こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

働く人の賃金をあげないできたのは誰のため?

2022年06月30日 | 日本のこと、世界のこと
 朝から暑い。だるくて、働く気(というか遠距離通勤する気)が失せそうになるが、多少なりとも私が役に立てる場所があるうちはそうも言っていられない。今日明日と頑張ったら、週末は一応休み。来週は気温も少し落ち着く様なのであと一息頑張ろう。

 このところ、日本人の賃金が安いということがにわかに話題になっている。
 いわく、
  30年間上がっていない。
  主要先進国では22位。

 ずいぶん前になるが米国に行ったとき、すでに物価の高さに驚いた。考えてみたら、それは給料が安い貧乏人が、高級店に買い物に行った様なものだった。物価が安く抑えられているとはいうものの、このまま世界中の物価があがったらいつかはついていくのは難しくなる。
 
 賃金が安いままなのはなぜかという分析はいろいろなされているが、今しなくてはいけないのは、分析よりも日本人の賃金をすぐにあげることではないか。所得倍増とまではいかなくても、2割ぐらいあげたら経済も回り出す。

 「コロナの給付金なんて、貯蓄に回されるだけだ」、と当時の財務大臣は言っていたが、自転車操業の現役世代のほとんどは使ったのではないか。そして今、賃金を2割でも3割でも上げたら、そのうち1割、2割は生活費・教育費に使うに違いない。昨日、高齢化対策のことを書いたけど、現役世代は給料が安いから子供を持つことが怖くなるし、おのずと結婚も遠慮したくなる。私自身、3人目を持つことは教育費を考えると諦めざるを得なかった。

 原資はどうする、という話になるのだろうが、30年間賃金が抑えられてきたということは、その間働く人は経営者によって搾取されていたという事で、賃金をあげるということはその分を吐き出してもらうだけにすぎない。それが難しいのなら、政府が肩代わりして所得税減税。

 労使交渉というのはこれまで何をやってきたのだろう。いつの間にか飼い慣らされていたのではないかと思う。かくいう私も労働運動に加わったことはないし、賃上げ交渉を行ったことなどなく、不平ばかり言ってきたくちなので、いまさらこんなことを言う資格はないのかもしれない。ただ、こういう声を上げる事を、例えば保守革新というような政治的対決の場に持ち込もうとする様に誘導してきたのは、経営者たちか、政府か、それとも両者が結託してか。
 大事なことは、そういう恣意的な色眼鏡をはずし、個人レベルから考えることが必要だと言うことではないか。
左右東西とかではなく

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参議院選挙の争点は目先の物価高より将来の高齢化対策を

2022年06月29日 | 日本のこと、世界のこと
 気持ち悪くなるほどの暑さ。体が慣れていないせいもあるのだろう。通勤通学の人々の顔を見ても皆しんどそうに見える。電車を降りる時に、半袖から出た腕が他人のそれにベタッと触れてお互い様とは分かっていても気分も悪くなる。今朝、テレビでは犬や猫といったペットの熱中症にも注意が必要といっていた。生きとし生けるもの、地球を勝手に蹂躙する人類を懲らしめるためにこのままみんな焼き尽くされてしまうのではないだろうかと不安になるが、巻き添えとなる動物たちは気の毒だ。

 マルチーズのコロ(15歳)がこのところ急速に老けこんでいる。もうここしばらく家ではほとんど寝ているとかで、妻もとても心配している。帰宅すると玄関まで迎えにきてくれていたが、それも最近ではほとんどなく、居間にあるコロの寝床まで行くと物憂げに顔を上げるだけ。これからどんどん暑くなっていくことが余計心配になる。先週末に散歩した時は、日陰の紫陽花の綺麗な道までずっと抱っこして、着いたところでおろして歩かせた。200メートルぐらい歩いたところでだいぶ疲れてきたみたいなので家まで抱っこして帰った。門扉のところで下ろしたら玄関まで歩いてくれた。視力は落ちているようなのだが、不思議なもので見えるものは見えているらしく、人間とは全く別の感覚なのだろう。犬の寿命は最近伸びているみたいだが、さてコロはいつまで元気でいてくれるだろう。

