こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

大型連休といっても

2016年04月30日 | 日々思うこと、考えること

連休といっても、今年は飛び石。四月から土曜日も勤務日となったので、特別大型という感じはない。それでも、新しい職場で馴れないことが多くて右往左往している中年オヤジにとって、体を休めることができるのはうれしい。明後日、5月2日の月曜日を休めたら十連休。まとまった休みというのはなかなかとれないので今回の休みを有意義なものにしている人も多そうだ。実際、Facebookには長旅への出発の知らせもある。開業医の友人などは患者さんがたくさんで悲鳴をあげていた。大型連休といっても、過ごし方は人それぞれ、それなりに興味深い。


3、4、5日は休日だが、オンコールに入っているうえ、連休明けが締め切りという鬼のような原稿が二本。どれだけやれるかわからないが、構想ぐらいは練っておきたい。となるとあまりのんびりとはしていられない。上司と一緒にせっせと診断を出し、CPCの打ち合わせなどしていたら、あっという間に時間は過ぎる。半ドンなので、午後は久しぶりに床屋さんに行ってサッパリした。来月の病理学会の頃にはちょうど落ち着いているだろう。



月曜の電車すいてくれてたらいいな

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犬の顔

2016年04月29日 | 犬との暮らし

わが家には犬が二頭いる。マルチーズのコロとフラットコーテッドレトリバーのナイトだ。コロは8歳、ナイトはつい先日6歳になった。二頭とも甲乙つけがたいハンサム犬で、私は両方とも大好きだ。せっかくブログを書いているので、それぞれの写真をもっと載せたいのだけど、犬はカメラのレンズが嫌いなようで、なかなかカメラ目線になってくれない。


 

それでもたまにタイミングが合って、いい写真が撮れたときにはすかさずこのブログにアップしている。どんな写真がいいか、最近少し分かったことがある。それは口を開けているかどうか。人間と同じで、犬も口ぽかんより、口をとじているほうが凛々しい。

コロは口を閉じていると、貫禄が出てくるし、ナイトは凛々しくなる。


とはいえ、犬は口を開けて、舌を出しているのがかわいいわけで、人間の尺度でみては無意味だということは分かっている。

 

 ブサ犬が好きという方もいる

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自分で自分をほめるということ

2016年04月28日 | 生き方について考える

人間はどうして他人にほめられようとするのだろう。ほめられるようなことをすれば、誰かから、ごほうびという形とかでなにかをもらえたりするからだろうか。オリンピックの金メダルなんかはその最たるものでトップアスリート達はメダルを目指してしのぎを削る。


あるとき、あるスポーツ選手が「自分で頑張った自分をほめてあげたい」と言って話題になった。その言葉の真意は、その人の中にしかないのでわからないが、それを聞いたそれぞれの人がいろんな思いを持ったのは間違いない。私はその言葉についてその時あまり深く考えることはしなかったが、ここのところその言葉をたびたび思い出すようになった。

自分で自分をほめる、というのは他人による評価は度外視して、自分が自分をよく評価するということだ。自分のことは自分にしかわからないのだから、自分がやっていることというのは自分が一番よくわかっている。可能な限り行ったことならばほめてあげていいし、もうちょっと頑張れたのならそのことを自覚して、つぎ頑張ればいい。


スポーツに限らず、勉強、研究、仕事、なにをするにつけても、すでに評価方法が定まったことをすればその型にはまった人が一番になる。結局、どこまでいってもそこにあるのは他人による評価だ。他人は自分に対してそれほど熱心ではないし、自分のことをわかってくれていない。だから、なにをするにしても、自分が壊れてしまうことがないよう自分との折り合いをつけながら最高のパフォーマンスをすればいいし、それができたとき、自分で自分をほめたらいい。自分を評価するのに他人からの評価は関係ない。

 他人からどう見られているかも

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病理解剖で思うこと(8/10)ミクロ的な死と病理

2016年04月27日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

マクロ的な死に対して、一個の生物としての活動の停止はミクロ的な死といえる。これまで古今の病理医が病理解剖を通して行ってきたのは、このミクロ的な死の検討だった。そして、このミクロ的な死の検討に答えはいまだ見つかっていない。

