こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

座長の仕事

2016年02月29日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

某学会のとあるセッションの座長の依頼が来た。そのセッションのテーマはマニアックで、参加者の顔ぶれもだいたい想像がつくし、人数も少ないこじんまりしたものだ。 一応、その道のスペシャリストということで私に白羽の矢を立ててもらったわけで、それは名誉なことでありもちろんお引き受けした。スペシャリストといっても、人があまりやらないことを十年もやっていたら、日本では知らない人はいない程度にはなる。

それはさておき、この“座長”という言い方、なんだか偉そうで、私は好きではない。最近は、“司会”という言い方が多くなって来て、私が去年開催した研究会ではセッションの進行者は”司会”者にした。まあ、司会者でも座長でもいいのだが、これがあまり上手でない人に困らされることがある。どんな人が困るかというと、時間通りにセッションを終わらせることのできない人。そういう人は、そこにいる人の時間を奪っているということに気がついていない。

演説時間が7分のところを10分ぐらい話しているのを止められないでいるとか、フロアからの質問を延々と受け付けるとかで、時間を超過してしまうのだ。時間の超過は熱心さの表れではなくて、進行の不手際以外のなにものでもない。こんな人がいる 一方、質問が無いのに、自分でも質問を用意していなくて、会場がしばし沈黙の場となってしまうこともある。進行が上手にできる人は、少々つまらない人の演題を時間より 5%ぐらい短く切り上げ(10分なら9分半)、興味深い話は10%ぐらい時間を延ばす(10分を11分)。そして、全体を時間内に収める。もちろん、聴衆にも、発表者にも気付かれてはいけない。私もそんな進行ができればいいと思っている。

座長の仕事というのは、話す人(演者)も話を聴く人(聴衆)も、リラックスして、その場にいて互いにためになるディスカッションをして、「ああ、この話、聞いてよかった」と思えるようなセッションにすることだ。

 とはいえ途中で止めるのはなかなか難しい

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臨床系研究者とのディスカッション

2016年02月28日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

私の勤務先には研究所があり、共同研究とかでそこの研究者と一緒に研究をしてディスカッションすることがよくある。先日も、ある臨床系の研究者から病理医としての意見を求められて、ディスカッションをすることがあった。 その研究者はもともと臨床医で、現在は研究に専念している。

彼はたいへん優秀な医者で、ディスカッションをしているとこちらが大変ためになって楽しい。

病理をやっていて楽しい時の1つは、このような優秀な臨床医とのディスカッションだ。ここでいう、“優秀な”というのは、豊富な臨床経験に裏打ちされた知識を上手に研究に使うことができ、さらには自分の能力を把握していて、あくまでも謙虚な人である。

その人も、はじめは取っ付きにくいところがあったが、何度かディスカッションをするうちに互いの価値観を認め合うことができるようになり、私はとてもよい経験をすることができた。

ときどき、このブログの中で私は『医学徒』などと、しかつめらしい言い方をしているけど、やっぱり医者というのは医学という学問のしもべであり、それを困っている人に還元する使命を持っている立場の人間だと思うのだ。いろいろなレベル、立場の医者がいるけれど、そういう謙虚な気持ちをいつももっていたら、それぞれがそれぞれに活躍できるのだと思うし、そうしなくてはいけない。

 おかしなお医者さん、実はほんの少し

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うまくいく役割分担はないかな?

2016年02月27日 | 家族のこと

近所の大型スーパーに妻と娘と3人で行き、水やら食料を買ってきた。家に帰りついてから、重いものを降ろして家の中まで運んだ。私の仕事はそこまで、そこから先のかさばる食料の小分けは妻の仕事だ。小分けの作業をしている妻の横で、私はこのブログを書いている。

私は、車の運転とか荷物運びは喜んでするが、小分け作業はあまりきがすすまない。というのも、家族の一度の食事の量やら、献立やら総合的な判断のもと行なうことだからだ。中途半端に分けて、かえってビニール袋を無駄にすることになったら、元の木阿弥だ。

餅は餅屋、家事は主婦だ。

人間には、向き不向きというものがある。

物書きが餅をついてもおいしい餅はつくれないわけで、仕事というのはそういうものだ。私が思ったのは、そのこと。一人で全部やることはできないわけで、誰かと一緒に生きている。だから、なんでも自分でしてしまうおう、などとは思わないで仕事は分担する。そして、それは適材適所。