 先日の町内会の集まりで、互いに簡単な家族紹介を行ったが、その時は80歳過ぎの人が多くて驚いた。80歳というと相当な年齢のはずなのに、一体どうしてと思うほど皆さん矍鑠としていた。人間にしても犬にしても、寿命が伸びているのは、栄養、住環境を含む衛生環境の改善によるところが大きいのだろう。何事も変化は何らかの次の変化を引き起こす。それらはいいこともあれば、あまり良くないこともある。
 少子高齢化社会のもっとも重大な問題は、働くことのできなくなった高齢者を若年者が支えなくてはいけないことだと思う。高齢者も老骨に鞭打って何とか働こうとしても限界がある。それに、高齢者が社会の重要なポジションを占め続けるということにも問題はあるだろう。歳を取っても有能な人はいくらでもいるが、そうでない老害を撒き散らす人も多く、そんなことで若い才能の目を摘んでしまうような事があってはならない。

 2025年問題という人類にとって前例のない危機をどうやって迎え、どう乗り切っていくかを考えなくてはならないが、参議院選挙は物価高とか円安の話。目先のことではなく、長期的な視点に立った議論がなぜなされないのかということが最大の問題であるように思う。この話題を出すと高齢者の票が取れないからだろうか。そして、それは高齢者自身が身を切ることを拒絶し、負債を後世に残すことをよしとしているからなのだろうと思ってしまう。私もやがて高齢者となるはずだが、どう備えていくか、よく考えて生きていきたい。
SDG’Sを考える

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思い通りに行くことなんてなにひとつない

2022年06月28日 | 生き方について考える
 早すぎる梅雨明けで、今から8月、9月の水事情が心配だが、こればかりは少しずつ節水、節電することで耐え忍ぶしかない。世界中でエネルギー供給が逼迫し、物価があがるという、世界同時戦時下といっていい状況にどう対応していったらいいのか、考えなくてはならない。

 最近、事が思い通りに運ばず世界でもっとも落ち込んだのは、ウクライナを電撃的に攻め落とし歴史に名を残す英雄にでもなろうという目論見が外れたロシアのプーチン大統領だろう。ウクライナのゼレンスキー大統領にしてみたら、初期の奮戦はうまくいったものの、ロシア軍をそのまま国内から追い出す事ができなかったのは残念だろう。民主主義国群にしてもロシアを経済的に弱体化させて白旗を上げさせようという目論見は外れて、ブーメランのようになって自国を苦しめている。漁夫の利を得ようとしている中国、インドは果たして今何をどう思っているのか、聞いてみたい。そんな中、理不尽に命を奪われた人がいることを認識しておかなくてはならない。

 世の中一時が万事、自分の思い通りに行くことなんてない。人生は選択と決断の連続だ。受験、就職、投資から、日常生活の隅々まで”何かを決めながら”生きていかなくてはならない。その過程で誰にも迷惑をかけないでいられたらいいのだが、そうはいかない。椅子取りゲームと一緒で、自分が座りたいと思う椅子に座りたい人は必ずいるもので、ほんのささやかな願いであっても十分に叶えることは難しい。だからといって願いを叶えることを諦める必要もない、人の世はそういうものだという覚悟を持って生きたらいいだけの話だ。

 人間生まれた時には、腹が減ったら泣いて、暑かったら泣いて、眠くなったら泣いて、とわがままを並べ立てているが、年齢とともに社会が広がっていくにつれ世の中の理不尽さを少しずつ受け入れ、やがては大人になっていく。大人になったらこの理不尽さを理解しないとならないのに、それができない人はたくさんいる。かくいう私もなかなか理解できないから、何かと腹を立ててしまう。

 人生のさまざまな局面を穏やかな気持ちで受け入れる事ができたらいいのだが、家族に対してすらそうできないのはなぜだろうか。結局のところ、人間とは自分のことを一番に考えてしまう存在なのかと思うが、共通の目標があるとそれには力を合わせて進むという面もある。まあ、その目標を達すると途端に仲違いして、こんなはずじゃあなかったと嘆くのが一般的な流れではある。
なぜかを考える

