昨日は娘の20歳の誕生日だった。子供二人が成人となり、子育てもひと段落というところ。
長男が生まれた頃は、職住近接で都心に住んでいたのだが、空気のせいか呼吸器系が弱く、そのことを心配した妻が実家のある鎌倉は空気が綺麗だからと移ろうと提案し、私の超遠距離通勤と引き換えに引っ越すことにした。そして鎌倉に移り住んでから生まれたのが娘だった。鎌倉生まれの鎌倉育ち。東京生まれの息子も、鎌倉移住後は元気に育った。子供二人が良い子、いや立派な大人に育ってくれたことが私の通勤時間の対価としたら安いものだ。
だが、鎌倉住まいとは関係なく、娘は幼稚園の頃にアナフィラキシーショックを起こすほどの食物(ピーナッツ)アレルギーを発症した。今ほどアレルギーのこと、とくにアナフィラキシーショックについてはよくわかっておらず、当然のことながら社会的認知度も低かった。応急処置に必要なエピペンのことなんて、日本では誰も知らず、私自身もよくわかってなくて、同僚の小児科医などに色々と教えてもらった。その後、妻は学校や教育委員会に何度も働きかけ、やっとエピペンを学校に置いてもらうことを認めてもらった。妻が娘のアレルギーのこと、エピペンのことを書いたのが新聞の投書欄に取り上げられ、その縁で、新聞記者が取材してくれた。その記者がアレルギーのことを記事にしてくれたおかげで世間の無理解もずいぶん変わったが、その後も小学生が亡くなるという不幸な事故もあり対応はまだまだ足りない。そういうことがあるたび、明日は我が身と娘はさぞかし辛い思いをしただろう。
友達の家に遊びに行くにも、アレルギーがあるからと断わられ、心ない大人からは「ピーナッツの子でしょ」などとも言われたらしい。発症するまで明るく陽気だった娘が、それからは静かな目立たないようになったのもアレルギーのせいだと妻は言う。塾にいったら、「そういうお子さんは困ります」と断わられたり、「ライバルを蹴落とそうと、アレルゲンの入ったお菓子を教室で食べたり食べさせるような子も出かねません」とまで言われたりとか散々だった。中学校に入った時は、私が職員会議に呼び出され、先生たちの前で、アレルギーの話をし、何かあったらエピペンを打って欲しいとお願いした。心配症な先生からはそれでも何かあったらどうするのかと言われ、その時は亡くなっても仕方ありませんとまで答えたりもした。でも、勇気を持って娘のことを守ってくれた小学校の先生、中学校の先生、高校の先生はたくさんいて、無事卒業することができた。幸い、減感作療法が功を奏したらしく、ショックを起こすほどの状態ではなくなって、ずいぶん精神的に楽になった。大学に入って、部活だなんだと遠出するようになったがもう本人に任せている。
我が家の皆、もちろん娘自身が一番だろうが、いつも娘の死を意識してきた。四六時中(これは今でも)エピペンを持ち歩き、その時に備えてきた。妻の頑張りがあったからこそ未然に防ぐことができたのかもしれない。息子も買い物ではいつも食品の表示に気を配るような、妹思いの兄に育った。それにひき比べると、私は少々のんきだったような気がする。それはさておき、そんな娘が無事二十歳になることができたなんて、神様のおかげだろうと思う。多くの人に育ててもらった大切な命をこれからも大切にして強く生きていって欲しい。
みなさまのおかげです
食物アレルギー診療ガイドライン 2016 | |
海老澤元宏,日本小児アレルギー学会 | |
協和企画(港区) |