本降り。
今日は資源ごみの日で、プラスチック、カン、ビンを集積所に持って行ったが、こんな日は回収してくれる方に申し訳なくなる。
段ボール、紙だと大雨の日はさすがに遠慮して、先週は台風並みの大雨だった先週はパスした。
幸い今週は晴れたので持って行ったが、いつもの倍近くあって、集積所で顔を合わせたご近所さんと、このことについて言葉を交わした。
プラスチック、カン、ビンなら、濡れてもいいのかということになるが、どれももかさばるので早めに出そうと、少々の雨ぐらいだと出してしまう。
他の方もそのようで、今日の出具合はいつもとほとんど変わらないように見えた。
今日で今年も半分が過ぎる。
多くの神社に茅の輪が設けられるだろう。
もう、この月初のこととなるが、老人ホームへ犬を連れて行くという慰問活動を行なっている妻から頼まれて鶴を折った話を書いたが、それがいよいよまとめられて、鶴岡八幡宮に納められ、七夕飾りにつかわれるそうだ。
『タウンニュース』にそのことが取り上げられていて、私たちのように自宅に持ち帰って作った人、さらには近所の人など孫受けの人もいて、一体何人が協力したかわからないそうだが、多ければ多いほど多くのツルが集まっていい。
今日明日は雨が続くようだが、来週は晴れの日が多い予想で、日曜日あたりには飾ってもらえるだろうか。
緑、黄のツルがあればそれは私が折ったものかもしれず、楽しみだ。
この度鶴岡八幡宮は神社本庁との包括関係を結ばないということになったようだが、神様に人間界の組織は馴染まない。
今後、どのようになってゆくか少々心配だが、神社本庁に入っていない神社というのは多く、どこもしっかりしたところなので、あまり気にしなくてもよいだろう。
今年はくぐれるかな
蒸し暑く湿度の高い日が続く。
気温はさほど上がらないようだが、体に熱がこもりそうだ。
庭のバラが咲いたはいいが、みんな壁の方を向いてしまっていたので、雨が降る前に切って家に入れた。
外で見るよりもよほど大きく、顔を近づけなくても良い香りだ。
裏山の紫陽花は何株かあってそれぞれが順次咲いている。
青とピンクが混ざり合っているので、土のpHは様々な程度なのだろうか。
などと思いながら今朝もぼんやり眺めていたが、後から見た妻が、
あら、百合が頑張っているわね!
と、声を上げた。
そこに百合があるのは知っていたが、それに目はいかなかった。
この写真のちょうど真ん中に膨らみつつある白い蕾が4つほどあり、それらのことを言っているのだった。
こんな時、男性的は視覚感覚と女性的な視覚感覚の違いを感じる。
男性である私は、紫陽花を見たらそればかりに目がいって、それらがどれほどあるか、どのような色がどのような割合になっているか、この先花はもっと増えるかもう終わりかというようなことを考える。
一方、これは私の想像だが、女性である妻はこの情景の全てを均等に眺めて、自分にとって心地よいものというものを抽出しており、この場合とくに新規の百合の蕾をトピックとして取り上げたのだろう。
もう、紫陽花は旧いものになっている可能性はある。
買い物に行ったら、私は目的とするものの売り場に向かうが、妻は、その日のうちにたどり着くことができるのかが心配になるほど、あれこれを見ながら歩いている。
”早く(売り場に)行こう!”と促しても、”せっかく(あなたと一緒に)いろいろなものを見ることができるのだからそんなに急がなくてもいいじゃない”といって、ノロノロ(しているように見える)歩いている。
こういった特性が普遍的なものなのか、私たち夫婦に限ったものかはわからないが、ある程度は男女の違いとなってはいるのではないか。
男性は目的達成のために女性よりも突進してしまう傾向がある。
男性が政治家のトップにいると戦争に突き進みやすいように見える。
目的達成のためには手段を選ばないという男性的な特性はもちろん必要だが、目的物以外にも目を配る女性的な特性というのも必要で、この二つがバランスよく共存するのがいい社会のような気がする。
理解し合うのは難しいけど
薄曇り。
先週末に大量に出た剪定ゴミを集積所に出しに行ったら、ほんの2往復だというのにずいぶん汗ばんだ。
6月中の熱帯夜が当たり前となって、熱中症に対する注意喚起が当たり前となってきた。
最近、暑熱順化という言葉を初めて聞いた。
暑さに慣れていない今の時期がもっとも危険なようで、激しい運動を控えて、少しずつ汗をかくをトレーニングが必要だ。
メッカへの大巡礼で1300人以上の方が亡くなったというが、気温が50度を超える熱波が相手では暑熱順化もない。
1日2リットルの水が必要とすれば、2週間旅するとしたら30リットル近くが必要になるわけで、そんなものを準備して行くのは不可能に近い。