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お金持ちが必ずしも幸せではないのはなぜか

2022年06月27日 | 生き方について考える
 今日も猛暑の予報。このまま太平洋高気圧が広がって梅雨は明けてしまうのだろうが、気象庁が動かないので、気象予報士も困っているように見える。ドイツで開催されているG7サミットでは、ロシアの焼け太りのような状態が見えてきて、あと半年民主主義国家群が耐え切れるかどうかとなっているみたいだ。政治体制の変化のない強権国家群ばかりの世界となったら困るように思うが、そういう世界に変化してしまったらそれはそれで受け入れるようになってしまうのだろうか。今日のエントリー、もう数日前から書いては直し、結局取り下げ、などということを繰り返していて、このままだと塩漬けになってしまいそうなのでその前に世に出しておくことにする。

 先日、お金持ちは必ずしも幸せではないとふと気がついた。なんでそうなのかと言われると答えるのは難しいのだが、そうなのだとしか言えない。ただ、無責任にそう言うのもよくないのでその理由を考えてみた。けっしてお金持ちに対してひがんでいるつもりはない。そもそもお金はいくらあって邪魔にならない。いまでは、スマホの中の通帳の預金額にゼロが一つや二つ増えたところで問題ない。ただ、たくさんあるからといってそれだけでは幸せではない。

 お金があればあるだけ、食べたい時に食べたいものを食べられる。移動には乗り心地のいい車を使うことができるし、広くて快適な家に住み、安全は確保される。ロシアによるウクライナ侵攻で有名になったオリガルヒの客船のようなヨットやプーチン大統領の宮殿なんていうのは富の象徴だろう。ただ、こういった富が幸せに必要なことではない。もちろん、食べてばかりで歩きもせずに食っちゃ寝の生活をしていたら2型糖尿病になりやすくなるからというわけでもない。

 食べたいものがなんでも食べられたら幸せか、高級車に乗ることができたら幸せか、豪邸に住んだら幸せか、地下シェルターを持てたら幸せか。それぞれのことは幸せであることのひとつの表現型とはなりうるものの、幸せそのものではない。ダイヤモンドで腹は満たされない。かといって、全てを相対化してそれぞれの価値を失わせようとしているのでもない。”高価”とか”豪華”とか”贅沢”というものはそれぞれにそれなりの、私には手のとどかない価値がある。ただ、それらに価値を見いだす人にとっては価値のあるものだが、そうでない人にとっては価値はない。

 あるものに対して100人中99人が価値あるものだといっても、1人はそうでないということがあるかもしれない。その1人にとっては価値がないのだから、その人が金持ちだろうがそうでなかろうが関係ない。転売すれば金になるというので価値があるというのなら、それはお金そのものの価値をそのものに反映させているだけの話だ。

 お金はいくらあっても足りない。欲望にはキリがないので、どれだけあったら足りるのかはわからないが、やっぱりお金では買えないものはあって、お金は、あればあるだけいいというわけではない。それぞれの人が分相応と思える程度の生活を送ることができたら、それで十分なのではないだろうか。幸せなんてものは、それほど大それたものではなく、割とささやかなものなのではないかと最近感じる。そうすると、お金持ちだからといって必ずしも幸せなわけはなく、金がないからといって、不幸せと決めつけることもできない。
不誠実な人生は幸せではない

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猛暑の中帰ってきたら七夕飾り

2022年06月26日 | 鎌倉暮らし
 今日もとても暑い1日となった。午前中庭仕事をしたあと、元町で母と妻と娘とランチ。猛暑のせいか人出は少なかった。
 鎌倉に戻ってきたら横浜より涼しかった。段葛の入口、二の鳥居には七夕飾り。
 笹の葉には願い事が。
 今夜も鎌倉殿を見る予定。
 源平池では蓮の花が咲き出していた。
休日バージョン

