こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

なぜ死ぬことが怖いのかそして嫌なのか(上)・・・老衰が望ましい

2023年01月31日 | 生き方について考える
慌しかった1月が早くも終わる。
厳しかった寒さも少しずつほころびはじめ、立春ももうすぐだ。
道路を挟んで向かいのお宅が家を引き払ってからひと月あまり、不動産屋ののぼりの後ろでは解体工事が始まっている。
今は、リサイクルできる廃材をはずしているところらしく、今朝見たらアンテナが取り外されていた。
この家も思っていたより土地が広く、二筆に分けて売り出されているが、どんな人がやってくるだろう。

さて、昨日の話の続きになるが、人間どうせ死ぬとわかっているのにではなぜ死ぬことが怖いのかそして嫌なのかと、書きながら考えていたが、どうしてなのかなかなかわからなかった。

人が死ぬ時のパターンはいくつもあるが、大まかに5つに分けられるのではないだろうか。
老衰、病死、事故、他人に殺されるそして自殺。
老衰、これは最も理想的な死に方で、加齢とともに年老い、やがては生きる気力を失い命の灯が消える。
病死、人は死に至る様な病気に侵されるが、ひと昔前だったらすぐに亡くなってしまうような病気でも近年は大幅な延命を得られるような治療法が出てきて、ここから、死ぬまでの準備時間を得ることができるようになり、老衰のような死に方ができるようになってきたのではないだろうか。
現代医学が向かっている方向はこの辺りだろうか。

老衰にしても病死にしても、最期に自らの死を受け入れることができるという点で、主体性のある死と言えるだろう。

これに対し、事故死、他人に殺されるというのは、いずれも理不尽な死で、準備がほとんどできないという点で、このような目には遭いたくない。
そういう意味で、他人との諍いも時として死に発展しうるので、日常生活でもトラブルを避けたい。
自殺は自分の意思で選ぶ死のようだが、実際は社会的な要因によって追い込まれたもので、主体性は乏しい。
これら3つの死は、一生に一度しかない機会を自分以外の事によって奪われるという点で歓迎されるものではない。

こうして整理してみると、なぜ死ぬことが怖く、そして嫌なのかが見えてくるのではないだろうか。
どうしたらそこに至ることができるか

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自分を客観的に捉えて生きるには

2023年01月30日 | 生き方について考える
朝の写真が日の出の時間に戻ってきた。
といっても、写真を撮る時間はほぼ同じで、夜明けが少し早まってきたわけで、私が生きて生活している地球と太陽との相対的な位置関係が変化した結果こうなっているというだけの話しだ。

自分のことを客観視するというのは難しい。
それはこうしてあれこれ考えていることからも明らかだ。
考えというのは、肉体が感じる快不快から始まって、頭で考える利益不利益などで、結局のところすべては自分の判断の範囲内。
今、こうして書いていることだって私という人間が思いついたことに過ぎない。

人間の行動はすべて主観的な思いから始まるのに、その結果が思い通りになることは滅多にない。
仮に、短期的な目標を立ててそれを達成したところで、その後アテが外れたなんてこともある。
がっかりしないためには、できる限り客観的に結末を予想しておくといいのだろうが、では、どこまで予想しておけばいいのかなど誰にもわからない。

客観的にみて一番はっきりしているのは、死ぬことだが、残念ながらそれがいつ来るのかよくわからないし、わかった時に自分が何をどう考えるかもわからない。
こうして考えてみると、父の死に様は見事だった。
仕事に打ち込み、多くの人の役に立っていたが、体調を少し崩したのち、最期は生きる気力を失って静かに旅立った。
犬のナイトもコロも、最期は生きようとする気力を失ってやすらかに旅立った。
人生で唯一明らかな結末は死ぬことだ。
自分というものが死にゆく存在であり、生きているのは死ぬためだと常に考えていられるようになれば落ち着いた毎日を送ることができるかもしれない。
生きることは怖いかもしれないが

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親戚づきいあい

2023年01月29日 | 家族のこと
昨日に引き続き今日も穏やかな晴天。
午前中はバラの鉢増しと豊島屋まで手土産を買いに妻と散歩。

午後は娘も連れてひと月ぶりに孫の顔を見に行った。
娘は甥である孫が生まれてから初対面。
ひと月ですいずん顔もしっかりしてきていた。
息子の嫁のご両親ともゆっくり楽しく話すことができた。
せっかく都内まで行ったので、帰りがけにお袋のところにも顔を出した。
娘は友人の誕生日祝いに行ってしまったので、妻と三人でよもやま話。
ちょっと体は疲れたものの、心はゆったりすることができた。
さあまた明日から頑張ろう