一つの事象、すなわち病理総論的に分けうる事項については、分子生物学の進歩によりずいぶんわかるようになってきた。 癌をはじめとするほとんどの腫瘍性病変が遺伝子の異常によって生じることは自明だし、先天異常に関する多くの染色体、遺伝子の異常が次々と明らかになってきている。感染症との戦いは抗生物質の開発と公衆衛生学の進歩で、一部を除いてほぼ勝利を得ている。ステロイド剤の細かな作用機序とか、各種薬剤の副作用とか、精神神経疾患の一部などわからないことは少なくないが、時間をかければそれらが解明しうるものだということは分かっている。そして今はそれらの疾患、治療法の効果、転帰についての検索が行われている。

 

ミクロ的な死というのは、これらの延長線上にあるもので、個々の、すなわち先天異常、腫瘍、炎症といった現象の帰結を組織、細胞レベルで評価することにほかならない。だが、それらは人それぞれの中で別々に起きているのではなく、相互の現象が密接に関連しあい、同時進行している。それこそが生命であり、このことの解明がこれからの病理医に求められることだ。

 

われわれ病理医の日常業務の大半は、生検や手術で採取、切除されてきたヒトの組織の診断だ。それらの診断は個々の独立した病態の解明だ。経過など、若干の時間的要因は考慮せねばならないが、だいたいはその病変だけの話で帰結する。ところが、病理解剖は違う。個々の病態を連結させ、その人固有の生物としての一生を解析する作業だ。だから、どれほど単純そうな病態の症例であっても、いざ病理解剖を行ってみるとその人が生きてきた、そして病んだ証があらわとなり、病理医はその複雑さの前に呆然と立ちすくむこととなる。

 

 病理医はその先に向かう

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病理のドラマ、やってたよね

2016年04月26日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

先日あったボーイスカウトのバザーで、コロ健より5,6歳年上の方に、「そういえばこの間(今年の一月から三月の間)、病理のドラマやってたね!視てたよ。」と、言われた。その方は私にはこれまで、買い出しから、天幕の張り方、ガスコンロ・鉄板の設置、焼き鳥、焼きそば等々の作り方から撤収まで諸々のことを教えてきてくれた、バザーの達人というか、バザーのいわばレジェンドのような人で、大変感謝しているし、尊敬している。

そして、なにかあって口を利くたび、私の“病理医”という仕事について聞いてくれ、それを説明する機会があったのだが、具体的にはなかなか分かってもらうことができず、残念な気持ちでいた。

 

彼もそのことが多少は気になっていたのだろうか、長瀬智也が主演で病理医を演じた医療ドラマ『フラジャイル』を視てくれていたようで、今回こんな話をすることができたわけだ。

迅速診断と永久標本による診断の違いなど、細かいところはわかってもらえなかったけど、そもそも病理医というのが医師の仕事の一つであることを理解してもらえたのはよかった。あのドラマで、病理医を志す医学生が急に増えるとは思えないが、こんなことで、病理医の社会的認知度が上がれば徐々にでも増えていくだろう。

このブログだって、一応病理医ブログ

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人には誠実でいよう

2016年04月25日 | 日々思うこと、考えること

めんどくさいな、とか、まあ、いいか、などと思うことがある。なにかするとき、というときたいていは相手がいる。ということは、そのめんどくさい、とか、まあいいか、というのはその相手に対して思っていること、していることといえる。

日常生活のなかで、家族に頼まれたことをそんなふうにしてうっちゃったり、仕事などでの誰かからのメールへの対応をおろそかにしたり。そのほか何やらかやら。

 

それぞれについて、きちんと対応しなくてはいけないということはよくわかっているのだが、なかなか難しい。それでも、相手を大事に思うのなら、相手に対して誠実であるべきだし、そうありたい。

 

 疲れていたりすると特に

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バザーの手伝い、鎌倉閑古鳥

2016年04月24日 | 日々思うこと、考えること

息子が在籍していたボーイスカウトのバザー。息子と私達夫婦でお手伝いに。朝はあいにくの霧雨だった。

観光地鎌倉の人出は天気に左右される。今日はちょっと苦戦しそうだ。コロ犬の担当は焼きそば。

10時の開店時、目の前の段葛を歩く人はほとんどいない。

時折、近所の人や、観光客が訪れるものの、売れ行きは今ひとつ。それでも仕入れたものは今日中に調理しなくてはいけない。

作り続けること半日、14時までに4分の3ほど売ったところで店じまい。昼過ぎには雨もやんだ。

この天候と人出では、まあこの程度だろう。

息子が手伝った手作りピザのほうも同じようなもの。お客さんの取り合いというほどではないが、カレーとピザがライバルだった。一日中、立ちっ放しはずいぶん疲れた。

売り上げは、ボーイスカウトの活動資金にする。年々入団希望者が減っているが、人間力がつくこと間違いない、小さなお子さんがいる方はボーイスカウト運動に参加することをご検討いただきたい。

 おいしくいただいてもらえたかな?