それでも数万人の人が巡礼に向かうのだから信心の力はすごい。
今年でエルニーニョが終わるということだが、今年の夏も猛暑だという。
もう、地球全体の気温上昇は止まることはないだろうか。
寝ている間が一番怖い
朝のうち少しどんよりしていたが、このあと雲は取れてずいぶん明るくなった。
気温は下がらず、未明になってクーラーを入れた。
体が慣れるまでは慎重に行きたいが、今度はそれを超える暑さとなってしまいそうで怖い。
今日も蒸し暑く、午後からは雨になるらしい。
昨日、少し早く帰ったらちょうど日が沈んだあとで、駅舎を振り返ったら美しい夕焼けだった。
こういう風景を見ると幸せな気持ちになる。
小町通の横に射的屋がある。
少し前に気がついていたのだが、先週末、駅の近くの居酒屋に行った帰り、酔ったついでに入ってみた。
妻と二人分のお金を払って挑戦したが、なかなか当たらない。
それはそうだろう、商売なのだから、景品は落とせそうで落とせない。
ところが妻は小さなアヒルを二つも落とし、大きなアヒル一つに代えてもらっていた。
そういえば、義父に連れられて江ノ島の射的場でよく遊んだという話を、もう結婚前から聞かされていた。
その時も、射的は得意だということを言っていたが、どうせ遊びと思っていたし、その後一緒にすることもあったかもしれないがまさかこういうのも才能だとは思わなかった。
ただ、今回やっぱりうまい具合に落としたのを見ると、妻には射的の才能があるのだろうと思わざるを得ない。
この技術が本格的な射撃に役立つようになるかはわからないが、人の才能というのは意外なところに潜んでいるし、射的の腕前であっても私たちの話の話題になるし、笑顔も(ついでにアヒルも)届けてくれるので、有用なものと言えるだろう。
それ以外にもたくさんある
梅雨の晴れ間。
今年の上半期も残すところあと一週間。
あっという間。
今日は仕事だと緊張したのか4時過ぎに目が覚めてあとは寝たり起きたり。
早めに寝たので睡眠時間6時間は確保できたようだが、熟睡感は乏しかった。
外国人観光客が2ヶ月連続で300万人超え。
安倍元首相の目指した観光立国が現実のものとなり、年間3000万人には余裕で到達するだろう。
観光客イコール物見高い人なので、そのうち全国津々浦々で見かけるようになるだろう。
それはそれで悪いことではないし、そもそも日本人観光客だってかつてはありとあらゆるところに行っただろうし、そのまま住んでしまった人も少なくない。
おもてなしの文化が理解できる人なら大好きな日本で接客業もできるだろうから、人手不足にも対応可能だ。
残念なのは、日本にやってくる外国人が日本語を解さないということ。
外国に行く日本人も現地語はほとんどできないのでおあいこだが、これほど高度の先進国で少なくとも英語がほとんど通じないというのは驚きだろう。
でも、私にしてもおもてなしできるほどの能力はなく、日本語を話せないならツアーにしたらとリコメンドする。
コロナ禍で大ダメージを受けたものの、それを耐え抜いた観光業界、飲食業界の皆さんにとってはうれしい悲鳴というところだろうけど、そのうちこれも落ち着くだろうから、次のフェーズに備えておいたらどうだろう。
一言一言ゆっくりと
ずっと降ったり止んだりの1日だった。
9時過ぎに小雨の中、神社本庁離脱でお騒がせの鶴岡八幡宮に大祓いとお祓いさんを申し込みに行った。
すでにたくさんの参拝客で賑わっていた。
大谷翔平のホームランを見たあと、近所の画家さんが出展している横浜の展覧会を妻と一緒に観に行った。
会場が馬車道のとんかつ屋の近くだったので、帰りに寄った。
夕食から炭水化物を抜くようになって久しく、外での外食でも炭水化物をたくさんはとらないようにしている。
とんかつは、ご飯無くしては成立しない食事であり、衣のパン粉✖️ご飯という炭水化物二重奏が美味しい。
夜までには少し時間があると自分に言い訳をしてご飯をたっぷり食べた。
毎日のお弁当でもご飯は食べているのだけど、とんかつ屋のふっくらご飯は美味しくて、おかわりまでしてしまった。
おかげで夜になっても一向にお腹が空かない。
炭水化物は美味しい、そして普段摂取をセーブしたからか禁断症状にも似たものを感じてしまった。
あくまでも”たまには”
梅雨前線が九州南部まで迫り、関東地方も今日明日にも梅雨入りとなりそう。
『こころ』は昨日のうちに読み終え、感想も読書メーターに書き込んでおいた。
さっそく”ナイス”をいただいたが、その中のお一人に私と同じような感想を書いておられる方がいた。
私と同じような感覚を持つ人っているんだな、と思えると嬉しい。
相互フォロー、というのか、そういう関係のブロガーさんたちとのやりとりというのも面白い。
