こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

人生にはたくさんのことがぎゅっと詰まっている

2012年06月30日 | 読書、映画、音楽、美術
小説や映画のなかで登場人物がせきやあくびをすることは少ない。ましてや用を足すところなど、一度あるかないかだ。
もちろん、そういうことがテーマのものであれば別だが。

それに比べると、実際生きているとすべてのことがある。
朝起きれば、寝癖があって、ひげは伸びている。
通勤はつらいし、飲み会で酔っぱらって帰りの電車で寝過ごしてしまうこともある。
そして、翌朝、二日酔いの頭痛よりもおなかが痛いことのほうがつらかったりする。

私は読書が好きだ。だが、最近はどの内容もどこかで見知ったことのような気がする。
戦争とか、大災害は別として、私の人生は、世の中でおこることのほとんどを経験していると、錯覚してしまう。
それは、やっぱり小説とか映画といったようなものが、”ある場面がデフォルメされているもの”にすぎないものだからだと思う。

現実の世界というは、臭いがあり、音があり、痛みがある。
そして、一日一日時間と引き換えに生きていく。

人生には、たくさんのことがぎゅうぎゅうに詰まっている。
どこを切っても、小説や映画を始めることができる。

だから、事実は小説より奇なり、なのである。


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女性の髪型

2012年06月29日 | 家族のこと
夕食では、長方形のテーブルを囲んで私たち夫婦が並んで座り、子供達が向かいに並んで座る。
私の前には中3の娘が座る。
昨晩も今週末の試合のこととか、少し前に読み終わったはずの本を早く貸してもらいたいだの、ということを、娘の顔を見ながらしゃべっていた。

食事も終わりにかかったころ、妻が、「今日、(娘が)髪の毛切ったのよ」と言った。
言われてみれば、前髪が揃っていて、切ったことがわかる。
「最近は、あんまり短くしないの?」とか、取り繕っても後の祭り。
最後は、「ごめんね、わからなくて」と謝る羽目になってしまった。
朝になって、妻に「髪の毛切ったこと、教えておいてくれればいいのに」と少し文句を言ったら、
「ハサミのまねとかして知らせていたのに・・・。そもそも、もっと関心を持ってあげなくちゃダメでしょう?」と逆に文句を言われた。
おそらく、妻の髪型が変わった時も、気がつくことがほとんど無いことを暗に批判しているに違いない。

女性の髪型というのは、難しい。男のように、基本的にそのまま、というのではなく、あげたり、結んだりしてしょっちゅう変わる。それに、下手に「髪の毛切った?」なんて、若い女医さんに言ったりすると、「そうなんです、大失敗で」なんて、言わなければ良かったというか、気がつかなければよかった思われることもしばしばある。会うごとに、あんまりじろじろ見るのも失礼な話だし。難しい。

だが、やっぱり年を取ると髪型くらいの変化では女性の変化に気がつかなくなっているのも事実。
AKB48とモーニング娘。の区別がつかなくなっているのと同じようなものだ。
女性の髪型がかわっても、気がつかない、というのはオヤジ化の一つの表現型でもあるのだろう。

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教科書に載っていないことに遭遇したら

2012年06月28日 | 日々思うこと、考えること
教科書に載っていないことに遭遇したらどうするか。
そうしたら、最新の論文を読めばいい。教科書に載っているよりも新しいことがそこにはあるはずだ。
だから、論文を読む。でも、そのことに関する論文も無いときどうするか。

現実の世界では、その論文(文字)化されていないことに多く遭遇する。

これは何も医者だけの話ではない。

先の大戦で日本の軍中枢には数多くのエリートが集まっていた。でも、彼等は、秀才ぞろいで多くを知っていたにもかかわらず、というか、知っていることが多すぎて机上の戦争ばかりにとらわれ、攻めることも、そして引くこともできず、大敗戦にいたったという話を聞いたことがある。勉強して知ったことなど、ほかの人(戦争の場合は敵)も同じように知っている。
では、教科書に載っていないことに遭遇したらどうするか。