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お客様2組をおもてなし

2022年06月25日 | 家族のこと
 猛烈な暑さとなった。
 明け方はまだよかったが、9時過ぎにはあっという間に30度近く。
午前中に、息子の嫁のご両親がおいでになり、ケーキとコーヒーで2時間ほど語らった。昨晩から息子も帰ってきていて(彼は義理のご両親の来ることをすっかり忘れていた。嫁は今日明日仕事)、のんびりできたようなできなかったような。
 煩わすことのないようにと気をつかってくれたのか、お昼前にお帰りになった。
 朝から掃除やら何やらやったら疲れたので、昼食のあとちょっとお昼寝。
 夕方になって、娘が高校時代の部活の友達数人を連れてきた。バーベキューをやりたいということで、炭をおこしてやった。あとはできるからというところまで手伝って、あとはおまかせ。
 25の女性相応の話が漏れ聞こえてくると、ずいぶん成長したものだとしみじみ思う。
 彼女らのバーベキューが終わったら、私たちの夕食だ。
 午前午後と2組もお客を迎えると、さすがにちょっと疲れる。

 それにしても暑かった。空はすっかり夏のそれで、さらには来週いっぱい晴れというのだと、もう梅雨明けなんじゃないかとすら思ってしまう。
それなりに楽しい

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猛烈に暑くなりそうなので熱中症には厳重注意!

2022年06月24日 | 日々思うこと、考えること
 朝のうちはまだ雲が出ていたが、7時過ぎにはすっかり晴天。日差しとともに温度は急上昇、地面が吸い溜めていた水分も大量に沸き立って湿度もうなぎ上り。予報では今日の最高気温は30度前後といっていたけれど、実際は32、3度まで上がって、とんでもないことになるんじゃないだろうか。
 忙しい原因の一つと昨日書いた、来週締切のプレゼンの症例の準備。一つどうしても気になる所見があり、そこにこだわって臨床症状とあわせて考えていったら、診断が出た。わからないから病理が診断しろ、という半分クイズ形式の症例検討会で診断させられるというのは見世物小屋の動物みたいでしゃくに触るところだが、引き受けた以上はなんとか片付けなければならず、ほっと一安心。昨晩はゆっくり眠ることができた。あとは、パワポの原稿に手を入れるだけだ。まだ、ほかにもやらなくてはいけないことがあるので今日もこの辺で。身辺雑記を続けてばかりではいけないが、優先順位を考えると仕方がない。
 今朝も妻に駅まで送ってもらったが、車を降りるとき、せっかくの晴れだから外の掃除をしたいなどと言っていたので、15分以上の連続活動はやめて、”真剣に”水分補給をしながら過ごしてほしいと伝えておいた。
危険な暑さ

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ちょっと忙しくなってきて

2022年06月23日 | 日々思うこと、考えること
 恵みの雨も3日続くと早くもうんざりする。今朝も雨は降っていないものの、ジメジメしていて小走りで駅まで来たら電車内ではじっとりと汗が背中ににじむ。朝から頭が痛いのは、締め切りが迫っているプレゼンの準備が遅々として進まないせいもあるに違いない。

 すごく、というほどではないがちょっと忙しく、残念ながら通勤時間をブログのエントリーに充てている暇はない。
 本当は書きたいことはたくさんあるのに書けないというのは残念だが、今日はこの辺りでおしまいにします。
 
書きたい中毒とのせめぎ合い

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花とふれあい命を知る

2022年06月22日 | ガーデニング・菜園・花・緑
 夜中のうちにずいぶん降ったみたいで、あたりはびっしょり。ここ数年、豪雨災害に見舞われることが増えたのは残念だが、これほど水に恵まれている国に住んでいることがいかに幸せなことかを実感しなくてはならない。おとといのショック(左目、今度はボディーソープに直撃される)からまだ完全には立ち直っておらず、なんだか(読み返すと)偉そうなことを書くのも気恥ずかしい。ずっこけた次の日はお花の話でご機嫌なおしということで今日は久しぶりにお花の話。

 妻は最近、近所の花屋さんが開いているフラワーアレンジメントの教室に月に1、2度通っている。この写真は昨日の作品。若い頃には草月をやっていたのでもともと花の扱いとか選び方は上手だが、これまでとは違った雰囲気で生ける様になってきた感じがして、素人目にも新鮮でいい。