家庭でもそう。主婦などと言うが、家事の得意な女性がいれば男性もいる。病院でも会社でもそうだろう。社会全体、そういったことをもっと考えたほうがいいと思うのだが、なかなかそうはいかない。こういう人は、こうあるべし、というのを続けることはもう無理な世の中ではないか。

ジェンダー問題というのはそういうところをクリアしないと始まらない。お互いが気持ちよくやっていくことのできる、役割分担の道を探していこうと思う。

 風が強かった

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病理医は臨床医の下請けではない(下)

2016年02月26日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

(昨日の続き) それにしても、一昨日の「フラジャイル」はすごかった。長瀬智也演じる主人公の病理医岸京一郎に向かって、外科医の副院長が「たかが病理医の分際で!」とまで言わせちゃったのには驚いた。けれどもすぐ、「ああいう先生いたなー」、と思い出してしまったりして、まあとにかくとてもリアルだった。

 あの消化器外科の副院長の物言い、まさしく病理医を臨床の下請けと考えているから出てくるものだった。自分たちのおかげでおまえらの仕事があるんだ、みたいなのあるある。こんな風に感じることが多いから病理医のモチベーションは低くなる一方で、私たちは若い人に病理を勧めることに気が引けてしまうのだ。

 

なんで、日本では検査部門を担当する医者は下請け、というように、一段低く見るのか。画像にしても、病理標本にしても、検体はそこにあるので、臨床医でも腕に覚えがあれば、ある程度できる。例えば癌診断が専門ともなれば、そこいらの駆け出し専門医よりよほどできる。でも問題はそこではないのだ。病理専門医は幅広い知識で多くの鑑別を挙げ、臨床医の思い込みを正すことができるのだ。一昨日の放送でも、副院長は胃癌の転移と決めつけちゃったらもう止まらなかった。生検さえしたら駆け出し病理医でも簡単に診断できる病変が分からなくなってしまったのだ。 そういう、目に見えないところまでチェックするのが専門医であり、だからこそ信頼を寄せる臨床医、患者は多い。

なぜそういう突っ走っちゃう医者がいるのだろう。その原因はそんな医者の数だけあるだろう。けど、その一つは、他人のスペシャリティーを認めたがらない意識が日本の医者には強いためではないかと思う。自分より下の人間を探して貶める、みたいな受験エリート意識があるのかもしれない。だが、そんなことはさておいても、そこには患者に奉仕するという医師本来のあるべき態度が欠如しているのだと思う。

そう考えると、日本の医師養成過程に問題があるのではないかと、ときどき思うことがある。けれど自分もそのうちの一人かと思うと、同じ穴のムジナかと思ったりする。

下請けではなく仲間だと思ってるのだけど

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病理医は臨床医の下請けではない(上)

2016年02月25日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

フジテレビ、毎週水曜日22時からの医療ドラマ「フラジャイル」。病理医を主人公としていることもあり、同業者として毎週楽しくみている。

昨日は病理医と同様に診断業務がメインの仕事となる放射線診断医が取りあげられていた。 病理医は臨床医が採取してきた患者さんの組織や細胞を診て診断をつける。一方、放射線診断医はさまざまな方法で撮影された画像を診断したり、特殊な撮影を行ったりする。臨床医に代わって、専門性の高い部分を受け持つことになる。見たものを解釈する、という作業は病理医と放射線診断医、似通ったところがある。私も以前、病理医と放射線科医とで、病理ー放射線カンファレンスというのを開いていたことがある。勤務先の病院の放射線科医には仲がいい人がいる。

昨日の放送で気になった言葉があった。それは「主治医」という言い方。

日本語のこの言い方ってどうなのだろう。英語だとattending doctor。主に世話をする医者という感じなのだろう。それに、アメリカなど家庭医(開業医)の制度がしっかりしていたら、いわゆる主治医はその開業医の先生。高度の医療が必要な場合、大病院にかかる。そこで患者さんの面倒を診るのは家庭医から患者さんを任された医師で、日本語なら主治医ではなく担当医、となるだろう。 こういうシステムになっていたら、家庭医(開業医)が監視するので、大病院の(一見、偉そうに見える)医者の暴走を止めることが可能となる。 