そういうときは、自分の経験に頼るしかない。
たしかな経験というものは、決して裏切ることは無い。

勉強という努力が必要なのはいうまでもないが、これだけでは、役に立たない。
コツコツと経験を積んでこそ、勉強という努力をしたことからの果実が得られる。

どれだけ、コツコツやってきたかが大事だ。さらには、1度や2度の挫折も経験していなければ、経験を積んだことにはならない。順風満帆の人生から学ぶことは少ない。

まあ、私(コロ健)のようにズッコケばかりの人生から学べることもそう多くはないが・・・。

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犬の食欲

2012年06月27日 | 犬との暮らし

フラットコーテットレトリバーのナイトの体重は先日30キロを超えた。

 

抱きつかれると、結構重いし、二階にある風呂場に連れて行くのに抱きかかえていこうとしたら当然のことながら、ぎっくり腰になってしまった。

 

いっぽう、マルチーズのコロの体重は3キロ前後を推移している。

たしか、3キロを超えると予防接種の代金が上がるとかで、しかるべき体重に収まっているように気をつけているが、小食なのであまり気を使わないでいる。

 

 

犬というのは、たいていが大食漢というか食欲おう盛、食いしん坊である。犬好きが三人寄ればおのずと犬の話となり、エサをよく食う話にもなる。ナイトも当然食いしん坊で、レジデントのパグも、小児科の女医さんのトイプードルも食いしん坊だそうだ。ところが、コロは食が細い。食べても残すことが多く、部屋の窓が開いていてナイトが突入してくるときに一番に行く場所がコロの餌置き場だ。

 

まあ、食が細いと言うか、餌が気に入らないのかはわからない(散歩だって、気が向かなければいかない・・・まあ、これは私にも責任の一端があるのだが・・・)。

 

それにしても、ナイトはよく食べる。

この大きな餌の袋、12キロ入りだが、一抱えもあるような大袋である。

 

そうはいっても、人間のほうがよほど多く、飲み食いしていることだけは間違いない。

 

 

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私たちはこんなことをしていていいのだろうか

2012年06月26日 | 日々思うこと、考えること
中東では多くの子供の命が虫けらのように奪われ続けている。
巨大な隣国は宇宙へ、深海へと覇権を広めている。

日本では消費税が上がることになった。だが、政治家たちはいったい何を目指しているのかわからない。民主党が分裂といって、そこに理念、理想は見えてこない。
その消費税は何のために上げるのか。社会保障のために上げる部分も多い。
社会保障とは何に使うお金だろうか。
医療費はその多くを占める。

医療は税金の上に成り立っている産業である。
だが、医療で巨万の富を得る医者も多い。
医は算術か?と情けない気持ちになる話を聞くこともしばしばある。

医師不足は、医師全体の数が足りないのではない。
とくにここ最近、さまざまな意味で人気のある科に人が集まり、人気のない科には人は集まらない。

人気のない科の代表のような病理など、大都市ではまだ何とかやっているが、地方都市では崩壊寸前である。病気の診断、人の死因を解明する医者はどんどん減っている。

同じ地球上ですべては同時に起き、進行している。
はたして何が正しく、なにが間違っているのか。

私たちは何をなすべきか。

私たちは、いったい何をしているのだろうか。

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ただ私のことを話せばよかったんだ

2012年06月25日 | 生き方について考える
先週末の東北での講演。私にとって、大変得るものが多かった。
講演というのは、その人の専門分野についてを、その分野を専門としない人に話すものである。
今回の講演、私の友人からの頼みということもあり、是非立派なものにしようと3週間前から準備に取りかかっていた。2週間前にできた仮原稿。なんとスライド400枚に及ぶ超大作となってしまった。

300枚くらいに減らして上司や後輩に予演会で見てもらったが、1時間の講演時間に対して、2時間はかかる。上司には「先生、これは無理だよ、もっと先生の得意なことに絞ったら?」といわれるし、後輩にも「テーマを絞って話しても、十分だと思いますけど」とかいわれ、ぼろぼろ。1週間ほどは立ち直れなかった。
おまけに、先週に入ってからは上司の出張が重なって一人病理医+台風4号。あっという間に発表3日前(水曜日)になってしまった。
そこで、気がついたことが、
「なに無理してんだよ」
ということ。

専門分野といっても、カバーすべき分野は広く、その中でも得手不得手はある。付け焼き刃で話を作ったところで、教科書に記載されているようなことを、もったいぶって話したところでたかが知れている。ならば、私が興味を持って日々やってきたことをお話ししようと、スライドを半分近く削った。
東北新幹線の中でも粘って、スライドを整えた。