 これは私が植えたミリオンベルのはず。この種類はどんどん亜種が増えていてどれがどれだかわからなくなってきた。パンジービオラより難しい。これをブーケの様にしたいと小さな鉢に植えてみたが、ちょっと小さすぎてかわいそうなことをしているみたい。このまま切り戻して芽の数をもっとたくさんにするか、二回りぐらい大きな鉢に移すか悩んでいる。梅雨明けまで考えよう。

 冬の間苦戦したプリムラジュリアン。まさか冬越しするなんて知らなかったので、びっくり。プリムラは別の寄せ植え鉢でも元気に育っているのがあるので、それぞれきちんと手入れしてあげてこの冬には新たな寄せ植え鉢の主役にしてあげたい。
 最後はバラ咲きゼラニウム。バラの様な花が咲くと思っていたのだけどバラの様に咲くだった。買った時は小振りだったのだけど、大きい鉢に植えてしまったせいもあってかちょっと徒長気味。どうやって育てていくか悩みどころ。とりあえず、この夏はのばしてあげるつもり。

 こうして草花をいじっていると、それぞれの命が伝わってくる。虫一匹にしてもそうだが、全ては命あるもの、決しておろそかにしてはいけないと思うようになってきた。
放っておいたらすぐに死ぬ

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左目、今度はボディーソープに直撃される

2022年06月21日 | スポーツ・健康・ダイエット
 写真にもやがかかっているように見えるのは、朝霧のせいで、私の眼の調子が悪いせいではない。と言いたくもなるのはこのところ私の眼が災難続きだから。先週は結膜出血で真っ赤になった左目、出血はほとんど引いて、ヘモジデリンの茶色も残らずよかったと思っていたら、今度はボディーソープに直撃された。

 昨晩、目の高さにちょうどあるボディーソープを入れたボトルを押したら、ノズルの先にこびりついていた塊が本来の向きと違って、物凄い勢いで左目に飛び込んできた。目を閉じるまもなく大量のボディーソープが入ったようで、その直後から気絶しそうな痛みに襲われた。

 ここしばらく感じたことのなかった痛みで、屋根裏で荷物整理をしていてついうっかり立ち上がった時にぶつけた頭の痛みや小指を家具の足にぶつけたときの痛みなどとは比べ物にならない。なにせずっと痛いのだ。痛みだけでなく、"このまま失明するのではないか"という恐怖にも襲われてほとんどパニック。

 とにかく目を洗ったが目玉の裏側まで入っているかのようなしつこさ。シャンプーを逆さまにして洗ったり、風呂に入って風呂のお湯で何度も洗ったり、蛇口から出した水で洗ったりとかあれこれやるうちに少し落ち着き、裸のままで七転八倒というのもなんなので、タオルを巻いて脱衣所の洗面台に移動し、シャワーヘッドを逆さまにしてしばらく洗ったが、なかなか流しきれない。ボディーソープが涙管を伝って鼻腔に流れてきたような香りまでし、この辺りの解剖を思い浮かべて気を紛らわす。そういえば、涙管はただの重層扁平上皮の穴だから、単に、そこを通って流れてきたのだろうか。

 痛みがだいぶ落ち着いたところで、妻と娘と夕食。視力は落ちていないので、結膜だけがやられているのだろうと考えた。ワインを飲んだら疲れが出たのか、わりと早く眠ることができた。

 ところが、夜中に痛みで目が覚め、そのあとは目のことが心配になって目が冴えてしまう。仕事の前に職場の近くの眼科で診てもらおうと考え、開いている右目を使ってスマホで、職場の近所の眼科医院を探してみたら口コミというらしいが、どこも評判はイマイチ。それでも一番近くの眼科の評価が高かったのでそこに行くことにした。

 朝起きたところで、曇った空の写真を撮り、そのあと妻にそのことを伝え、いつもより30分ほど早く弁当を作ってもらって家を出た。とにかくその時点ではまだ失明の恐怖があったので、ブログを書く気にもなれず、今度の発表用スライドの整理をしているうちに着いた。

 眼科ではすぐに診てもらうことができ、問題はとくになくホッとした。顕微鏡仕事も差し支えないとのこと。病理医が目を使えなくなるなんて洒落にもならない。目薬を出してもらってから、職場に向かった。