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人類は進歩しているのか

2023年01月28日 | 日々思うこと、考えること
手すりに夜露がついているのかと思ったら氷だった。
せっかくの晴天で布団を干そうと思っていたが、これが溶けるのを待ち手すりを拭いてからにした。
あとは、七里ガ浜に住んでいるという人のブログに、先週剪定をしたというのがあったので、私も見習ってバラの剪定などして過ごした。
平和な1日。
でも、テレビをつけると、連続強盗事件とウクライナ侵略。

人類が一歩一歩進歩しているとしたら、いつかは恒久的な平和を掴むことができるのだろうか。
それともその前に滅亡してしまうか。
平和が絶対的に正しいことであるかはわからないが、もし平和が実現される時があったら、その時の人たちは今の時代を振り返ってどう思うだろうか。

この前からこんなことばかり考えている。
人類にとって正解とは何か、正解などそもそもないのか。
せっかくの休みの日だが、こんなつまらないことを考えて過ごした。
そんなことはない、大切なことだと考えなくてはならないだろう。
進歩するには時間がかかる

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誰にでもできることは誰からも求められない

2023年01月27日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
空は厚い雲によって覆われているが、放射冷却現象が起こらなかったのか気温は1度。
とはいえ、関東地方は午後には雪が降るかもしれないという予報だし、何よりお日様を拝めないというだけで心は冷たくなる。

大騒ぎしていた今月末締め切りの原稿だが、なんとか脱稿にこぎつけ昨晩ポストに押し込んだ。
心許ないところがないわけではないが、あとは校正で挽回しよう(編集者さん、ごめんなさい)。

仕事というのは不思議なもので、引き受ける時は簡単にできてしまうと思っている。
今度の原稿だって一応スペシャリストということで依頼があって、安易に引き受けたのだが、いざ着手したら大変な山が聳え立っていることに気がついた。
そう、着手した次の瞬間、そこには責任が生じる。
そして、仕事を全うするために、入念な準備が必要になる。
原稿の場合、その疾患の発症機序について調べ、発症機序の詳細を調べ、その詳細に出てくることを調べ、とキリがない。
もちろん、RNA干渉のことを勉強できたのは良かったが、それに1ヶ月を費やしてしまった。
だが、そのおかげで、なんとか体裁を保った文書になったように思う。

誰にでもできるようなことは、誰からも求められない。
そんなもの、自分でできる。

私だって、当たりの出るとわかっているスロット台になら一週間でも一ヶ月でもその前に座っているだろう。

関東を中心に各地で起こっている強盗事件の実行犯たちは日給100万円で集められたそうだ。
お金欲しさに、自分とその家族の個人情報を担保に仕事を引き受けたうえ、その仕事は犯罪。
犯罪は犯罪でしかなく、困難でもなんでもない。
何かを生み出すことが仕事であって、人のものを横取りすることは仕事とはなり得ない。
個人情報を渡した後になって後悔しても手遅れで、引き返す場所はなく、強盗に加担するしかなかったのだろう。
今回失われた個人情報は、それを得た犯罪者から別の犯罪者へと受け継がれ、そのことで本人のみならずその家族までが一生苦しむことになるであろうということはなんともやりきれない。

なんにしても、仕事をしてお金を得るということは大変な苦行だ。
絶対勝てるスロット台だって、一旦離れたらその権利が失われるとなったらどうだろう、死ぬまで座り続けていられるだろうか。

あんなに頑張ったのに見返りはたったこれだけ、と感じることは少なくないが、それがその仕事の価値なのだから仕方がない。
かといって、安易な仕事や犯罪に手を出すようなことは、今度は自分の尊厳をおとしめることになる。
仕事の価値をどこに見出すかは難しい。
日本人の給料が30年間上がっていないことが話題となっているが、これは日本でする仕事の価値が相対的に下落しているということかもしれない。
人材の海外流出が止まらない

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脱稿が見えてきて考えること

2023年01月26日 | 日々思うこと、考えること
今朝の鎌倉、昨日よりは1度高くて氷点下3度。
とはいえ、お日様が顔を出しているのでよしとしよう。
近畿地方の交通の混乱はまだ続いている様で、気の毒なことだ。
混乱に巻き込まれたすべての方にお見舞いを申し上げる。
職員の方たちが一生懸命頑張っているであろう姿を思い浮かべると、目頭が熱くなる。
くれぐれも安全に職務を遂行していただきたい。
こんな姿を思い浮かべると労働というものが尊いものだとつくづく思う。
人間は一人で生きることはできない弱い存在であって、力を合わせてここまでやってきた。
やらなくてはならないことを各人が分担して行うのが仕事というものなのだろう。