一般演題も終わって、いざ発表となった。
1時間のところ、1時間半程度かかってしまったが、そんなことはいい。私のことを呼んでくれた友人は最初から「コロ健の話したいことを好きなように話してくれたらいいから。」と言ってくれていた。また、「時間内に終わらせるため、無理に早口になったり、省略されたりするよりは、時間が延長してもじっくり聞ける方が、我々のためになると思っていますので時間については気にしないで。」とも言ってくれていた。だから、1枚1枚のスライドを遠くから聞きにきてくれた病理の先生方にお話した。

講演終了後のディスカッションタイム。一人の先生から嬉しいことばをかけていただいた。
「コロ健先生が普段から、実際にやっておられる、実践的なお話をうかがうことができ、本当に勉強になりました」

そうか、そうだったのだ。中途半端に詰め込んだような話を聞きたいなど、誰もいっていなかった。

私が、これまで培ってきたこと、日々やってきたこと、そのことをみんな聞きたかったのだ。じっくりと。上司も後輩も、遠くで頑張っていた友人も、当日私の話を聞いて下さった聴衆の先生達もみな、そんなこととっくにわかっていたのだ。変に背伸びをしようとしていたのは私だけ。

なんていうことはない。私は私のことを話すだけでよかったのだ。

こんな当たり前のことに気がつかないでいたのは情けない話だが、やっと自分の価値に気がつくことができた。まだまだ、精進しなければいけないが、自分が進んでいくべき道がうっすらと見えたような気がする。

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青森まで足を延ばして

2012年06月24日 | 家族のこと
青森に親戚がいるので、すぐには鎌倉に帰らずに新青森まで新幹線に乗り、青森の親戚の家のお墓参りに行くことにした。数年前そこの当主が亡くなった時に、お葬式にうかがえなく、それきりとなってしまいずっと心に引っかかっていたのだ。

こちらの親戚に案内してもらい、無事お墓参りも済ませ、青森市内を案内してもらった。

興味深かったのは、青森ねぶた祭りのこと。

人口30万人の青森市の人口が350万人まで膨れ上がるという。
近隣の宿という宿が埋まるそうで、宿代も跳ねあがるそうだ。
ねぶたの家 ワ・ラッセ」という、ねぶた展示施設があり、ねぶたを間近にみることができる。近くでよく見ると実によくできている。

さらに、すぐそばにはねぶたの準備をしている、ねぶた小屋というのがあり、制作中のねぶたも見せてもらった。

出来上がりもすごいが、まだ途中の骨組みだけで、絵の色がまだついていないものでも間近に見るとかなり立派なものだった。だが、このねぶた、終わったらすべて壊してしまうらしい。

もったいないことだ。
「リオのカーニバルみたいですね」と案内してくれた親戚にいったら、
「あ、それよく言われるんですよ」とのこと。

ねぶたによっては色づけがずいぶん進んでいるものもあったし、ほとんどできていないところもあった。

さきほどの、ワ・ラッセを出てきたら、その親戚の職場の後輩という人がいて、
「これから跳人(はねと)コンテストがあって、それに参加するんです。」
すぐ間近に、こういう人がいる。もちろん、その親戚もねぶたは大好きである。

青森ねぶた祭の最終日、青森港にねぶたが浮くそうである。


どっぷり、ねぶたの街であった。

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東北行

2012年06月23日 | 日々思うこと、考えること
東北の某県で病理医をやっている、高校時代の友人がある研究会を開くに際し、私を講師として呼んでくれた。

新幹線の中でひたすら仕上げの準備を続け、到着までになんとか仕上げることができた。

当地はあいにくの雨模様であった。
ここも東日本大震災の被災地で、会場近くの漁港はまだまだ復興途上、津波の届いたところからは人が去ったままだそう。

県内の病理医がずいぶん集まり、少々緊張したが、講演、無事行うことができた。
懇親会で、ちょっと飲み過ぎてしまったので、すみません、今夜はこれで。
ホヤというのを初めて食べました。今が旬だそうです。