放射線科医や病理医はこの主治医になることはまずない。放射線科医、病理医は患者さんに対する担当医の一翼をなすことはあっても、日本でいう患者を自分のもの(“私の患者”)にすることはないからだ。日本の“主治医”といういい方が続くようでは、そういう言い方をされることになっても仕方あるまい。 

では、どうして昨日のドラマのように病理医、放射線科医が臨床医の下請けといわれなくてはいけないのか、この続きは明日。

 国家試験みたい

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もう決まっていることだから

2016年02月24日 | 妻の名言

「来年のことだって、再来年のことだって、もう決まっていることなんだから、あれこれ心配してもしょうがないわよ。なるようにしかならないんだから。」

将来のことを心配するような愚痴を妻にこぼしたら、こんなふうに妻に言い返された。妻は運命論者というわけではない。ただ単に、人生少しぐらい、じたばたしたところでどうしようもないというようなことをいいたかっただけに違いない。

人生、なるようにしかならないといっても、何も努力しないでいたらなんにもならない。

夢を持って生きることが大切だとよく言われるけれど、なかなか夢を見つけることができないでいる私にとって、夢を持つことはハードルの高いことだ。では、夢でなければ、目標ではどうだろう。それも、長期的な目標を持つ、と言い換えてみる。その日暮らしの短期的な目標の連続ではなく、少し長いスパンの目標。

試験勉強を考えてみればよくわかる。一夜漬けよりも、ひと月ぐらい前から準備する。さらには、学年単位で、といったようにしていったら、卒業してからのこと、もっと先のことまでと目標、すなわち夢、が膨らんでいくのではないか。

 この先筆記試験は無いはずだが

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いらつく私にいらついて・・・(昨日の反省もむなしく)

2016年02月23日 | 日々思うこと、考えること

今日の私の気分は、この冬空と同じでどんより。その理由は、昨日の記事「こんなことでいちいち怒ってちゃダメ?」。朝、読み返したら、なんてネガティブなことを書いてしまったのかと落ち込んでしまったのだ。貴重な一回分を無駄にしたような気がする。

そしていつもと同じ時間の電車に乗って、いつもと同じ道を歩いたが、いちいちそんなことにいらつく自分に腹が立った。人への怒りや批判は自分に跳ね返ってくる。そのことを身をもって感じた。

今日はそのことを反省して、そういう私をコントロールしながら静かに過ごすように気をつけた。イラつく私をお釈迦様のようにみる私、まではよかったのだけど、そもそもイラつく私が情けなかった。

仕事中は問題なく過ごすことができたのだが、帰り道にあたる公園(テニスコートなどがあって、喫煙所以外禁煙)で、テニスコートの真横で、プレーヤーも歩行者も気にせずタバコを吸っていた、ラケット担いだおじさんに、「喫煙所は、あちらですよ」と教えてあげた。あーあ、結局だめだった。マナー違反に腹を立てて、注意する。こんなことでは、いつか誰かに逆ギレされて殴り殺されるか、自分の高血圧かで早いうちに死ぬのだろうと考えた。ルール違反の人を許せないのは、人に対して意地悪なのか、自分勝手なのかわからない。でもやっぱり、駄目なものは駄目だと思ってしまうのだ。こんなことだから、私を敬遠する人もいる。程度の問題とはいえ、コントロールは難しい。

明日からは普通の記事に戻したい。

今夜は月がキレイです

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こんなことでいちいち怒ってちゃダメ?

2016年02月22日 | 通勤・交通・旅行

人身事故で某線が止まったからだろうか、今朝の電車、心なしかいつもより混んでいた。毎朝のことだが、今日も出がけに、妻から一日イライラしないようにと釘を刺されていたので、そうならないように気を付けながら出勤したが、それでも何度かムッとしてしまった。

いちいち怒っていては、負のエネルギーがたまって、私の人生にとってろくなことはないことはわかっているのだけど難しい。とくに通勤の往復時。こんなこと、我慢できるだろうと思う方もおられるだろうが、私がムッとしてしまうことを挙げてみたい。



