こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

寒い大晦日

2017年12月31日 | 日々思うこと、考えること

朝起きたらみぞれにでもなりそうな雨が降っていた。東京都心では初雪が舞ったそうだ。今日は寒い。

幸い通り雨で、お掃除をしに朝から墓参り。お墓もお正月らしく華やかになった。

午後には薄日が差してきた。娘は巫女さんのバイトで近所の神社へ行くということ。息子は地元の友人たちと年越しパーティーとのことで、コロ健は妻のおせち料理作りの手伝いをしながら年を越すことになる。

大晦日にはコロ健、どんな一年だったかと振り返ろうと思っていたが、慌ただしく終わってしまった。

 

明日からの正月三が日は、鎌倉は晴天に恵まれるとのこと。年明けには、七福神巡りをしようと思っている。

さっき、犬の散歩に出かけたら早くもたくさんの人がきていた。今年もまた、たくさんの人が鎌倉を訪れると思うけど、私たちも一緒に巡れたら楽しいに違いない。

今年最後の月の出は、雲の合間から見えたけど、夜には満月となってよくみえるに違いない。

それにしても、寒い1日だった。

みなさま1年間、ありがとうございました

よいお年を

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今年のボツ記事 2017

2017年12月30日 | あの頃のこと…思い出話

毎年恒例にしていた今年のボツ記事、いざ書こうと思ったら去年の書きかけ記事がたくさん出てきた。そこで、『今年のボツ記事 2016(!)』を1年遅れで書いた。と言っても書きかけていたものをコピペしただけだが。

いよいよ、これが本当の今年のボツ記事。やっぱり、記事にならなかったのはそれなりに原因はある。

『捨てる神あれば、拾う神あり』

今回、東京都知事選挙に出馬した、小池百合子さん。自民党から見捨てられ、応援を得られず、それでも自らは自民党員として頑張った。
 彼女のインタビューで、「捨てる神あれば拾う神あり」と、党には見放されたけど、応援してくれる人がいたことを述べ、それを頼みとして頑張り通したのだろう。

『病理のこと・・・シリーズ集』(という、これまでの病理関連記事をまとめようとした)

病理診断科のこと

(1)・・・2007-11-21   (2)・・・2007-11-24  (3)・・・2007-11-25

 病院で死ぬことと病理解剖

注1) 日本の医療はなぜ、何も変わらないのか?・・・2010-01-30

注2) なぜ、私の代わりの病理医はいなかったのか?・・・2010-01-30

注3) 病理解剖は何のために行うのか?・・・2010-01-30

 病理医になるための勉強

2012年02月18日2012年02月19日

 医療を哲学的に考えてみる

(1)(2013年08月05日) (2)『医療』の定義、医術(2013年08月07日) (3)『医療』の定義、病気(2013年08月08日(4)『医療』の定義、治す(2013年08月14日)  (5)『医療』の定義(2013年08月23日) (6)『哲学的に考えてみる』の定義(2013年09月12日) (7)患者の願いはなにか(2013年12月03日)

病理医になるには

『久しぶりにお相撲をみて』

昨日、一昨日とお相撲をテレビ桟敷で観戦した。

たっぷりみるといって、42人中13人が外国出身だった。

『継続は力になるかな?』

このブログが書けなくなりそうになると、「継続は力なり、頑張って続けてください」というコメントをいただいたことがある。

『自分の周りにあることしか話さない人』

昨日、私の歓迎会があって、二次会にカラオケにいった。この前も書いた通りカラオケは好きで若い頃はずいぶんと楽しんだ。だが数年ぶりとなると何を歌っていいかわからない。なんせ、私の半分くらいの歳の人もいる。結局、自分のオハコを何曲かうたって、温かい拍手をいただいた。だが歌いながら別の私が

 あのさー、お前、なん年前の曲を、歌ってるの?それも立て続けに。
 心の奥からそんな声が聞こえてきた。
 "自分の周りにあることしか話さない人。"
 コロ健のやってることはそれかい⁉︎なんて、思ってしまった。

 私は芸能人でもなんでもないので、あまり余計なことを考える必要なんてないのだけど、年をとると余計なことばかり考えてしまう。宴会は参加している人みんなが楽しまなくては意味がない。

『医学と医療と病理学』

『ヤンキーの方が、勉強ができただけで出世したような人よりも、よほど礼をわきまえている。』

この歳になるまで気がつかなかったことがある。「おい、みっともないからやめなよ。」なんて周囲のことを気にするようなことを大人が言ったら何となくその人はヤンキーっぽい。

『"こんな人たち"の生活とバラマキのために私の収入の多くを税金として納めている。』

税金を納める、ということは国を支える人間の一員として義務であることはよくわかっている。国民の誰もが税金を納めなくなったら国体護持は叶わない。

『そんなに不機嫌にしていたら、誰も近づいてこないわよ』

先日の出張の朝、忙しくてイライラしていたら「そんな顔で行ったりしたら、周りの人に嫌われちゃうわよ!」と妻に言われた。

これには続きがあって、「わかっている?”私”だからあなたがそんなでも耐えていられるけれど、そうでない人だったらあっという間にどこかに行ってしまうわよ。それでもいいの?」というものだった。

以前、私は”仕事がいっぱいいっぱいになると、イライラして周りの人が怖くて近づけなる”と言われたことがあった。妻も、そのことは知っていたようで、あまり言いたくはなかったようだったが、先日はよほどひどかったのだろう。私に対して忠告しないではいられなかったようだ。

たしかに、最近また忙しくなってきた。世の中には私などよりもっと忙しい人、多くの仕事を抱えている人というのはいくらでもいる。だが、私には現状が大変なのだ。この歳で新しい職場に4月に移り仕事に慣れてきたところで、学会の仕事やら、研究のことなどとあれこれある。