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多肉植物の寄せ植えに挑戦!

2016年04月23日 | ガーデニング・菜園・花・緑

久しぶりに穏やかな日。朝からベランダで寄せ植えの手入れ。

例のミニバラ。紆余曲折あったものの元気だ。とくに今年は初めてしっかり(半分近く)剪定したので、どうなるかと心配していたのだが、思っていたよりも立派に育ってくれて喜んでいる。つぼみはミニバラというレベルを大きく超えていて、咲くのが今から楽しみだ。冬の間、固くなった土を掘り起こしたりとか、土を少し入れ替えたりとかして頑張った甲斐があるというものだ。植わっているのは、ミニバラのほかはスノーシャワー、ナデシコ、スーパーアリッサムそしてアイビー。ミニバラ以外はオリジナルメンバーはいないが、しばらくは仲良くやってほしい。

もう一つ、二回りほど小さい寄せ植え鉢があるのだが、一株分の穴が空いてしまっていた。ずっと気になっていたのだが、先日花屋さんに行った時に目に留まった『福島矢祭町のスカビオサエコーシリーズ』という紫色の花を植えた。この花、これから次々とずっと咲いてくれているらしく、ミニバラとの競演が楽しみだ。

そして、なにより今回がんばったのが、多肉植物。今度の職場、室内に緑がない。都心なので、窓の外はビル。そこで、自分の机の上に緑を置くことの許可を上司にいただき、ささやかな緑を置くことにした。職場をかわるごとにマグカップを買ったりするものだから、結構余っている。もちろん、どれもどこか欠けているので、なんとなく使いづらいものばかり。

それはさておき、計画実行とばかりに花屋で多肉植物が数株入った詰め合わせを買った。

 マグカップ3個に、スヌーピーのクッキーの缶、小さな植木鉢に植えた。これまで、普通の寄せ植えには挑戦してきたが、多肉植物は今回が初めて。さて、どうなるだろう。そして、このうちどれか1個は職場に持っていくことができまで育ってくれるだろうか。

 多肉植物用の土というのがネバネバしていて面白い

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書かれた医学は過去の医学・・・冲中重雄先生の言葉

2016年04月22日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

ここのところ、このブログで病理解剖のことを書いている。もう、年明けから断続的にだから、足かけ4か月。けっこうな期間になる。いつまでたったも結論めいたものが見えてこない。自家撞着というか、コロ健、独りよがりになっているのではないかと不安になり、このことについて書いてあるものがないかと思っていたら、『病理と臨床』という、病理医向けの雑誌の今月号に、“病理側からみた内科臨床と剖検”というタイトルの寄稿があった。

内容は東大第三内科教授として、一時代を築かれた冲中重雄先生の最終講義での有名な「生涯誤診率」のお話をもとにしていて興味深い。これは私の言うところの“ミクロ的な死”の話に通じるもので、これまでの私の話の続きの参考にさせていただきたいと思っている。
それはさておき、その寄稿の中で引用されていた、先生の締めのお言葉が印象深かったので、紹介したい。それは“書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者のなかに明日の医学の教科書の中身がある”というものだ。冲中先生自らの言葉ではないそうで、先生も感銘を受け、その言葉を後進へと贈ったようだ。ちなみにこの最終講義がされたのは1963年、コロ健が生まれた年だから50年以上も前のことだ。少しぐらい時代が変わっても、本質的なことに変わりはないということだ。

先日、「人生は未来にこそある」と書いたけど、私のそれはとても個人的な想いだった。冲中先生は医学者として多くの喜びと葛藤を経験されたに違いない、そしてすべては明日につながるものだと述べ、広い視野に立って後進の医師を励ました。視野の広い狭いは別として、すべては明日にそして未来にあるのだと、常に思いながら生きて行きたい。