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看板を偽るな

2012年06月22日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル
元普通の喫煙者というかニコチン中毒患者だった私は20年以上、一日30本約十六万本以上吸ったあげく、タバコがいらなくなった。タバコには300万円以上費やしたことになるし、ついでに買ったライター、ポッケロそして缶コーヒー、仁丹ほかの消臭剤の代金を含めると500万円以上費やしたと思う。まだ未成年のときに親父のタバコを盗んで吸ったのが見つかって殴られたこともあるし、火災警報機を鳴らしてしまったこともある。幸い火事を出したことはないが、有形無形の損害は測りようがない。また、税金が6割とすると、180万円の税金を吸わない人より余計に払ったことになる(四年前一昨年で一部概算が違うのはお許しください)。これだけ、税金を納めたのだから、タバコについて意見を言っても、バチはあたるまい。

私の勤務先の病院は敷地内の完全禁煙化を目指している。というか、原則すでに敷地内は禁煙ということになっている。このことに関する記事を読み返して、これが3年前の記事だと思うと、情けない限りだ。昨晩も、病理にむちゃくちゃプレッシャーのかかるカンファレンスが終わって、ヘトヘトになったところでエレベーターで乗り合わせた職員がとてつもなくタバコ臭くて閉口した。
「敷地内禁煙」看板に偽りありである。

看板に偽りあり、というのは何においても、許せるものではない。
商売をやっている上で、ウソのものをあてがわれたらどんな気がするだろう。路上で客引きにあって、いってみたら言っていたのと違う、というだけで怒る人もいるわけだから、堂々と「当院は敷地内禁煙です」と張り紙を出しているのに、どこからともなくタバコの臭いがしてきたら、誰でも怒りたくなる。


そこで、元ニコチン中毒者として、現ニコチン中毒の人にも配慮した、敷地内禁煙を実施するための有効な方法を思いついたので、忘れないように記事にしておく。

「職員のタバコの敷地内へのタバコの持ち込み禁止」である。

こういうと、ニコチン中毒患者である喫煙者だったら、こういうだろう

「喫煙者にだって、吸う権利があるのに、それをどうしてくれる」

ニコチン中毒という病的状態を自ら引き延ばすことが、権利であるのかどうかはわからないが、敷地内で中学生よろしく隠れて吸う職員がいる状態では、その職員を中毒症から離脱させるためにも持ち込みを禁止すべきだ。

そして、どうしても、離脱したくない職員にはこう勧める。

「通勤時のタバコ所持、喫煙を禁止はしません。
出勤の際には敷地内に入るまでに必要な本数だけタバコを持参し、敷地内に入るまでに吸いきってください。終業後に近辺のタバコ店で購入して下さい。また、昼休みなどに敷地外で喫煙する場合は喫煙者同士で協同購入するなどして吸いきってください。5人なら4本ずつ吸えます。
ただし、近隣の喫煙施設等を十分確認し、路上喫煙、歩行喫煙で近隣住民に迷惑のかからないよう、ご注意ください。
なお、当院の禁煙外来は・・・(連絡先)・・・」

真のニコチン中毒者であれば、これくらい平気である。絶対にこうしてでも吸う。
一番おすすめなのは、心置きなくタバコを吸えるよう、喫煙者がお金を出し合って病院のすぐ近くに喫煙部屋を借りることである。仲間を募ってはいかがだろう。

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自動車のナンバー

2012年06月21日 | 通勤・交通・旅行

道を歩いていて、交差点で止まり、やってくる車のナンバーをふと見たら、

 

「877」。

 

思わず笑ってしまった。

 

「バナナ」。

 

自動車のナンバーは今や、自分で選ぶことができるので、いろいろな意味が裏に隠れている。

今も昔も多いのは、

「1」とか「777」「888」。毎朝、「1」の超高級ベンツとすれ違うが、なんだかやたらと似合って見えるのは、貧乏人の僻か。

ほかにも、ラッキーナンバーをあてているのや、「1224」や「911」と、日付のナンバーも多い。

もちろん、自分の誕生日、住所(番地ー号数)なども多い。

語呂合わせで「1188」「1122」で、私の車のナンバーもこの類い。

 

番号を選ばない人も多いようだが、車を買うときにディーラーが、

「あるとき、お客さんの車のナンバーが良くない語呂合わせになってしまったので、変更を申し上げたのですが、そのお客さん、そのままでいいっておっしゃってそのままお渡ししたんですが、そのお客さん、すぐ事故で亡くなられてしまい」

という、怪談じみた話を聞かされた時は怖かった。

 

 