私でなくてもできるようなことばかりだろうけど、もっとふさわしい人はいるだろうが、私が適任者の一人であることも間違いない。そんな私が引き受けたことでいっぱいいっぱいになっている。そして不機嫌になる。

これまでにも、そういったことはたしかにあった。だから、それを思い出して妻は私に忠告したのだろう。

『初期研修医への病理診断学の指導』

医師臨床研修制度が10年前に始まった時、私は専門病院に勤めていたので、研修医というと後期研修医すなわち将来の方向性がある程度決まっている医者のことだった。医師国家試験に合格してすぐに来る初期研修の医者というのがどんな存在、というか何を考えているのかよくわからないでいた。昨年、一般病院に勤務し初めて初期研修医に接して、どんな感じか少しわかった。今年は、初期研修医指導の2年目、新しい大学病院に移ってからは初めてだ。

初期研修医が病理診断学の研修プログラムの中で学ぶのは、CPCレポートという病理解剖の所見をまとめることで、これを病理医が指導する。病理解剖は病理医として初歩の初歩であり、究極の仕事でもある。研修期間という限られた時間しかない中でそんな大それたことをマスターするなんて土台無理な話なのだけど、病理診断学のさわりだけでも学んで欲しい。

初期研修医なんて学生の延長みたいなもの、なんていうことをまだ初期研修医を知らなかった頃、小耳に挟んだことがあったけど、そんなことはなくて、皆さんよく勉強していて感心した。これが、1年目の医者だったらどうだったかわからないけど、ここでは2年目の医者というのもある程度臨床的なことを理解しているという点では良いのだろう。

そんなことより、嬉しかったのは熱心に病理医のいうことに耳を傾けてくれること。医療の現場で何かとないがしろにされている感を感じるけれど、この研修期間に病理診断学の重要性を少しでも教えることで、そういったことも解消されていくだろうと思える。

『ご恩は忘れずに』

昔お世話になった人。

『考えれば考えるほど悲しくなる国』

昨年、パナマ文書というのが漏れて大騒ぎになって先日は、某国のジャーナリストが暗殺されてニュースになったが、今度はパラダイス文書

ケイマン諸島の租税回避地での文書が漏れた。アメリカの高官だとか、有名歌手、日本の有名漫画家がお金を預けていたということで騒ぎになっている。超富裕層の税逃ればかりではなくて、仙台では勤務していた医師のみならず病院ぐるみで、公正であることが絶対条件である治験に絡む医療機器会社の未公開株を利用しての売却益を得ていたということも話題になっている。一億円以上儲けた医者もいるということだ。その会社が租税回避地に登記していたということで蓄財が明るみに出た。

稼いだ金の一部を税金として支払うのはなかなか辛いが、結局のところ、その国にいる限りはその法律に従うしかない。無駄な税金は払いたくないけど、一定のものは仕方ない。でも、会計検査院の決算報告で国の無駄遣いが874億円というのには涙を禁じ得ない。トランプ米大統領の訪日に合わせてのイバンカ基金への寄付だの武器購入ももちろん税金。女性の起業、国土防衛のためになるのであればこれらを頭ごなしにダメとは言わないけれど、今目の前には貧困で苦しんでいるシングルマザーや被虐待児がたくさんいるし、紛争国では難民が大量に発生している。そちらの方に回すお金は足りているのだろうか。

 トリクルダウンという言葉がある(『金持ちがもっと金持ちになると、貧乏人も金持ちに・・・なるわけない(2008年10月20日)』)けれど、あれはどこまで本当なのだろう。お金持ちは儲けた金をこぼしたりしない。儲けたら儲けた分を溜め込んで、それを周りの人や物に使うということはないのではないか?

日本はもう借金まみれのお金が無い国だ。そんな国なのに、過去(ほんの20年前)の栄光を忘れられずに無理をしているように思える。

『国を背負う人たち』

先日、東南アジアのある国の病理医数名が私の勤務先に視察としていらっしゃった。

『ルイヴィトンとかグッチは日本に無い』

いわゆるブランド品、日本人女性の10人に1人は愛用しているだろう。男性でも財布とかネクタイは一つぐらい何か持っている人は少なからずいるのではないか。
 かつて日本製品が世界各地で受け入れられていったのはその品質の高さ故だった。いわゆるブランド品はその品質を保持するためにたゆまぬ努力を続けている。どこかで手を抜いてしまったのか、最近とんと見なくなったブランドもある。

『ブログを夜書き始めると元気が出ない』

週末の学会の準備が遅々として進んでいないのに、通常の仕事、というか本業の方が忙しくて、何も進まない。さらに、今日ショックなことがあった。

その学会ではセッション一つのお世話をしているのだけど、そのプログラムが主催者側のミスで落丁。全く参る。erratumを出してもらったところで、国際学会なので相手の先生方が気を悪くしないでくれたらいいのだがと心配になる。セッションの場ではホスト国を代表して謝るのは私になるので、私の拙い英語でお詫びの気持ちが伝わるだろうか、今から心配だ。国際問題というのは、意思疎通が上手にできないために生ずるに違いない。

それにしても忙しい。ヘトヘトだ。

こういう時は免疫力も落ちやすくて、先日来の風邪がまた悪化しそう。といっても、誰も助けてくれはしない。私は私で踏ん張らないとならない。


なんてことを、帰りの電車の中で書いていると、なんだか自分が哀れに思えて来る。夜になってからブログを書き始めるということはあまりないので、こんきもは比較的元気なブログだと思っている。だから、こういうのはあまり良くないのだが、今日のプログラムの件はさすがに落ち込んだ。
 でもまあ、そうは言ってももう仕方がない。主催者だってやりたくてやったみすではない。今夜無事に眠れたら、寝て起きたら気持ちを変えていくしかない。
 というか、準備しろ。これでは逃げているだけだ。