 無事を妻に伝えたら、

 (シャンプーが目に入ったときなんて)そんなものよ、一週間は痛いわよ

と返されたが、あの凄まじい勢いを知らないからそう言えるのだ。目薬を何度かさしたが、痛みは引かない。それでも不安なままで過ごすよりはよほど良かったと思う。
気をつけて過ごそう

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生きる目的は人に幸せになってもらうこと

2022年06月20日 | 生き方について考える
 新しい週の始まり。薄曇りで、湿度はあっという間に上がってきた。ウクライナ侵攻円安株安インフレ参院選水難事故大地震・・・悲しい出来事、解決すべき問題は山ほどあるが、それぞれをどう考えていくかは難しい。バタフライ効果であったとしても、それぞれの問題相互の関連を読み解くことはできても、関わっている人の立場により、これらをどう捉えるかはそれぞれまったく異なるからだ。

 人はなんのために生きているかということを考える時、前提として人は食べていかなくては生きていけないということがある。人間は食物連鎖の中に入っていないので、他の動物のようにそこらにある動植物を食べて生きていくということができない。では、人間が食べて生きていくにはどうしたらいいか?それには働かなくてはならない。人間は働いたことへの対価、すなわち報酬で食べ物を得、住むところを確保し、ささやかな楽しみの時間をもつ。

 報酬とは何か、他人はなにに貴重な財産(ほとんどの場合はお金なので、以下お金)を払うのか。衣食住娯楽のために、人はお金を稼ぎ、お金を払う。お金を回すということは人間だけのシステムであり、人間の生きる目的となっている。すべては自分を幸せにしてくれるものに対して、お金を払う。お金で買えない幸せはない、という言い方をすると誤解されるかもしれないが、当然のことながら貧富が幸せを規定しているわけではない。裕福でない人も使う額は少ないものの、お金は使う。使うお金のスケール(額)がそれぞれ異なるだけで、お金で幸せを買っているのは誰しも同じで、金持ちが幸せという話になる。
 働くというと、これまたお金を効率よく稼ぐこととなってしまうが、お金を稼がなくても幸せを周りにもたらせば働いていることになる。生きているだけで十分幸せと思ってもらえる人は、生きていてほしいという人の幸せのために生きることが目的である。生きていたらそれだけがお金に変わると単純には表現できないものの、生きている限り、どこかでお金(報酬)が回っている。人はなんのために生きるのか、すなわち人生の目的とは何なのかと考える時、それは人に幸せになってもらうことだといえるだろう。
だから犯罪は許されない

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あまり考えないで過ごすのが休日

2022年06月19日 | 日々思うこと、考えること
 五月晴れというほどではないが、そこそこいい天気となった。
 ちょっと調子の悪かった、洗濯機を掃除したあと、犬猫病院にマルチーズのコロの薬をもらいに行ったついでに少しドライブ、買い物をして帰った。

 いろいろ書きたいことがあったのだが、休みの日はどうも調子が出ない。なぜだろう。そもそもブログを書く動機というか原動力とはいったいなんだろう。おそらく、”それ”があるから書けるのだろうと思うが、それが休日は出てこないみたい。
 ”それ”がなにかわからないのだが、考える方もお休みとなってしまう。まあ、仕方ない。
 
 今日は父の日。私が感謝の言葉を伝えるべく父はもうこの世にいない。昨日は息子夫婦から1日早く、今日は娘からプレゼントをもらった。自分はそれなりに幸せな父親だと思う。
 また、明日からはいつものエントリーに。
 
がんばってね、コロ

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梅雨らしく蒸し暑かった一日

2022年06月18日 | 家族のこと
 梅雨時らしく蒸し暑かった1日。義父の命日で家族で墓参。バラとワインが好きだった故人にそれぞれお供えした。
 精進落としはこれも故人が好きで、わたしたちが結婚した頃、さらには孫が生まれてからもお祝いなどで連れてきてくれた葉山の日影茶屋。
 十三回忌の法要はコロナ禍ということでできなかったが、少しずつ収束に向かっていると感じる。
故人を偲んだ一日