ところで1月いっぱい締め切りの原稿もやっと脱稿が見えてきた。
参考文献の合わせをすませ、追加の顕微鏡写真も撮り終えた。
できたら明日には出版社に出してしまいたいところだ。

締め切りというものは不思議なもので、これがあるとないとでは仕事にかける力が全く違う。
締め切りなんてものがなければ、心穏やかに仕事を進めることができるのだが、これがなければ仕事は永遠に片付かない。
誰かにやってもらったらいいのに、それはそれでプライドが許さないから嫌だと思うのも不思議な感覚だ。

いつまで経っても終わらせることができないという事態が発生することを考えると仕事そのものがあまり好きではないということにもなるが、人間社会の維持のためには各自が仕事をしなくてはならない。
仕事がなければ困るし、あっても困る。

せっかく、あと一息というところで、こうやって余計なことを考えるのも、本質的には仕事から逃げたいと思っているからだろうか。
今日のエントリーはこのぐらいにして切り上げ、あと一息頑張ろう。
頭の中がクリアになる

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キオスクで酒に伸ばした手がふと止まり

2023年01月25日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル
今朝の鎌倉は氷点下4度。
さすがに寒く、いつもより暖かくして出かけてきた。
それでも電車の車内では、換気のために少し下ろしてある窓から入る冷気のせいで足が凍りそうだ。
その窓からは、寒さのせいで水道管が破裂したのだろうか、マンションのベランダから噴水のように立ち上がる水柱が見えた。
京都ではJR線が一晩中立ち往生となったそうで、乗っていた人はさぞ辛かっただろう。
閉所恐怖のパニック障害のある私としては大いに同情する。
かくいう私も、昨晩は名古屋駅の手前で15分ほど動かなくなった時は症状がちょっと出てあわてたが、その後、新幹線はスムーズに動いてくれてことなきを得た。

昨日は、行きと帰りと現地での仕事とで3分の1ずつという時間配分となり、往復の間も、その仕事の準備と原稿の整理に充てた。
最近、新幹線の中で酒を飲まなくなった。
昨晩も売店で飲み物を探していたときに、ビール、ハイボールをひとしきりながめたあと、温かいほうじ茶を選んだ(こんなふうに駅の売店に酒が大っぴらに並んでいるのもどうかと思うが・・・)。
仕事を少ししようと思っていたのと、新幹線が立ち往生した場合を考えて利尿作用のあるアルコールを控えたというのもあるが、あまり飲みたいと思わなかったというのが正直なところ。
家に帰ってからは、妻の手製のおでんと、お土産に買った柿の葉寿司を肴にして結局のところ飲んだので、酒が嫌いになったというわけではなさそう。

どの程度のアルコール量だと、どの程度酩酊するかということがわかってきたせいもあるのかもしれない。
酒は強い方ではないので、赤ワインならボトル半分、ウイスキーはショットグラス5杯、日本酒だと3合程度で、十分酔っ払う。
ビールはお腹が膨れてしまうのと、それほどコスパがいいわけではないということに気がついたので、滅多に飲まなくなった。
この程度でやめておけばちょうどいいのだが、あと一杯を飲んでしまうのがいけない。

気分がいいから、ついもう一杯となってしまうのがお酒の魔力。
それでも、出張帰りも含めて外で飲まなくなったのは安全上もいいことだろう。
逆に、外での飲み方を忘れてしまったということなので、そんな機会があったら早めに切り上げることを心がけないといけない。
喧嘩やからみはもってのほかで、そんな時はそもそも自分が酔っ払いであるということを忘れない様にしたい。
酒は飲んでも飲まれるな

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日本が安全だという神話の終焉

2023年01月24日 | 日本のこと、世界のこと
今日は奈良まで日帰り出張。
奈良には、ぜひお会いしたいブロ友さんがいたが、とんぼ返りでお会いすることはかなわなかった。
近鉄特急がその方の事業所の近くを通り過ぎたときにそちらの方を見遣ったものの残念ながら手前の建物の影に隠れて見えなかった。
その後は大雪でどうなることかと思ったが、名古屋を過ぎたら雪は消えて少々の遅れで済んだ。
新幹線は行きも帰りもよく混んでいて、外国人観光客もちらほら見えた。

日本は安全だから安心に旅行ができるという外国人観光客は少なくない。
安全であることが、観光客を日本に招き入れるセールスポイントだが、なんだかそれもそろそろ終わりになるのではないか。
というのも、最近頻発する凶悪犯罪をみて、日本人の倫理観というものの底が抜けてしまったのではないかという気がするからだ。