日に二度更新というのもどうか

『一昨日の夕食の献立』

一昨日、夕食は家でとった。
その時のメニューはなんだったか、直ぐには思い出せない。
 これは作ってくれた人に対してとても失礼なことだ。

『コロの復調』

先日来、ご心配をおかけしてきたマルチーズのコロだが、おかげさまで復調の兆しが見えてきた。

3系統ともの高度の貧血になって、精も根も尽き果てたようになっていたのだけど、クッシング症候群(副腎皮質機能亢進症)に対する薬を休薬したら症状が改善してきたのだ。薬剤性の副腎皮質機能低下の状態だったのではないかと推測している。

今回のコロの経過は、脱毛と多飲多尿、皮膚の張りの低下などからクッシング症候群(副腎皮質機能亢進症)が疑われ、検査をしたらACTHが高いことがわかって、クッシング症候群と診断された。クッシング症候群は犬でもしばしばみられる病気で、副腎からのステロイドが多く分泌されることで、前記のような症状が出る。したがって、このステロイドが副腎で合成されるのをブロックする薬を飲んで、症状を抑える。

薬物治療の効果は良かったのだけど、どうやら長期投与が良くなかったようだ。

『病気が急によく見える瞬間』

こういうことを書くと、お前は一体何年病理医をやっているのだ、と呆れられてしまいそうだけど、やっぱりそういう時はある。

病理診断をしていると、病気の成り立ちが急に分かる瞬間がある。もともと、誰もが知っていることなのだろうけど、自分で病気の本体を理解しない限りは自分で診断したことにはならない。

癌の診断をする時、その腫瘍の顔とか浸潤の広がりとか、そういったものが理解できていないといつまでたっても癌取り扱い規約に振り回されることになる。

それ以外の病気でもそうだ。

病理標本をじーっと診ていると眼前に患者さんの病態が一気に広がって見えるのだ。そして、それを文章、すなわち診断書に記載する。

『従軍慰安婦問題について考えること』

韓国が従軍慰安婦問題についての日韓合意を見直そうという動きがある。

この問題については、双方の国、いや世界中で風化させることなく語り継ぐ必要があるだろうけど、他国の大使館の前にその問題を象徴するような像を置くというようなことは礼を失していると思う。

日本のニュースでは割と大きい問題として報道されているが、韓国でもやはりそうなのだろうか。行きすぎた対応は両国間の関係を悪化させる以外ない様に思う。

それぞれいいテーマではあった

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去年(!?)のボツ記事 2016

2017年12月30日 | 日々思うこと、考えること

例年恒例としていたボツ記事特集、去年はそれすらしていなかった。ということで、まずは去年のボツ記事を。

『』内はタイトル、本文は当然、書きかけのもので、推敲もなにもしていない。あしからず。

読むとやっぱりネガティブだったり嫌な感じ。でもこれもコロ健の一面でもある。これはこれで私。

『消せない思い』

なかなか消すことのできない思いというのがある。楽しかったこと、嬉しかったことならいいが、これが嫌なこと、辛かったことだとあまりよくない。つい先日、人生は未来にある、と言っていたのに、私は過去に捕らわれ続けている。逆にいえばだからこそ未来にかけたいのかもしれない。過去に捕らわれている理由は二つある。一つは、そのことを忘れるとまた同じことをしでかしてしまう可能性があるから忘れられない。もう一つは、目には目をと、復讐しようと自分にされたことを忘れないのだ。
同じ失敗を繰り返さないため、というのはいいが、復讐心がなかなか消えないというのはつらい。
いつまでたっても、こういうことはよくないというのは知っているのだが、どうしようもないことかも知れないとも思う。
少し前に、やられたらやり返す、倍返しだ、という台詞で人気を博したテレビドラマがあった。仕返しが成功したとき、視ている人は胸のつかえが取れたように拍手喝采、ああいう感覚は人間誰しもが持つどうしようもない業のようなものなのかもしれない。
実際の世の中は小説やドラマとは違う。そう簡単に物事が運ぶわけがない。自分が公正であるならば、堂々と今、幸せであることをかみしめながら生きていれば、十分な意趣返し、復讐となるように思う。

『いいね、結婚式は』

ここ何年か結婚式に呼ばれていない。若い人の非婚化が進んでいるせいもあるだろうけど、それより自分が年を取ってしまったからというのが大きいということに気がついた。年寄りは、結婚式には不要なのだ。というのも、今の職場、近くにいくつか結婚式場があり、今日も、帰りに前を通ったら新郎新婦の友人達が少し赤い顔をし連れ立って歩いていた。そして、結婚式というのは若い人たちに祝ってもらってこそのものだと、つくづく思った。自分たちの結婚式を思い出して、友人のスピーチは覚えていても、両親がどんな顔をしていたのかなんて覚えていない。そんなものだろう。そう思うと、かえって結婚式に出たくなる。私の周りにも何人か適齢期の親戚、知り合いがいる。誰か呼んでくれないかな?