直接コメントをいただくこともあれば、あれ?これ、私に共感してくれているのかな?と思う記事を読むこともある。
こんな小さな発信であっても一緒に考えてくれる人がいるというのはやはり嬉しいものだ。
Xにはこのところ1日2度ぐらい投稿している。
せっせとやっているせいか、ちょっと病理ネタにしているせいかわからないが、アクティビティというのか、ケータイのアンテナみたいなのが、少し伸びるようになってきたのは面白い。
でも、長年のブログ生活で、こういうのの数にはだいぶ興味がなくなってきたので、それほど高いところではなくプラトーに達してくれたらいいと思っている。
他人の日々の感想が書かれている日記になんて誰も興味を示さない、というのはブログで収益化をという指南書によく書かれていることだが、そんなことをほぼ目論んでいない私としてはそれでいい。
何人かの方がブログの記事をほぼ完全に記事をパクられているのを見ると気の毒になる。
Xでもパクリは酷くて、PDFなのだろうか縦書きの付箋のようなものに書いたものをアップしてコピペを防いでいるツイートをよく見る。
私の記事は日々の感想で、生き方指南なんていうのはないので、パクられることはないだろう。
人間関係は2割味方、6割中立、2割敵、という262法則というのがあるそうで、すべての人に自分の思いや考え方が受け入れられるわけがない。
あまり目立たずに続けてゆきたい。
無理せずに
時々日の射す薄曇り。
昨日ほどの気温にはならないらしい。
アラ還にさしかかったからか、死ぬまでに読んでおきたい名作をあれこれ漁っている。
今は夏目漱石の『こころ』で、今日明日には読み終えるところ。
これほどの名著をこれまで読んでいなかったかと思いながら読んできたが、最後の”先生と遺書”になって、やっとこれが再読だと認識できた。
前に読んだのは高校生の頃だったか記憶にない。
それでも、読んだことを思い出せたのだから、私の人格形成になんらかの関与をしたものという気がする。
『人間失格』では”人間、失格”まできてやっと再読であることに気がついたのだから、それよりはマシかもしれない。
『こころ』は元が新聞連載だからだろうと思うが50数章よりなっており、やや冗長に感じるところもあるが、それは私の現代的な読み方のせいなのだろうと思う。
語り手と先生、また両親との関係性を語るにはこのぐらいのページ数と時間が必要だ。
読み手が一つの作品を味わい理解するためには、間というか余韻というか、そういったものがなくてはならず、ただ単にネタバレ要約を読むだけではいけない。
私にしても、登場人物のまどろっこしさに先を急いでしまいそうになってしまったが、なんとか踏みとどまって牛歩を選んだ。
そうするうち、作品の中の大きな出来事ではない、ささいなところで、再読であったことを、数十年の時を経て思い出した。
自分がかつてこの作品に没入していたのだと実感する。
読み上げ本を倍速で聞いたり、要約本で結末だけを知ることが悪いとは言わないが、それじゃあ作品を理解したことにはならないし、シンクロできたとは言えない。
仮に自分には難しい本であっても、それに挑戦することで新たな成長を実感することができるはずだ。
今はあれこれの“没入エンタメ”が出てきているが、こういうアナログな方法による没入も悪くはないと思う。
解説は江藤淳
早起き鳥に起こされて、窓の外を見たら東の山には霧。
昨日の大雨でまだあたりはびっしょりだが、ホコリはあらかた流されて梢の葉は輝いている。
ゼラニウムなど一部の花はやられてしまったので、出かける前に萎れたところだけ剪定した。
出かける頃には空はすっきりと晴れた、沖縄地方を除くと全国的に晴天となり、関東地方は30度を超える暑さとなるそうだ。
大リーグドジャースのリードオフマン(lead-off man)だったムーキー・ベッツがデッドボールによる骨折で長期離脱、代わりに大谷翔平が先頭打席に入った。
僚友の無念を晴らすかのように、3安打の大活躍でチームの勝利に貢献した。
中継放送を見ることができず、文字でしか知り得ないのだが、信じがたい大活躍で、ネットニュースでそのことを知った時にはおm感動した。
彼には野球の神さまがついているに違いない。
それはさておき、私が普段から拝読させていただいているブログ2本を読んでいたら、気になる言い回しがあった。
どちらも元記者の方が書いておられ、とても読みやすいのだが、この、大活躍した大谷翔平のことを、お二人とも”核弾頭”と表現していた。
確かにそうだが、これってどうなんだろう。
ロシア、北朝鮮、イラクなど核兵器について世界中が敏感になっている今、この言い回しについて急に違和感を感じてしまった。