彼女とか、娘の名前というのも意外と多い。

「875」とか「375」。

花子に美奈子、彼女の名前を付けてて、別れたらどうするのだろう。

自分の名前で、「3110」さんなんていうのもあるが、ちょっとわかりづらい。

職業で、「298」というのがあるが、これはわかりやすい。

産科医の車は「1103」が多いというが、本当だろうか。

「893」なら、みんなよけてくれるだろうか。
でも、変に絡まれても困る。

ちなみに、客が希望した番号がいつもいつも取れるわけではないでしょう?と、先のディーラーさんに聞いたら、「あたるまで、ひくだけです」とのことだった。

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自然災害はすぐそこに

2012年06月20日 | 鎌倉暮らし
社会保障・税一体改革関連法案を巡って政局が動きそうではあるものの、財政破綻、内戦といった状況にまでは至っていない日本は、相対的に平時にあると言えよう。だからこそ、私コロ健もああでもない、こうでもないと日々思い悩むことができるわけで、去年の3月15日に平時と自然災害後の思いがごっちゃになった記事が書かれているのは興味深い。さて、個人的には比較的平穏そうに見えるここ数週間であったが、昨日の台風4号の通過で危うくその平穏が失われそうになった。

というのも、今朝目覚めて、わが家の猫の額ほどの庭の草木の様子を見ようと窓から顔を出して辺りを眺めていたら、なんと、裏山(というかお隣の庭先)の樹高15メートルはゆうに越えている大木が夜中のうちに強風でなぎ倒されているのがみえた。これにはたまげた。倒木の向こうにお隣の家が見える。

わが家に涼をもたらしていてくれた有り難い木で、根こそぎ倒れていて、痛々しい。
先日、植えさせてもらった山アジサイや、例のミントの姿も、なぎ倒された木の下で倒れてしまったシュロに隠れて影も形も見えない。

私の家の楓の枝も数本巻き添えを食らってしまったようだ。アジサイ達も痛々しい。

だが、わが家の方に倒れてこなかったのは幸いだ。これがわが家の屋根にでも直撃していたらと思うとゾッとする。崖の下に住むというのはこういうことかと実感するし、そんなことになっていたらお隣とはどういう話になっていたかと思うと、あまり良い気分ではない。

さて、ところ変わって都内。強風の中いつもどおり、病院まで歩いてきたらこれまたびっくり。
病院の手前の公園で桜の木がなぎ倒されている。

お気に入りのバラ園の上に根こそぎ倒れ込んでいる。

このうちのどれかだったのだろうと思うが、暴風雨の中頑張って立っていたのだろうに、と思うと涙をそそられる。


こうしてみると、自然の猛威というのは人の想定を軽々と越えていくものであることがわかる。
自然を甘く見てはいけない、と月並みなことをいっても、原発再稼働など、背に腹を替えられない状況になれば結局甘く見てしまうし、そうせざろう得ない。平時だなんだといったところで、自然がおとなしくしてくれている場合の話で、いざ、自分の身のまわりでことが起こってみないと、自然災害を実感として感じることもない。
自然災害はすぐそこにある。

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ハマったと思ったが…

2012年06月19日 | 日々思うこと、考えること
上司が出張のため、一人病理医状態。
カンファレンスが二つ。17時半から1時間のと、18時半から2時間(例のデスマッチカンファレンス)。

カンファレンスが終わったときには、外はもちろん台風4号の大雨。
先に退出したゲストの臨床医が「先生方も、気をつけて帰って下さい。外、ひどいことになってますよ」と言い残していったのにもかかわらず、延々と2時間もやるな。といいたいのだが、病理カンファレンスだから、私のプレゼン次第であることと、難症例つづきだったのと、一人病理医なものだから予習不足もたたって、結局は私のせいでもあった。