『クスリに手を出したきっかけは』

この間、元プロ野球選手が覚せい剤取締法違反で逮捕された。

『どうしたら後悔を知らせてあげられるのだろう』

私自身の人生で、人を傷つけてしまい後悔していることはたくさんある。でも、人間として生まれて、人のことを傷つけることなく生きていくことなどできない。そして、どの程度まで、傷つけてよくて、どれ以上はだめ、という線もひけない。転ばぬ先の杖、などというがそんなものがあるのかなんて、誰もみたことがないのでわからない。

『男はみんな下衆なのか?』

センテンススプリング(週刊文春)の独走許さじと、今度はフライデーがスクープ。

『臨床医の服装、病理医の服装。』

今年初めに放映された病理医ドラマフラジャイル。実際の病理医にもずいぶん影響を与えているようだ。その一番が、服装だろう。
それはともかく、今のところ二着の背広を毎日交互に着回して毎日仕事に出ている。前の職場で着ていた白衣はまだ引っ越しの段ボール箱に詰めたままだ。そのうち病院から白衣が一着は支給されるだろうから、それまで待って、どうしても必要なときはそれを着ようと思っているが、おそらくそのようなことにはならないだろう。
病理医の服装については前にも考えたことがある。これまでの病理医人生のうち背広を着たのは新人の一時期。先輩に病理医がなに背広なんて着ているんだと言われてからは学会以外では着なくなった。今はIDカードを胸ポケットにつけるので、そこの傷みが気になる。

『おねだりする医者、できない医者』

私の知り合いが、とある有名病院に入院したとき、医者や看護師におねだりされて参ったとこぼしていた。何でも「皆さんでどうぞ」といって差し入れを持って行ったら以前は「患者さんからそのようなものを受け取るわけにはいきません」と固辞されていたのに、今回(7,8年ぶり)は喜んで受け取って、その上その時いなかった看護師にもねだられてまた持っていって、さらにはそれを聞いた医者からもおねだりされたとのこと。え、あの名門病院がと驚いた顔をみせたが、その病院、昔からそういうことを患者に要求することは聞いていたので、さほど驚くことはなかった。
ある程度の経験を持った臨床医で患者さんからお礼をもらったことのない人というのはいるだろうか、おそらくいないだろう。ちょっとしたお菓子から始まって、上は天井知らず。保険診療の制度を云々することになるのであまり突っ込んだことを言う気はないが患者さんにしてみたら、そうやって少しでも経験を積んだ医者に丁寧に診て貰おうとする。魚心あれば水心、実際贈り物の多い少ないで差をつける医者はいるし、出された物を突き返す医者はいない。結果としておねだりする医者も大勢出てくる。こういうことがあるので、医療はそれほど平等ではないと言える。
保険診療の元で働いている医者というのは公務員だと前から思っている。だから、そういう医者はすべての患者さんを均等に診る義務がある。そうしたくない医者は、独自の施設を持って自由診療でやっていくべきだろう。とはいえ、医学部での教育費の多くは税金が投入されていることは忘れてはいけない。医師というのはすべての国民のために養成され、働かせてもらっている。
今さらおねだりする医者を無くすることなどできやしないだろうが、患者さんの権利の保証のためには、せめて研究開発法人とか独立行政法人といった旧国公立病院、国公立大学病院の医師は患者さんからの贈り物は受け取ってはいけないという規則を罰則付きで制定するべきだ。とくに国立病院などは給料が安すぎて医者がやめてしまうからと、舛添要一が厚生労働大臣の時に給料をずいぶん上げたのだから十分だろう。
それでも何とか渡そうとする患者さんはいる。

ずいぶん人気の出たNHKの連続テレビドラマ「朝がきた」。その中で商売が傾いたのち、農家に転じた主人公の義理の兄がいまわの際で言った「人の顔色気にしないで、誰にも媚びずに生きてきた」台詞が印象深かった。

こびずに生きているという点では、病理医もそうだと思っている。実際のところは、媚びようとしても媚びる相手がせいぜい同業者ぐらいしかいないということだ。

『去った人、手をさしのべてくれた人・・・去った人』(本文なし)

『去った人、手をさしのべてくれた人・・・手をさしのべてくれた人』(本文なし)

『ひと月経った』

新しい職場にうつって1ヶ月。馴れないことが多くて、はじめはあたふたしたが、だいぶ馴れてきた。

『物理的な忙しさと精神的な忙しさ』

 来週いっぱい公私合わせて用事がつまっている。一体いつ体を休めたらいいのか分からなくなるぐらいだが仕方ない。人によって活動力には差があるのでどの程度まで無理していいのかわからない。そもそもパフォーマンスを向上させるのに無理をする必要があるかどうかも怪しい。
だが、人から頼まれたことを無碍に断るわけにもいかないので、それぞれになるべく応えていたらだんだんと首が回らなくなってきた。
物理的に忙しいと、精神的な負担も大きくなるが、今のところ気に入ったことしかしていないのでこちらの方のストレスは少ない。
昨日一昨日は仕事関連でアルコール付きの食事をして、今日は中学高校の同窓会。この年で三連ちゃんは少しきつい。

『犬派か猫派か』

犬の散歩で歩いていたら、近所の空き地に猫がいた。

 『注意力、散漫』(本文なし)

『大きな声で返事して』

鎌倉駅に帰ってくると、大声を出している人達がいる。ビーチで飲んで気分好くなっているのだろう。

『スイカ農家』

神奈川県三浦市はスイカの名産地として有名だ。

この間の休み、以前からスイカを譲ってもらっている農家を訪ねた。

巨大なスイカが、土間に積み上げられているのを見るのはいつ見ても圧倒される。

1個20キロ近くあるので、持つのも大変だった。

お野菜も譲ってもらって帰った。

『大変な時、助けてくれた人』(本文なし)

『個々の癌細胞への愛おしさ』(本文なし)

『解剖慰霊祭』(本文なし)

『自分の選択を後悔しない』

誰かが何かを決断したとしても、結局はその人自身の決断であって、他人は関係ない。もちろん、それが独裁者の決断であれば、困る人は多いが、それでもすべてのことは個人レベルの話として落ち着くことになる。私もちょっとした決断をした。このことで少し困る人もいるかもしれないが、たいしたことはないだろう。世の中というものは水と同じで常に隙間ができないようになっている。

だから決断をするにあたって大切なのは人目を気にすることではなくて、自分の決断を後悔しないことだ。人生は短くて、やれることには限界がある。人の言うなりになっていたら、そんなことできない。
何よりも人を大切にしていくことが一番だと考えている。