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女の人の言うことはね、ちゃんと聞いた方がいいですよ

2022年06月17日 | 愛と女性とジェンダーと
 今日のタイトルは私が思いついたものではなく、行きつけの床屋さん(男)の言葉。髪型について妻や娘がああだこうだ言ってくるので面倒だと愚痴ったらこう”しみじみ”と諭されたのだった。

 これには続きがあり、

世の中ね、なんだかんだ言って女の人が回しているんですよ

とも。たしかに男がいくら虚勢を張って威張ったところで、世の中半分は女なんだから当然といえば当然の話だ。
 今年の芥川賞・直木賞のノミネート作品が発表され、芥川賞の5人全てが女性、直木賞も5人中4人が女性だそうだ。私が女性の芥川賞受賞を意識し始めたのは、綿矢りさ、金原ひとみが揃って受賞した時で、かれこれ18年前になるそうだ。それまで芥川賞といえば太陽の季節の男根崇拝一辺倒のような気がしていたが、女の子がオタクの背中を蹴るという新たな情景を読み、男性と女性の立場の変化を感じたが、未だにそれが完全に受け入れられていないのは残念だ。
 表現型としての男女の区別より、性自認の視点から男と女をどこで分けるかは難しい。圧倒的に女性的な男がいる一方で、男性的な女もいる。女装家とかオカマのような男性がトレンドになって久しいが、そういった人たちがなぜ“受けるのか”を考えた時、これはやはり女性的な視点にたった思考が多くの人に受け入れられるのだろう。ただ、こういった人たちが十分に活躍できているかというと、まだまだだ。埋没しつつある日本が今の困難な局面を打開するには、女性の登用のみならず、こういった女性的な視点をもつ男性を活用していくのも有用なことなのではないだろうか。

 床屋さんによると、女性の言う通りに行動すれば間違いないということだ。そうしたらモテるし、何かを買うにしてもその通りにしておけば大体は役立つらしい。モテるとか、役立つとかいうのに永続性のないことが若干不安になるが、飽きっぽく、移り気だというのも女性の特性なのだからそれは仕方ない。それに、そのおかげで経済はますます回っていく。私も妻の言う通りにしていたらいいのだろうが、なかなかそうしないものだからしょっちゅう失敗して、結局あとから謝ったり、助けてもらったりすることになっている。

言わんこっちゃない

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凡人はあと10点をとるという努力ができない

2022年06月16日 | 日々思うこと、考えること
 昨日で日本全国が梅雨入りしたそうだ。関東地方はしばらく晴天に恵まれるということだが、通勤の間中、陽の光は厚い雲に遮られていた。

 6月に入ってからというもの、落ち着いて何かに取り組むということができていない。家庭のことも仕事のこともなにもかも適当にというか誤魔化しながら過ごしているような気がする。どれもダメというわけではないのだが、及第点が60点なら70点ぐらい。本当は80点を目指せるのに、あと10点の努力ができない。

 このあと10点を目指すことができないのはなぜか。そのための努力というのがわかっているのでそれが面倒になるのだろうか。もともと能力の高い人というのがいて、そういう人は90点いや100点を比較的容易に取ることができる。

 そんな人だって、人知れず努力していますよ

 という意見もあるだろうが、地頭というものの差はいかんともし難い。同じ努力をしようにも、大谷翔平のような193センチの体をみながみな持っているわけではない。才能のある人の努力に才能のない人の努力が届くわけはない。それでも、”その他大勢”は80点をA評価に設定し、日々コツコツと努力する。

 だが、その80点を目指すのが一苦労なのだ。合格ラインを超えたらホッとして、付け焼き刃の努力をしてそれで終わりとしてしまい、結果として70点前後をウロウロする。ここで80点に届く人は努力する才能があるということになるが、それはまたごく一部で凡人は凡人の枠から飛び出すことはできないままとなる。

 これはこれでストレスが溜まるわけで、”できる限り”の努力を積み重ねていこうと自らを鼓舞したり、オンオフをはっきりしてオンの時に頑張ろうとするものの、すぐに言い訳を考えてしまったり、オフにしっぱなしになったりしてうまくいかない。そして、何事にも王道はないとわかっているのに、特効薬はないものかとまた、安易なことを考えてしまう。
 
まずはToDoリストを見直して

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