まずは電車内でのこと。・満員電車内でのスマートフォンいじり、特にゲーマー。前左右にスペースを必要とするので、迷惑する。・混雑した電車でリュック背負いっぱなし。・ヘットフォンからの音漏れ。・ホーム、コンコースでの歩きスマホ。・空いているからといって、足組みっ放し、投げだしっ放しは足をわざと引っかけたくなる。
だが、今朝その混雑した電車内で、ガヤガヤと数人で試験問題を出し合っている学生がいたが、これは気にならなかった。不思議なものだ。

つぎは道路でのこと。・無灯火の自転車。・人が歩いているのにハイビームで走ってくる自動車、バイク(夜間はハイビームが原則だが、歩行者に気がついたらロービームにしなくてはいけない)。・路上とくに歩きタバコ(コンビニ前など喫煙エリアは仕方ない、通らないようにがまんする)。・歩きスマホ。・改造バイク、自動車の排気音。

日常の通勤とは異なるが、ついでに車を運転していてのこと。・割り込み。・煽り。・スマホいじりながら運転。・電話しながら運転。

こうして挙げてみると、いちいち腹を立てるのがバカバカしくなってくる。かくなる上は、お釈迦様よろしく、空の高いところからでも、地獄のようなラッシュに揉まれている、カンダタのような自分をみているつもりになってみるのもいいかもしれない。そうしたら、少しは怒りも収まるかもしれない。

 私自身がまず気をつけないと

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凱旋門出現!?

2016年02月21日 | 鎌倉暮らし

鶴岡八幡宮の三の鳥居が塗り直し工事のため、防音シートで周りをすっかり囲われて、まるでフランス、パリの凱旋門のような格好になってしまった。

あれよあれよという間に足場が組まれて、気がついたらこんなふうになっていた。これまた改修中の段葛といい、今の時期鎌倉観光に来た人には少々気の毒な風情だ。

まあ、ここは珍しいものをみることができたと考えるしかあるまい。

その代わりといってはなんだが、境内にある神苑ぼたん庭園のぼたんが見頃だ。入場料を払わなくてはいけないのが残念だが、境内の喧噪からはなれて、ぼたん独特のよい香りに包まれてゆっくりみることができていい。

それにしても、これほどの数のぼたんをよくも見事に咲かせているものだ。なにごとにおいても、プロというのはたいしたものだ。

鶴岡八幡宮の源氏池には一時期カモメの大群が押し寄せて、少々怖いほどだったが、最近見なくなった。

暖かくなって、海でエサを得ることができるようになって帰ってエサ場を移したのだろうか。

カモメはカモメ、あの、けたたましい鳴き声を、ここで聞くのはどうも興ざめしてしまう。

あとは、亀が帰ってきてくれたらいいのだが、池の改修工事で消えてしまったきりなのが残念でならない。

三の鳥居の工事は3月中旬までとのこと

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梅の香りに包まれて

2016年02月20日 | 鎌倉暮らし

昼前にも大雨になるというので、朝のうちに犬の散歩に出かけた。もちろん、散歩嫌いなマルチーズのコロではなく、散歩には目がないフラットのナイトとだ。歩いているうち、ほうぼうの家の庭から梅の甘い香りが漂ってくる。今朝は特に香りが濃く感じられる。

鎌倉には古民家が多い。 このことは以前にも書いている(2012年3月5日『鎌倉のお屋敷』、同18日『鎌倉の古民家』)。だんだんと立派な家、古くからの家の減少に歯止めがかかってきたように思う。昨今の古民家ブームで、鎌倉の古民家もその商品価値が認められ、保存して商売に使うようになってきたのだろう。

私の家の回りにもそういった家が多くある。これは鎌倉の街並を残すという意味でとても良いことで、どんどんやってほしい。

あとは、大物級のお家の保存。文化財級に大切にして残したい家もまだまだたくさんある。

扇が谷1丁目の古我邸はレストランとして残すことがきまってよかったが、古我邸級ともなると残すのも大変だっただろう。

個人の思いと、市民の思いと、鎌倉市、神奈川県の協力が無くてはできないことだが、是非そういった家屋敷を残してほしい。こういった家屋敷、当たり前のことだが一度分割したり壊したたりしたら二度と造ることは出来ない。