『どうしたら貧乏と言えるのか』

貧困家庭の取材で、子供が贅沢だと非難した人がたくさんいる。国会議員まで非難したらしい。ではどんな生活をしたら貧乏と認めてめらえるのか?見るからにみすぼらしい格好をして、何もせずじっとしていたらいいというのか。

『地震ではなく爆撃で亡くなる人』

シリアの停戦が崩壊し、多くの人が瓦礫の下敷きとなって亡くなっているそうだ。
瓦礫の下敷きなんて、地震でのことしかありえないと思っていたが、なんたることだろうか。

『今、何がやりたいか?』

夢を持っているということがとても大切だと、いつも思っているのだけど、今、何がやりたいか?と聞かれると答えに困ってしまう。

原因は何か?毎日、ぎゅうぎゅうに仕事が詰まっていて、何も考えることができないとか、今の環境が楽しくて嫌なことがあまりなく満足しているのか。どちらかといえば、前者だと思うのだけど、

『映画 「スターウォーズ ローグワン」』(本文なし)

『お金のやりとり』

忘年会シーズンもたけなわ、頭が痛いのが、会費。
見栄をはる必要はないのだが、どうしても少し多めに払わなくてはいけない局面というのもある。

ずいぶん昔のように思える

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年越しの準備

2017年12月29日 | 日々思うこと、考えること

昨日で年内の勤務は終わり、正月休みに入り、今日はいよいよ大掃除。先日、プチ大掃除をしていたので、第2弾。まだ手首の痛みは残っているが、なんとかなる。一軒家に住むようになって、メンテナンスは自分でしなくてはいけないが、それはそれで楽しい。
掃除をしながら年賀状を印刷し、午後には久しぶりの床屋さん。帰りに先日手術をした親戚のお見舞い。ずいぶん元気そうにしていたのでホッとした。



明日はウッドデッキと玄関扉の塗り直し。明日も暖かい1日であってくれるといいのだが。

これが普通なのかも

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“人それぞれ”がもたらすもの

2017年12月28日 | 日々思うこと、考えること

私、コロ健はこのブログの中で、”人それぞれだから”という言葉をよく使う。この言葉を使う自分が、”人それぞれ”なのだから心を広く持ってそれぞれの人の言いたいことを認めるというポジティブというか寛容な心から出ているのか、”人それぞれ”が勝手放題をすることをいわば黙認するというネガティブな心から出ているのか、よくわからなくなってきた。どちらかといえば後者のニュアンスが強い様に思う。というのも、最近どこかで「多様性などという言葉で、わがままが許されている」というような文章を目にした時、嫌悪感を抱いたと同時に、自分にもそれに同調する感情があることに気がついたから。

”人それぞれ”を野放図に認めたら、社会秩序は保たれずシステムは崩壊する。国家でも会社でも部活動でも、あらゆる”組織”はある程度の強制力をもって”人それぞれ”の考え方を捨てさせなければ強大な力はつかない。

では、その強制力とは何か?

国家のためだというのなら、それはお国のために滅私奉公働くことなのか。一億総活躍社会は言い方を変えた国家総動員思想だといえるけど、人口減少社会の日本が世界レベルに踏みとどまるには、少しでも多くの人が働くことによる労働力の維持しか残されている道はない。でも、過労死問題は滅私奉公を否定して、ゆとりある労働を目指している。そうなると量より質となるが、それならどのような労働環境が効率がいいのかわからない。命を落としたり精神を病んだりしない範囲であればある程度の無理は仕方ないようにも思う。医師の労働環境も問題が多い。残業するのが当たり前で、残業代は頭打ちなんていうのが当たり前でやってきた。病理も当直はないが、毎日夜10時11時まで働くのが当たり前だった。私個人としては、それはいい思い出となっているし、その時がむしゃらに蓄えた力が近年の環境の変化にも程度対応させてくれたと思っている。でも、それがどのように評価されるべきものなのかはわからないし、若い医師が労働環境の向上を口にするのが間違っているとも思えない。

時代は変わった、考え方は変わった、と言うのはあまりにも当たり前で簡単なことだ。でも、それはどう変わったのか?それは全体の幸福を実現するものなのか?という検証はあまり聞こえてこないが、それは私がその言葉に注意を払っていないだけなのかもしれない。

社会には情報が溢れ、考え方が溢れている。これからの”人それぞれ”が尊重される社会はどのようなものとなっていくのだろうか。個人とは何か、自由とは何か、定義が変わりつつあるように思う。

自分の立場も変わったし

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脂っこいものが食べられなくなった

2017年12月27日 | 日々思うこと、考えること

昨晩、若い先生たちが飲みにいくと言っているので、コロ健も混ぜてもらった。駅前の居酒屋に行ったのは良かったのだが、メニューが脂っこいものばかり。

串カツとか、フライドポテトとか、モツ焼き等々、あっさりしたメニューを探しても、そんなものない。

でも、脂っこいものというのは、酒が進んでしまう。脂っこいのはしんどいと思いながらも飲んでしまった。

それにしても、若い先生たちは、脂っこさなんて全く気にならないのだろう。よく食べ、よく飲んでいた。

見ていて、あんな頃もあったものだと思い出した。結局、ミニ忘年会となり、楽しく過ごしたのだけど、胃もたれは今日まで続いた。

胃も年をとる

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病理診断報告書を上手に書きたい!(下)

2017年12月26日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

先週からの続き

この話、病理医としての技術的な問題になる。客観的にみて私自身がどれほどの報告書を書けているのか全く自信がない。臨床医のように生身の人間を患者として扱ってご本人から、「先生のお陰ですっかり良くなりました、ありがとうございます。」などと言ってもらったら自信も持てるだろうが、病理医の場合は違う。お礼を言ってくれる人なんてどこにもいないし、診断はもちろん100パーセント正しいことが前提だ。せいぜいできることと言ったら報告書を書き上げた時に、丁寧に読み直して誤字・脱字の有無をチェックするぐらいしかやりようがない。