ましてや日本は世界唯一の核弾頭を用いられた被爆国だ。
揚げ足取りをするつもりはなく、それぞれの方のコメント欄にそのことを書き込もうと思ったが、それは止めた。
私だって、このエントリーを書いていて、ベッツのことを”戦線”離脱として、あれ?これもおかしくないかと、”長期”離脱に直した。
スポーツには威勢の良い言葉がしっくりくる。
スポーツは、戦争での殺し合いの代替となる”平和”の証だが、平和だからこそスポーツができる。
戦争を示唆する言葉というのはいたるところにあって、それは平和のなかに容易に忍び込む。
言葉狩りという言葉が思い浮かぶ。
星新一は傑作『白い服の男』で戦争という言葉を抹殺する社会を描いたが、なにもそれは戦争だけでなく、病気や障害などあらゆる差別でおこり得る。
こんなことをいちいち気にしていたらブログなんて何も書けなくなってしまうかもしれないが、ほんの少し配慮した方がいいこともあるように思う。
そんな時は言葉を磨くことで文を書くように努めたい。
自戒を込めて
朝から大雨。
1日降り続くとかで、行きも帰りも交通の便が心配になる。
最近Xづいているということを書いたが、その後もそれは続いている。
こういうのは中毒性があって、まんまと引っかかっているのだが、いったい今の時点ではどんなところが刺激されてこうしているのか。
ブログを書いて刺激されるのとはちょっと別の部位なのだろうが、その明確な違いはわからない。
Xの中には色々なジャンルがあるらしいが君子危うきに近寄るべからずと、Xを始めて間もない頃からフォローしている一部の政治家とか評論家、生き方指南と、最近増えた(おそらく若手の)病理医の投稿などを主に読んでいる。
このうち、生き方指南は、アドラー関係と筋トレ関係を以前から読んでいたが、最近は、こうして生きると良いとか、メンタルが弱った時は、とか、そんなのが多い。
いちいち目を通し、なるほどそう考えたらいいのか、そうかそうだったのか、とか、早速やってみようとかいろいろあって面白い。
でも、最近はそれらの指南にはちょっと食傷気味だ。
そもそも、こういうのは本として駅ナカの書店にたくさんあり、これまでずいぶんたくさんの本を買ってきた。
Xはそれらのエッセンスが出ているのでコスパ、ダイパがいいということになる。
それはさておき、どれもその時々には瞬間的に役立つものの、それらの考え方を永続させるのは難しい。
お経のように毎朝毎晩唱えたらいいのかもしれないが、それでは思考の自由が奪われてしまう。
よりよく生きるための考え方、というのは決して悪いものではないが、それに束縛されてしまうと、また新たなプレッシャーを感じるようになってしまう。
こういうのは実はメンタルが強くないと読めないのかもしれない。
そこに列挙されている考え方は、どれも悪くはないのだが、では、それで楽しい人生が得られるかというとこれまた微妙な話だ。
結果として、勝手に軌道修正して元の木阿弥となってしまう。
生きるというのは難しいものだ。
あれこれ気にせず
天気予報だと、いよいよ今週末には梅雨入りしそうだ。
今日はお日様が見えるが、明日は大雨とのことで、備えておかねば。
昨日は父の日だったが、父も義父もすでに亡くなっていて、私にはもう父と呼べる人はおらず、彼らに感謝を伝える術はもはやない。
たとえ元気でいたところで大したことはしてあげられなかっただろうけど、時々寂しい気持ちになる。
親子の情というのはどう表現したら良いのだろう?
父子の相剋というのはさまざまだろうが、最終的にはわかりあって落ち着くのではないか。
少なくとも死ぬまで親を憎んで生きるというのは幸せではない。
私の場合、父が亡くなる前に全てを許せたらよかったのにと思う。
それは私が父親になったから思えることなのか、それとは関係などないか。
少なくとも今生きている人には親という存在がある。
人間誰しもこの問題について多少は考えることもできるだろうが、少子化が進むと親子の情を解する人も減るということになり、社会の意識も変化していくだろう。
それは良し悪しではなくあくまでも変化である。
昨日、娘夫婦がプレゼントをくれた。
その時、婿に「お義父さん」と呼んでくれないかと頼んだ。
欧米では親子でもファーストネームで呼ぶのが普通かもしれないが、いつまでも”コロケンサン”と呼ばれていたのには、日本人の私としては違和感があった。
最初、意味がわからなかったようだが、娘が説明してくれた。
夜になってお礼のLINEをだしたら、その返事に、「お父さん」と書かれていた。
もちろん、妻のことを「お義母さん」と呼んでくれるようにと頼むことも忘れなかったが、彼女はファーストネームのままの方がよかっただろうか。
10年後はどうなっているだろう