだけではダメで、なぜ、こうなったのかを考えるよりもこの状況をなんとかしなくてはいけないのだ。

今、ダメなことに手をつけないでいたら、そのことはさらにダメになってしまう。それらのことが改善されないままきてしまったのは自分たちにも責任があるのだ。

問題はもちろん、病理のことだけではない。

社会のいろいろなところで、疲弊と歪みが生じている。以前は気がつかれなかったことも、ネット社会では隠しようがない事態に至っているのだ。誰かに文句を言って戦うよりも、まずは自分でできることを見つけなくてはいけない。

自分が動く年

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タカサゴユリという外来種

2018年08月20日 | ガーデニング・菜園・花・緑

この百合はタカサゴユリという種類だそうで、台湾原産。大正時代に入ってきたというから、それほど新しいものではないようだ。

一昨年あたりから、うちの庭にも咲き出して今ではあちらこちら6株ぐらいある。

背が高くて美しいので、外来種といえど抜いて駆除しようという気にはならないでいる。ただ、繁殖力が強いらしいからある程度以上増えたら対応が必要になるかもしれない。

百合には色々な種類があって、詳細には区別がつかない。結婚式で出てくる大きなカサブランカと以前から野山に咲いているヤマユリ(ササユリ)ぐらいしか名前はわからない。黄色い百合とかオレンジ色の百合とかがあるのは知っているけど、名前までは知らない。

ナガミヒナゲシという、ポピーのような淡いオレンジ色の花が、数年前から爆発的に増えているけれど、このタカサゴユリも結構な繁殖力で広がっているようだ。以前、コストコで花野草の種というのを買って庭に撒いたのだけど、それらはあまり広がってくれないでいる。それに比べてタカサゴユリは植えた覚えのない植木鉢からも育っていて驚きだ。

外来種に対してなんとなく違和感を感じるのは、本来植えた覚えのないところに育って咲くからなのだろう。思っていたのと違うところに大きな目立つ花が咲いたら、誰だってびっくりする。ユリは連作に弱いので放っておくと2、3年でダメになる。このタカサゴユリも、数年で咲かなくなるだろうから、その間は様子を見ていよう。

少しずつ移動してあちこちに咲いたりして

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明日できることは明日・・・

2018年08月19日 | 日々思うこと、考えること

夏休みの終わり、宿題は全く進まなかったのを思い出す。

結局今日も1日、裏庭の掃除をしていて終わってしまった。しばらく前から気になっていた苔を高圧洗浄機で落としていたら、あっという間に半日すぎてしまった。

泥だらけになり、終わったらもう夕方。気が付けば、月が明るく輝いていた。

結局、出張の準備は全く進まないまま。

1日無駄に過ごしたわけではないので、良しとして明日から頑張ろう。

こんなものだ

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夏休みの宿題、大ピンチ

2018年08月18日 | 鎌倉暮らし

夏休みの宿題、といっても私の宿題は何か点数をつけられるものというわけではないが、9月に入ったらすぐに出張があり、そこでいくつか話さなくてはいけないのだが、そのためのスライドがなかなかできないでいる。

出張だからある程度は勤務時間内に準備をしても許されるのだが、とにかくここのところ毎日の仕事が忙しく、準備する暇がない。でも出張は確実にやってくる(夏の終わり 2010年08月22日 )。

もう後がないと思っているようで、妻によると、寝言で「間に合わない!」なんて口走っているほどらしい。確かにこのところ寝不足でこの前の病理学会前の状況によく似ている。

今日は月に一度の土曜休日。そんなわけで、準備をしに病院に行こうと昨日から考えていた。

でも・・・。

鎌倉の正午、気温は28度、湿度は50%。そよ風が心地よく、日陰にいたら肌はサラサラ。ナイトは足元でいびきをかいて寝ている。今朝の散歩ではとても元気だった。おそらく、少なくとも関東一円は、爽やかな夏の日となり、多くの人が土曜日を思い思いに過ごしていることだろう。

この気候、明日の日曜日まで続くとのこと。もう、動けない。家で、できることだけしようと思ってしまう。

昔作ったスライドをあれこれ引っ張り出してみる。そうしてみると、使えそうな掘り出し物がいくつか出てきた。

よし、今日の記事もアップした。

午後は家で過去のスライド発掘の日にしよう。

掘り出し物といってもネットで売れるわけではない

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男は要るか、要らないか?(下)男女は何を成してきたか

2018年08月17日 | 愛と女性とジェンダーと

男なんて要らない、というのは乱暴な言い方で、少なくとも生物の多様性の維持のためには必要な存在であることは間違いない。

かといって、あんまり自分勝手にのさばっていたら、やっぱり女性に三行半を突きつけられてしまうだろう。女性がいるからこそ男性は頑張るのに、もし女性にそっぽを向かれてしまったら、男性は寂しくなってしまう。私も含め、ダメな男はたくさんいて、生物学的多様性の維持以外に男性が必要かといわれると心もとないのは確かだ。

結局のところ、現代社会において、生殖活動以外の点では男は女性の苦手とすることを補完していくこと以外に存在意義はないと自覚するべきだろう。政治とか戦争がまわらないという危惧があるが、政治・行政といったシステムはほぼ完成していていじる必要はほとんどないし、戦争はしなければいい。どれも男性目線の議論だ。

昔、政治家というのは男であることが当たり前だったような気がするが、今朝、現総理と総理経験者が休暇でゴルフを楽しんだというニュースを見て、違和感を感じた。映っているのはみんな男。みんな男であることが悪いのではなく、男しか映っていないのが気持ち悪いように思えたのだ。こういう感覚を持つ人は今後増えていくだろうから、世の中は少しずつ変わっていくに違いない。

生物学的な多様性と同じように、様々な分野に女性が進出すれば考え方にも多様性が生まれる。今は、まだ男性医師の負担が多いけれど、そのうち、そういった負担が軽減されていく道が開けるかもしれない。男性が男性に支配されるよりは、女性に支配される方が抵抗は少ないのではないか。もちろん、その裏にその女性を利用してのうのうとしている男がいないという前提ではある。人間社会は、数頭のメスが一頭のオスを支えるライオンの群れになってはいけない。

ジェンダー論争というものは、ある意味男性の持ってきた既得権を維持するための男性と女性の対立だ。だが、SNSで多くの女性が色々な声を発しているのを聞くと、多くの人が男性にとっても受け入れることが可能なことを言っているのがわかる。女性は男性のことを敵視などしていないのに、男性の側の方が、ピリピリしている。男性にとって女性の考え方というのは謎が多い。女性同士でもそうだという人がいるほどなのだから、全くそうなのだろう。

車窓から見える多くの建物、鉄道の線路、道路、自動車。こういったものの多くは男性の力なしにはできなかったはずだ。力仕事がはじめにあったからこそ、今ある社会というものがある。現代社会を否定することはできない以上、男女とも、これまでの人類の歴史の中で、それぞれが何をなしてきたのかという点に着目し、理解を深めてお互いの努力を讃え合っていくことが、これからの人類が行うべきことではないだろうか。

わかり合うため互いをよく知る

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