東海道は遅れているらしい。横須賀線もアウト。
どうやって、帰ろうと思っていたら、その科の医長が車で送ってくれるとのこと。
「いつもお世話になっていますから」と。

同じ、神奈川県民ということで、家は近いといえば近いのだが・・・
結局、甘えて送ってもらった。今日は大変助かった。

あとは、彼が無事帰ってくれることを祈っている。

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生きるとは時間を失いながら前に進むこと

2012年06月18日 | 生き方について考える
人に限らず、生き物は何を持って生まれて、生きていくうちにそれをどう失っていくのか。



それは”時間”だ。

人は時間だけを持って生まれてくる。
人は、時間を持って生まれ、時間を失いながら生きていく。

そして、時間は前にしか進まない。したがって、生は前にしか進まない。

生物学的にいえば、受精卵は様々な性格、機能を有する細胞に分化して個体を作る。
ほ乳類は胎児として子宮の中で成長するが、その過程でもいろいろな細胞が生まれては消えていく。
そして、子宮の外で最低限生きていける機能が身に付いたところで子宮の外に出てくる。
皮膚の細胞のように一ヶ月で入れ替わる細胞があれば、脳の細胞のようにずーっと生き続ける細胞もある。だけど、細胞にも150年くらいの寿命がある。この細胞の”寿命”がすなわち、人が持って生まれた”時間”に相当する。
多くの人が長生きするようになった現代社会は、文明の進歩によって多くの時間を獲得したと言える。若い人、幼い人の多くが命を失う戦争、無差別なテロ行為は、時間の浪費、略奪にほかならない。



時間の失い方は人それぞれ違う。
ちまちま失いながら長生きする人がいる一方で、ぎゅっと濃縮した時間の失い方をする人もいる。
「生き急ぐ」、という言葉は言い得て妙だ。自分が持って生まれた大量の時間をわずかな生にこめて、早世してしまう。

時間を上手に失う(使う)ことができればいいが、下手に失う(使う)人もいる。どう失っていこ(使お)うが、人それぞれ自由だ。時間はそれぞれの人のものでしかないのだから。

生きるとは時間を失いながら前に進むこと



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カルガモさん、お引っ越し?

2012年06月17日 | 鎌倉暮らし
少し前に、私の近所の某小学校のプールに住み着いたカルガモの一家の話が新聞の湘南版をにぎわせた。
某小学校としては静かに見守るという方針でいたようだったが、巣立ちまでふた月近くもかかるということで、水泳の授業を考えたらどうすることかと思っていた。

ところが、ある日を境にプールにカルガモの姿が見えなくなった。
その後、プールの水は入れ替えられ、水色の底とラインが美しく見えるようになった。
カモは帰ってこない。

駆除されたのか。心配していた。

そんな日が続いていたが、今日、フラットコーテッドレトリバーの散歩に鶴岡八幡宮に出てきた。ハスの葉が源氏池の水面をずいぶんと覆ってきた。

そのとき、妻が気がついた。
「あれ?カモ。」

なんと、カルガモの一家がここにいた。
どうやら、某小学校のすぐそばの八幡宮の源平池に移送したようだ。なぜなら、それまでカルガモの一家は源平池にはいなかったのだから。
よく考えたものだ。
生徒の通学路にもあたる源平池に移送すれば子供たちもその成長を見ることができる。

プールにいたころは小さかった子ガモたちもふたまわりくらい大きくなっていた。
元気に育ってほしいものだ。


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怖い運転

2012年06月16日 | 日々思うこと、考えること
鎌倉は道路が狭く、人が歩いているすぐ横、自転車のすぐ横を車が走り抜けていく。
制限速度は最も早いところで40キロ、だいたいは30キロだ。
制限速度を守る車はほとんどいなくて、いつも怖い思いをする。

そこで気がついたのが自動車のスピードと恐怖感の相関関係。

スピードが速い車にはしばしば身の危険を感じる。
幅の広いスポーツタイプの車でこれをやられると恐ろしい。
若宮大路や由比ガ浜大通りのように歩道のある通りであればいいが、辻説法の道とか朝比奈街道でこれをやられると本当に怖い。

一方、それほどスピードを出していない車でも怖い思いをすることがある。私のイメージだと黒塗りのベンツとか、セルシオ。
こういった車がゆっくり走っていたりするととても威圧的だ。
これはこれで怖い。

ゴルゴ13でKGBの幹部とかが黒塗りの車で”ルルルルルー”とかいわせて、ゴルゴに近づいてきて狙撃の依頼をする場面があった記憶がある。
映画「イヤーオブザドラゴン」でも、黒塗りの車の列が怖そうに描かれていた。
マンガや映画でこういった、威圧的な場面というのはしばしばみられる。

まあ、小市民で運転がそれほど好きでもない私、やっと手に入れたゴールド免許を手放すのは惜しいし、それほどの高級車に乗っているわけでもない。
人に怖い思いをさせないよう、日々気を付けて運転したいと心掛けているのだが、それはそれでなかなか難しい。

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