定型文を用意して、そこに所見を落とし込むというのは多くの病理医がやっていること。でも、同じ病名がついているからと言っても、一人一人所見は異なる。それらを十把一絡げに同じような診断文で片付けるのも気がひけるが、結局治療法が同じ範囲となるようであればそれでお終いとしてしまう。

生検診断であれば、それがどこから取ってきた組織で、そこに腫瘍があるか無いか、腫瘍があったらどんな腫瘍か、一般的な腫瘍なのか、それとも珍しい特殊な腫瘍であればその詳細。手術検体の診断でも書くことは似たようなものだ。付け加えるとすればリンパ節転移の有無とか切除断端の所見、すなわち腫瘍が取り切れているかどうかといったようなことだ。そのようなことを定型文に落とし込み、多少追加項目を書いていけばんそれで用は足りる。これらのことを一から書いていくと、どこかで書き忘れが生じてしまう。定型文を使うのは仕方がないといえば仕方がないことなのだ。症例によっては臨床的な事項に踏み込むこともある。そんな時注意しなくてはいけないのは、そうすると臨床医にはよりわかりやすくなるけれど、病理のことが手薄になってしまうこともあるし、知ったかぶりをしてトンチンカンなことを書いたら赤恥をかく。

こういうことを考えていくと、腕のいい病理医とは一体どんな医者のことをいうのだろうということに行き着く。見立てはいいけれど、診断書の文章はおざなり、とか、ある病気のことはよく理解しているけど他の疾患については今ひとつ、とか、臨床医と仲が悪い、などなど病理医も十人十色で一長一短で、腕の良し悪しの評価も難しい。病理医として、患者、臨床医に対して誠実な気持ちを持って日々の診断業務を行っていくことが、病理診断報告書を上手に書く何よりの近道だろう。

(このシリーズは一旦終わり)

 

経験と勉強と

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穏やかなクリスマスの朝

2017年12月25日 | 日々思うこと、考えること

夜半の雨のせいだろうか、今朝の鎌倉は靄に包まれていた。6時過ぎに東南の空を通過するということだったISS(国際宇宙ステーション)、活動を開始した金井さんを応援しようと空を見上げたけど、まだ残る雲のせいで残念ながら見ることはできなかった。朝日でオレンジ色に染まった雲は美しく、湿度も高く気持ちがいい。気温はつい数日前0度だったのが嘘のような7.5度。テレビニュースではフィギュアスケートのオリンピック代表が決まったことと北日本の天候が荒れていることがトップニュース。もちろんクリスマスにちなんだ話題も多い。総じて平和なクリスマスの朝となった。

中国ではクリスマスは欧米による文化侵略ということで制限しているというようなことを聞いたけど、日本ではそのようなことはない。七面鳥の代わりにニワトリを食べるという、独自のクリスマス文化も編み出し、キリスト教徒の少ない日本のクリスマスはクリスマスであってクリスマスではなくて、若者の恋愛のシンボルのような位置付けだった時期もある。でも、日本のキリスト教には弾圧の過去があったとはいえ、500年以上の歴史があり、そうそう新興宗教というわけでもない。それらを踏まえた上でのいまの姿、これはこれでいいのかもしれない。

米国のトランプ大統領は、クリスマス休暇に入った。日本の政治家はこの時期どうしているのだろう。やっぱり年末の休暇に入っているのだろうか。ところで、休みはまとめてとる欧米式と祝日を増やして無理やり休ませる日本式、どちらがいいのだろう。今日は過労死で亡くなった女性の二周忌だそうだ。相変わらず、過労死は起きているという記事が朝刊に出ていた。私は仕事。普段の月曜と同じ電車で出勤。学生が冬休みに入ってずいぶん空いたけど、まだまだ朝は通勤ラッシュ。みんなよく働いている。それでも今週いっぱいで正月休み。忘年会ももうなくて、静かに過ごしたいのだけど、親戚が病気になったのが気になる。今日はその方の手術。

私はクリスチャンではないけれど、神様にもその方の手術の成功をお祈りする。奇跡は必要ないけれど、事故なく、定型通り手術が進んでくれることを祈る。昨日妻とお見舞いに行った時は元気そうにしていたので大丈夫だろう。昨晩、犬の散歩の途中で神社の前を通るときに、手術がうまく行くようにと手を合わせた。

病気平癒

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あの年のクリスマスイブ

2017年12月24日 | あの頃のこと…思い出話

まだ、新婚の頃のクリスマスイブ。妻も私も仕事が終わらなくてお互い家に帰り着いたのは夜の10時ごろとなった。

それぞれの職場から自宅に帰りつき、顔を見合わせて「クリスマスイブでも、一人で電車に乗っている人って、結構いるんだね」など同じことを言ったことがあった。電車は結構空いていて、確かに一人で乗っている人が目についた。もうバブルは崩壊していたけど、余韻は残っていた。今思えば、無茶苦茶な言い方だったけど、恋愛至上主義のような時代だったから出たような言葉だった。

子供はまだいなくて、二人でクリスマスケーキを食べた。

結婚して2年ぐらいは子供を作らないでいた。妻も仕事が忙しかったということもあったし、子供にあまり興味が持てなかった。それでもやがて、子供を授かり3人、4人でクリスマスを祝うようになった。でも、まず兄がクリスマスイブに出かけるようになり、今年は娘もいない。二人ともどこかでクリスマスパーティーとのことで、久しぶりに妻と二人で過ごすクリスマスイブとなった。