鎌倉というところは、一時はただの漁村になっていたところを観光地、別荘地として持ち直した街。その近代日本における歴史は歴史で武家の都としての価値以上のものがある。

 などということを、梅の香りに包まれながら歩きながら考えた。私はこの町のたたずまいが好きだ。

 しばらくは香りを楽しめそうです

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私の趣味はガーデニング、犬、読書そしてブログ

2016年02月19日 | わたしのこと

 この前、自分が書いた本に載せる自己紹介文で”趣味”として何を書こうかというところではたと悩んだ。これまで趣味らしいことといったら、膝と足首を痛め、ついにやめてしまったバスケットボールぐらいしかない。かといって趣味なし、というのも愛想が無い。仕方がないので趣味としてガーデニング、犬、読書そしてブログと書いた。

 そもそも”趣味”とはなんなのだろう。

 私の考えで趣味とは、

 そのことをするために、とくにお金と時間を費やして行うこと

 だと思う。だから、例えばゴルフ、サッカー、水泳、山登りといったスポーツはすべて趣味として問題ない。また、絵を描いたり、歌を歌ったりといったことも趣味といえるだろう。手品やラジコン遊びもそうなる。趣味が高じて職業にしてしまっている人もいるが、それはただのプロ。仕事が趣味というのもナシだ。著者略歴に、「趣味仕事」とあったら興ざめだ。

 それはさておき、私が趣味として挙げたのは、どれも”ついでにできること”ばかり。これらは果たして趣味と称していいだろうか。

 まず、ガーデニング。猫の額ほどの庭の掃除に毛が生えた程度でいつまでたっても素人レベル。結局大部分を妻がやっていて、私はミニバラの手入れをしてるだけ。

 犬、というのは犬の散歩を縮めただけ。犬の散歩というと、犬に連れて行ってもらっているような気がするので、私が主体的に犬をかわいがっているということが伝わるようにこうした。だが、余計に一体何がどうなのかわからない表現になってしまった。

 犬を飼っていることが、趣味となるのか微妙だ。これがグッピーとか金魚、メダカの飼育となると趣味っぽいのだが、なぜか犬猫と遊ぶのは趣味とは呼び難い。

 読書が趣味、というのも気が引ける。私の読書は、読書のために時間を取ってまでして本を読むということとはほど遠く、大抵は朝晩の通勤時間帯を読書に充てているだけだ。だから、「読書のためにお金を出して本を買うが、それを読むために時間をわざわざ作ることはしない」となる。

 今でこそ、スマホがあるので電車内でやることはたくさんできたが、ほんの一昔前までは本か新聞か漫画を読むしかすることがなかった。だから誰でも、趣味は読書と言えた。

 最後はブログだが、これについては毎日日記代わりに書いているだけ。これまた趣味と言っていいのか悩んでしまうのだ。

桃太郎なら犬猿雉か

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知りたくないことまで知らされる時代

2016年02月18日 | 日々思うこと、考えること

現代社会は生きづらい。もちろん、いつの世も人間が幸せに生きていくのは難しいことは知っている。この前、うつ病などに関連する遺伝子がネアンデルタール人の世代から受け継がれているという論文が発表されたことからもわかる(Ancient gene flow from early modern humans into eastern Neanderthals.  Nature. 2016 Feb 17.)。ある意味、人間の心なんてそんなに簡単には変わらないものだ。

それなのに、今日のIT技術の人々への急速な浸透は、人間が生きていくことをほんの10年前よりもはるかに困難にしている。社会人であれば、半数以上の人はそれぞれの携帯電話、スマートフォンといった情報端末を持っていて、日々様々な情報に接する。だが、それらの情報のうちどれだけのことが私たちがこの社会で生きていく上で必要となるだろう。

大臣や国会議員の不祥事・舌禍、元プロ野球選手の薬物事件、タレントの不倫騒動、その他もろもろの情報が同じレベルで連日大量に私たちに襲いかかってくる。私たちは知りたくもないことを知らされる時代に生きている。

どれが大事なことで、どれは後で考えればいいことなのか、これら大量の情報の取捨選択は個々の情報端末を持つ、私たち一人一人が行う。かつてはマスコミが行ってくれていたことだが、マスコミももう毎日無分別に情報を流しているだけになりつつある。そして、それらを受け止める私たちの脳は飽和状態となり、疲れ果てている。