出版されたとたんに直したくなる

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病理解剖で思うこと(7/10)マクロ的な死と病理

2016年04月21日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日も書いたが、マクロ的な死というのは“社会的な存在である人間の死”であると考えている。病理医はそこにどのように関わることができるか、私はこれまであまり考えたことはなかった。 臨床医であれば、患者さんを入院させるにせよ、生活習慣の指導にせよ、医療費負担にせよ、患者さんの社会的な存在の部分に大きく関わっていて、当たり前のように考えていることだ。

終末期医療の進歩により、様々な評価方法、基準が提案され、実際に用いられている。だが、その評価方法に病理解剖診断が含まれているという話は聞いたことがない。当然といえば当然のことで、人生は死で永遠に停止するので、生前にさかのぼって評価しても仕方ない。しかしながら、抗がん剤などの治療効果を病理医が評価するようになっていることを考えると、病理医が求められていることはまだまだありそうだ。

 

その一つが病理解剖を通じてのことだ。治療効果の判定は昔から行ってきたことだが、治療の質まではともかく、生活の質(Quality of life)までは検討しようがなかった。マクロ的な死に対する評価というのが必要か、それにあれこれ考えてブログに書くのは勝手だが、このようなことに多忙な病理医が労力をさく余裕があるのか。そもそも病理医が関わる必要があることなのかどうなのか。

 

 病理の現場を考える必要もある

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病理解剖で思うこと(6/10)マクロ的な死とミクロ的な死

2016年04月20日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

私は病理医なので医師として人が死ぬ場面に立ち会うことはないが、仕事柄いつも死ぬことについて考えている。


死とは一体何なのか、私は哲学者でなければ、宗教者でもない。だから、死について勉強したこともなければ、それを説明するのに適当な言葉の持ち合わせもない。ただ、私は病理医として目の前の遺体がなぜ亡くなったのかを病理解剖を行い診断する。死について調べるのに、死について勉強したことがないとは、支離滅裂ないいようだが、本当のことである。

人間が死ぬということには、二つの意味がある。一つはマクロ的、すなわち社会的な存在の死であり、もう一つはミクロ的、すなわち一個の生物としての死だ。病理医としての私が関わっているのはもちろん後者のほうだ。今回のシリーズ(病理解剖で思うこと)の1,2あたりで書いていることだが、病理解剖では亡くなった方の病歴、生活歴をはじめとする疾患と関連する可能性のある社会的な要因は重要な情報だ。そして、亡くなった方の死んだ時の臓器の状態というものと結びつけ、診断していく。 では、その診断とはなにか。なにをもって病理解剖診断とするのか。このことについて、明確な定義はない。というか、あるわけがない。

今日の医学における病理解剖で、亡くなった方におこったいくつかの変化はわかる。 例えば、長年高血圧症であれば心臓には高血圧となるべく変化が生じるので、その臨床経過は想像がつくし、高血圧症の原因もある程度はわかるだろう。だが、同じ死因であっても、それぞれの人がどうやって亡くなって行ったのかまでは分からない。住み馴れた自宅で死んだのか、病院で療養中に死んだのか、それとも集中治療室に運び込まれた直後に死んだのか。どのような治療を、どのぐらい受けてきたのか、などそういったことはあまりわからない。すなわちマクロ的な存在としての患者さんの死についての考察はほとんどなされていない。 マクロ的な死とミクロ的な死。これらについて少し考えてみたい。

 死生観につながること

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財布が消えた

2016年04月19日 | 日々思うこと、考えること

昨晩、帰りに駅前のスーパーで買い物をした。会計をしようというところで、鞄を開いたら財布が見当たらない。大きく開けてみたのだが、やっぱりない。

何食わぬ顔で、「Suikaで(払います)」といって、ピッとやって事なきを得た。それにしてもSuicaはすごい。

さて、家に帰って鞄をひっくり返してみてが、やっぱり財布は出てこない。財布が忽然と消えてしまうなんてこと、記憶にない。すられたかとも思ったが、酒に酔ってはいないし、居眠りもしていない。これは病院に忘れたものと思い定めて、カード会社などへの紛失届は出さないこととした。そして、無事見つかることを祈りながら一晩過ごした。