つい昨日のよう

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大そうじ、第一弾

2017年12月23日 | 日々思うこと、考えること

年に一二度お会いするご夫婦がいて、今日は、年末のご挨拶にと我が家に来てくださった。

お迎えするにあたり、朝から掃除。

時期的にはちょうど大掃除になる。

小春日和にさそわれて家の周りを掃き掃除。

朝から頑張っていたら、いざお迎えする頃には眠くなってしまった。

玄関をデッキブラシでゴシゴシ掃除したら、背中は筋肉痛となり、手首も痛めてしまった。

今日はヘトヘト、明日は休もう

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病理診断報告書を上手に書きたい!(中)

2017年12月22日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日のつづき)

臨床医でも消化管とか皮膚とか腎臓とか神経とかそれぞれの臓器に特化した病理所見を十分理解し、言語化することのできる人は少なくない。でも、"病理専門医なみ"に病理診断報告書を書くことのできる人はあまりいない。というか、そんな臨床医がたくさんいたら、私たち病理専門医の立つ瀬がない。病理専門医というのは全ての領域に通じた上で、それぞれの臓器の診断を行うというところが臨床医と違う。この先、遺伝子診断技術が進めば、病気の診断もずいぶんと補助してもらえるようにもなるだろうけど、病理医の仕事というのは"患者さんの体で起こっている事象を臓器によらず、客観的に捉え、誰が読んでも分かる文章、すなわち病理診断報告書を病理総論的な観点から書くこと"にある。

時々、よその病院で診断を受け、セカンドオピニオンで来院し、担当医に病理診断の確認を求められることがある。そんな時には他の病理医の書いた診断書を読む。診断がわからない場合は、それ以前にコンサルテーションとしてくるので、セカンドオピニオンの場合診断が間違っているということはあまりないのだが、そんな中に首を傾げたくなるような診断書もある。例を挙げようと思ったが、それはできないことだし、想像で一度書いてみたが言葉のサラダのような診断文はなかなか書けない。診断名さえあっていたらいいじゃないか、なんていう病理医は将来仕事をPCR付きのAIに代わってもらったほうがいい。そんなこと、誰にでもできるようになる。

病理診断報告書はそれぞれが独立した論文のようなもので、全体的には一曲の音楽のように統一が取れていなくてはいけない。だから、自分自身、サイズとか重さを書き忘れていたりしてなんとなく座りの悪い診断文はというのは、第2楽章を抜かした交響曲のようになってしまう。だから、そうならないように細部にわたって注意をして診断文を書かなくてはいけない。いくら同じようなことに注意をしていても、コロ健自身そのようなミスはいくらでもある。これまで書いてきた数千の病理診断報告書のうちどれ程が納得のいくものだっただろうかと思うと、冷や汗が出る。

では、何故、診断名だけではいけないのか。内視鏡で肉眼像が癌だったらそれでいいじゃないか。乳腺の針生検で癌が見つかったらそれでいいじゃないか。ということになるけど、では、果たしてそれだけで人間は、患者も医者も納得できるものだろうか。”癌”という病気だから大腸を取る、乳腺を取る。知識のレベルはそれぞれだけど、普遍的な根拠に基づいた診断がなされた上で治療は行われる必要がある。それが病理診断だ。内科系疾患や精神科領域の疾患の多くは、組織学的診断ができないため、いくつかの症状を組み合わせた診断基準を用いるが、病理診断は病変部より組織が採取されていたらそれだけで確定診断が可能となる。そして、正しい診断に基づいた治療が行われ、患者が回復したら、それは医療チームの勝利となる。

(この続きはまた来週に)

冬至

 

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病理診断報告書を上手に書きたい!(上)

2017年12月21日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

それこそ毎日毎日、病理診断報告書を書いているが、”まさしくこれがこの病変の組織像そのものを表現している”というような診断書を書くことはなかなかできない。

診断書の構造は簡単で、診断名とその所見しかないのだけど、そこで病理医は標本から知りうる患者さんに関して考えられるすべてを、臨床医がわかるような普遍的な、少なくとも病理総論用語にのっとった表現で、簡潔に過不足なく書かなくてはいけない。でも、それが難しい。

胃生検とか大腸生検のように頻度の高い臓器の診断だと、ある程度書くことが決まっていて診断文は定型的になっていて、バリエーションはあまりない。癌か癌ではないか、臨床医に対してもそれで十分だ。でも臨床医が胃を内視鏡で診たら癌ではないのだけど、癌を除外するため念のために生検をすることがある。そのような場合、そこに癌があることはあまりない。内視鏡医が知りたいのは癌かそうでないかだから、先生が心配した病変は癌ではありませんでしたよ、とまず伝え、その上でどうしてそんな風に見えたのか背景病変も知らせる必要がある。

病理診断報告書には、例えば胃生検だったら、診断名には細分類までを含めて、胃癌とか胃炎とか書く。所見欄には、生検組織の個数、部位、癌があるかないか、癌があればその癌の所見、癌がなければ内視鏡的に異常のあった病変の生じた背景所見を記載する。以下に例文を挙げる。

胃癌だったら以下のようになる。

(診断名)

Stomch, body, biopsy, 3 fragments

Well differentiated tubular adenocarcinoma (tub1), Group 5       ①②③

(所見)

検体は内視鏡的に採取された、胃体部からの生検組織3個。①②③いずれの部位にも、大型不整核を有する異型円柱上皮細胞よりなる異型腺管の増殖が認められます。高分化管状腺癌の像です。

また、胃炎だったら、

(診断名)

Stomach, body, biopsy, 3 fragments:

Chronic gastritis with regenerative and metaplastic change, Group 1  ①②

Erosive gastritis, Group 1     

No malignancy seen

(所見)