こんなことでは、容易にキレたり、うつになったりする人も増える。さらにはそんな人が集まって、ろくなことはない。そのような意味で、今はとても生きづらい時代であり、これから私たち人類がどこへ向かっていくのか、予想もつかず不安が募る。

 

 神様にはわかるのか

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人をゆるす心

2016年02月17日 | 生き方について考える

人のことを憎むより、ゆるすことのほうが難しいように感じる。

でも、ゆるすことが難しいのなら、言い方を変えてみてはどうだろう。

「ゆるす」ではなく、「相手に対する考え方を変える」としてみたらどうか。

 

 誰かに理不尽な意地悪をされた、裏切られた、というようなことがあったら、私はその人のことを恨めしく思ったり、仕返ししたいと憎しみの心を抱くだろう。こういった、恨めしい気持ち、憎しみの気持ちというのが、どれほど負のエネルギーを自分に荷してくるかがわかっていてもそうしてしまう。そして、その憤怒から得られる麻薬のような快楽にしばしば身を委ねてしまうだろう。そして、その快感が途切れると、次なる快楽を求めて魂はさまよい、また次のターゲットを求めてしまう。これでは、いつまでたっても幸せになることはできない。

 

人から嫌なことをされたとき、相手を憎むのではなく、そのことをプラス方向の考え方に変える。まず、そこから始めてみたい。人生には人それぞれいろんなシチュエーションがあるので、どんな時を想定するのがいいかわからないけど、それぞれの局面でそのように考えてみたらいい。

”こうなったからこうなった” の後ろの方の、”こうなった”はプラスにも、マイナスにも表現できる。もちろん、そこにプラスの言葉をいれたら、きっと幸せな気持ちになれるだろう。

そして、それが人をゆるすという心になっていくのではないかと思う。

誰も神様ではないのだから

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それぞれの人生

2016年02月16日 | 生き方について考える

『それぞれの人生』この言葉、このブログのなかで私がよく使う言葉だ。私が苦しいとき、悩んでいるとき、自分だけじゃない、みんなそうなんだ、と普遍化したくて使っているのかもしれない。私はそんなに強くない。

人間、生きているだけでいろんなことが起こる。いいこと、わるいことが絶え間なく起こる。
たとえば今日、寝起きはまずまずだった、少し腹具合が悪い、電車で座れた、乗り継ぎの電車が遅れた、何とか遅刻せずに職場に滑り込んだ、仲のいい人と言葉を交わせた、食べたかったランチが売り切れだった、(中略)、夜、家に帰り着き、風呂に入ることが出来た、寝ようと思ったけど仕事のことが気になって寝付けなかった、いつの間にか寝た。
人生なんて、こんな取るに足らないことの連続、自分の人生にとってどれが決定的なことかなんて、決めようがない。

それぞれの人の人生はそれぞれで、誰かと比べても仕方ない。大切なのは、自分の人生を否定せず、受け入れること。自分で自分の人生を否定しても何にもならないし、ほかの誰が受け入れてくれるというのだろう。
自分の人生を肯定するには勇気がいるけど、多くのことを生み出す。逆に自分の人生を否定するのは簡単だけど、なにも生み出さない。
それぞれの人生だから、それをどう考えるのもそれぞれだが、私だけは私の人生を否定せず、肯定して生きていきたい。

 

 自分を認める

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春一番から真冬に逆戻り

2016年02月15日 | 日々思うこと、考えること

昨日の春一番の南風から、今朝は一転、真冬の青空に冷たい北風。ほころんだ早春の花達もさぞ驚いただろう。

さらに帰りはまるで冷蔵庫。よくぞこれだけキンキンに冷えてくれたかと思うほど。 風花まで舞っていた。

それにしても今年は年初めから、悲しく暗くなるニュース、情けなくなるニュースが多くてつらい。マスコミに踊らされていることもあるだろうけど、信憑性がある程度担保されているのもマスコミ発なので仕方ない。大相撲では琴奨菊の初優勝、スキージャンプの高梨沙羅選手の快進撃に続き、今日はテニスの錦織圭選手のメンフィスオープン4連覇というニュースが入ってきた。これからも、スポーツや芸術の世界でこういう明るいニュースが増えてくれないだろうか。

 

 季節は冬に戻っても

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