今朝、病院に着き、医局の机の上を見渡すが、財布は見当たらない。これには少し慌てたが、落ち着いて周りの荷物入れなどを探したら、鞄を置くことにした棚の隅に、ちょこんと財布が立っていた。まあ、中身が少なくて軽いといっても財布がそう簡単に消えるわけがない。金には足があるが、財布にはない。

鞄をしまう時か出すときに落ちたのだろう。全く予想していなかった。

新しい職場で、細かいことがいろいろ違う。貴重品の扱い方だけでなく、気をつけないといけないことはたくさんありそうだ。

 開けた瞬間ホッとした

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人生は未来にこそある

2016年04月18日 | 生き方について考える

今ある自分というのは、これまで生きてきた中でのさまざまなことの積み重ねだ。その結果ともいうべき今の自分を肯定的にとらえるか、それほど肯定できないものとしてとらえるかは人それぞれの考え方次第だ。いずれにせよ、自分は今、生きているし、おそらくこれから先も生きて行きたいと思っている。

では、これまで人生に起きてきたこと、すなわち過去とはいったい何なのだろう。過去のことというのは時間の流れの中に過ぎ去り、これまでの自分の人生で経験したことの痕跡以外の何ものでもないのに、いつまでたってもそれにこだわることがある。果たしてそれは生きていく上で必要なことだろうか。

他人との関係で整理すべき事項はいくつかあるが、それらはすべて社会的の一員として果たさねばならない義務である。だから、それらは本質的に自分の内面の問題である自分の人生とは全く関係ない。だから、今いる社会が自分の自己実現のために不適当ならば、そこから出てしまえばいいだけの話だ。したがって、これから先の人生に過去は関係ない。過去を振り返る必要などなく、今ある自分のすべてを肯定し、今がそれぞれの人の人生の出発点と心を定めて生きる。人生とは未来にこそあるものだ。

 未来に向かって

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こちらは暴風雨

2016年04月17日 | 鎌倉暮らし

風の音で目が覚めた。
まだ雨は降っていなかったので、その前にと犬のナイトの散歩に出かけた。いつもの鶴岡八幡宮まで行って帰るコース。

テレビをつけると熊本地震のことがひっきりなしに報道されている。被災状況は最悪で、ライフラインは未だに復旧しておらず、物資も足りていないようだ。お気の毒な限りだが、何とかしのいでいただきたい。

そんなおり、こちらでは暴風雨。午後になって雨はやんだものの、風は収まらなかった。看板や工事現場の足場が崩れるという事故が相次いだとのこと。亡くなった方もいたらしい。

南米エクアドルでも、M7.7の大地震が起きたとのこと。海に面している鎌倉の人間としては心配な話だが、幸い津波の危険はないとのことで、ホッとした。

日本のみならず、地球上どこでも危険があるということを覚悟しないといけない。

 明日も強風

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若いうちにたくさん勉強してください

2016年04月16日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

せっかく高い金を出して医者になったのだから、さあこれからは稼ぐぞ!と、闘志を燃やす医者は多いし、そもそもそのために医者になる人も少なくない。まだまだ駆け出しの若い医者が、あれこれ小遣いを稼ごうと、勉強そっちのけでバイトに精を出しているのを見ると、残念な気持ちになる。自分の価値が医学部に入るまでの勉強で止まっていることを自覚しないでいるのだろうと思ってしまう。

自慢ではないが、コロ健、中堅私立医大の出身で、学生時代それほど勉強もしなかった。これではいけないと思って、仕事が勉強というか、勉強が仕事のような病理医になった。それでもあまり勉強しないできてしまったので自分のことはあれこれ言うことはできない。ただ、勉強をしている臨床医と勉強していない臨床医の違いは見えるようになった。

研修医レベルでも幅広く勉強している医者は優秀なことがわかる。そして、国家試験がすべての目標だったというような医者はそれまでということもわかる。ずいぶん立派な大学を出ているのに、返事だけで乗り切ろうとしているのをみると情けなくなる(返事すらできない者もいるが)。大学受験、国家試験勉強などは要領で乗り切ることができても、医者の勉強はそうはいかない。若いうちは、発想が豊かでいろいろ発展していくことができる。臨床の現場で経験を積むとともに、論文をたくさん読んで、よく勉強してほしいと思う。日本の医療の将来は、あなたたちにかかっているのだから。

 今があなたのスタートライン

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