検体は内視鏡的に採取された、胃体部からの生検組織3個。このうち①②では上皮の再生性変化、腸上皮化生がみられます。粘膜固有層内には中等度の慢性炎症性細胞浸潤が認められます。②には粘膜筋板がみられ、胃底腺は萎縮性です。③では浅いびらんが認められ、ここでも腸上皮化生を認めます。いずれの部位にもH. Pyloriと考えられる桿菌が認められます。提出された検体に悪性の所見は認められません。

 

 

となる。診断名を臓器名より先に書く病理医もいるので、若干形式は異なるが、内容は同じ。以前は診断名の前に"-"を入れていたのだけど、ある先生に「これって、飾り?」と言われてからは書かないでいる。

組織学的な所見は、もっと上手に書きたいのだけど、どなたかの標本を診ながらではなく、想像で書いているので、なんとなく臨場感がないのだけど、まあこんなものだ。ただ、この数行で病変のすべてを臨床医がわかるように表現しなくてはいけない。改めて読んでみると実に多くのことを詰め込んで書いているものだと思う。

(この項つづく)

道半ば

 

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"思い残すことなくやりたい仕事に時間を使う"

2017年12月20日 | 生き方について考える

昨日の朝日(結局、また読んでいる)の朝刊の”ReライフPROJECT”というコーナーの中のコラムで、作家の内館牧子さんが、こんなことを書かれていた。

『定年後は すてきな「終わった人」に』という題で、定年後の生き方について語ったあと、現役世代に向けて、”40、50代から「終わった人」になる前に何をしたらよいかと良く聞かれます。(人それぞれぞれ考え方はあると思いますが)私自身は、社会や会社から認められ、必要とされている間は、定年後のことは考えない方がいいと思っています。思い残すことなくやりたい仕事に時間を使うことが、終わった後に「成仏」できるコツかもしれません。”と結んでいる。なお、()内は私が入れた文章。心に深く染み入る一言で、コロ健、これは自分自身心に留めておきたくここに残した。

たしかに内館さんがおっしゃる通り、”人に必要とされるうち”、すなわち仕事を与えてもらっている間は、それに対して心を込めて頑張るしかないと思う。仕事があってありがたいとか、そういうことを考える必要はない。

終わることを考えるというのは、死んだ後のことを考えるのと同じであることのような気もする。仕事があるうちも、その後も連続しているものだし、常にそう考えていたら、仕事もその後の人生も楽しく、充実したものになるに違いない。結局のところ、生きることそのものを頑張るのが、人生を全うすることなのだ。

仕事に集中する

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ジタバタしてもしょうがない

2017年12月19日 | 日々思うこと、考えること

決まった仕事、すなわち定職を持って働いているうちは、忙しかったり、そうでもなかったり、と仕事の量にも振幅が生じる。

コロ健、ちょうど今は、その忙しい時期。年末で忘年会がたくさんあって忙しいのではない。今年の忘年会は病理診断科のだけで、あとは友人と一度飲みに行くだけだ。それというのも最近、体調管理が難しくなってきたのと、公私ともあれこれあって気分も沈んでいるからということが原因かもしれない。

とにかく仕事は山盛りだ。何がどうなっているのかよくわからなくなりそうなので、ちょっと整理してみる。今日の時点で一番大きいのは来年の病理学会総会の演題提出の締め切りが迫っているということ。講習会での講演が一本あるのだけど、それとは別に自分の研究の発表の準備がある。もう一つ某研究会主催のセッションのモデレーターとしての仕事も重なっている。あとは、別のテーマで1月末締め切りの原稿のことも気になる。原稿書きは大変だけど、執筆を依頼していただくというのはありがたいこと、そういう話がある間は断るわけにはいかない。その他、ウェブ会議が年内に2つあるので、その準備も怠るわけにいかないし、別の班会議のCQ担当もある。再来年、某研究会の世話人を任されそうでその会場探しも頭が痛い。

これらは、もちろん日常の病理診断業務とは別にすること。大学病院に移って、仲間が増えたおかげで少しだけ研究のために割ける時間ができたとはいえやっぱり忙しい。

人間はどの程度同時進行で物事を処理できるのかわからないが、歳のせいだろうか、最近こんがらがってしまうことが多い。これまでにも尻に火がついてきたときには、あれこれこんきもに書いている。そのときには、それしか話題がないのでそれが当たり前で、その時々のことをふと思い出したのが今日このことを書き始めたきっかけ。

以前は、本当に切羽詰まっていたけれど、その状況に慣れてきたのか、鈍化してしまったのか、レベルが下がったのかはわからないけど、今はもうあまり気にせず淡々とそれぞれのことを進めているように思う。

だれかの迷惑になるようなことは書かないようにしていても、こんきも(このブログのこと)もそれなりのボリュームで書けているし、ジムにも適当に通っている。なんとなくそれぞれのことをこなしているように見えるのは、達観しつつある、ということなのだろうか。そうだといいけど、やっぱり違うかもしれない。

こうバタバタ忙しいときだけど、ジタバタしてもしょうがないということは確かだろう。

まだまだ悩みは多い

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怒涛の年末だからこそ、ゆっくり落ち着いて

2017年12月18日 | 生き方について考える

自分でブログを読み返していると、われながらなんとなくのんびりしていそうに読める。

でも実は公私とも問題山積。

気に病むこと、やらなくてはいけないことがたくさんある。
映画を見に行って、散歩してと、週末は珍しくゆっくりできたようだけど、他にも色々としていることはある。

そんなんで、今朝は普段よりも2時間近くも早く目が覚めてしまった。

仕事があるから少しでも多く寝ようと努めたけどなかなかうまくいかなかった。

やっとあれこれ気に病んでも仕方ないと思えるようになったら30分ほどうつらうつらできた。

そんな私のことを慮ってか、出がけに妻が「今週はゆったりペースでね」と。

怒涛の年末に突入することになるけど、心をおちつけてひとつひとつのことに丁寧に対応して行くことにしよう。

やることは同じ

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