ネットの裏サイト(これは逆に誰でもアクセスできるということ!)だとかで犯罪者を集め、見知らぬ者同士でチームを組み、あらかじめ目をつけていた店や個人宅に押し入り、強盗をする。
しょせん素人の集まりだからうまくいくこともあれば、そうもいかない時もある。
うまくいかないときには、最悪人の命をいとも簡単に奪ってしまう。
そこにはひとかけらの倫理観も人間性も見て取れない。
戦争の時代を乗り越え、他にもさまざまな苦労をこえて生きてきたかも知れない90歳の最期が強殺とはやりきれない。
彼らがネットを通じて集められ、指示された場所で強盗をするのは、バーチャルな世界の延長に過ぎないようで、そのことが余計に不気味に感じられる。

日本人の美徳などという幻想はもうすっかり失われてしまったみたいだが、いったいいつからこんなことになってしまったのだろう。
始まりはバブル期だったか。
傍若無人の地上げの風景は多くの人の心を傷つけ、それに続くバブル崩壊後の停滞の30年間。
高度成長期の蓄えのほとんどすべて食い潰し、さらには倫理観を失って犯罪に走る人間が増えるのも仕方がないかもしれない。
しかしながら犯罪は人のものを横取りするという、何も生み出すことのないゼロサムゲームであって、決して許されることではない。

日本の安全が失われてしまったのはなんとも残念なことだ。
一旦失われてしまったものを取り返すには大変な努力と時間を要する。
それを取り戻すのに最低でも失ったと同じ時間がかかるとすると、日本がそれを取り戻すのを見届けることはとてもできそうにないのはとても残念だ。
帰りは大雪

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どうしたらいつも笑顔でいられるか

2023年01月23日 | 生き方について考える
明日からいよいよ大寒波がやってくるということで、いまからもう緊張している。
寒くなる寒くなると騒ぐほど心臓に毒の様な気がするが、無防備でいる人への警鐘としては必要なことだから仕方ない。
それにしても今朝は風花が舞うような曇り。
昨日のように気温が低くても太陽が出てさえいたら赤外線の効果でポカポカしてくるが、これでは寒いばかりだ。
かさばってしまうが、一番大判のマフラーを首に巻いて出てきた。
ここ数年、毎朝、妻に駅まで送ってもらっている。
車を降りる時に必ず、

(今日も1日)笑顔でね

と背中から声をかけてくれる。
その都度、必ずといっていいほどそのことを忘れている私は、口角を上げて笑顔を作ってみるが、どうもいつも引きつってしまい、駅の方から歩いてくる女子学生たちに訝しがられているのではないかと心配している。
せっかく作ったその笑顔も駅のホームにならぶ頃には消え失せていて、ふと思い出して口角を上げてみる。

世の中には基本的に笑顔の人、というのがいる。
笑いながら歩いている人というのはあまりみないが、話すとすぐに相好を崩す人というのがいる。
私もそんな人を見習いたいと思うが、どうもそれは難しく、いつも仏頂面を下げている。
気に入った人と話したら放っておいても笑顔にもなるが、それは特定の相手とだけで、誰にでもというわけではない。
マナーの悪い人にはムッとした顔を向けて、険悪な空気すら漂ってしまう。
世の中の人みなが、恨みも争いも忘れて笑顔でいたらもう少しマシな社会となるだろうが、なかなかそうはならない。

いっそのこと、朝昼晩に笑顔の時間を作ってみたらどうだろう。
イスラム教では1日5回礼拝するというから、日本でも1日3回笑うことを義務化したらどうだろう。
さすがに笑顔で悪事は働けないだろうから、犯罪も減る。
そんなことを皆にお願いする前に、私自身が1日3回笑ってみようか。
365日、休みなし

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大寒の中に春を探しに鎌倉散歩

2023年01月22日 | 鎌倉暮らし
明日からの大寒波の到来を前に、今日はスッキリと晴れ暖かな1日となった。
気温が低くても、日の光があると元気も出る。

庭の木に傷んだみかんをさしておいたら野鳥の餌のファットボールには目もくれず、メジロがやってきてつついていた。
野鳥の餌は、もっぱらシジュウカラとスズメが食べている。
鳥にも食の好みがある。

荏柄天神のロウバイが咲いたので見にいこうと妻に誘われて久しぶりの鎌倉散策。
初詣ラッシュと鎌倉殿のブームもおわって、少し落ち着いたが荏柄天神は受験合格祈願のお参りで結構混んでいた。
私も菅原道真公にあれこれ祈願をしたものの、原稿のこと、病理学会での発表のこと、某学会の理事を引き受けることになったこと、などなどお願いしなくてはいけないことが色々あり過ぎ、途中でお願いは打ち切った。

午後からはオンラインで研究会のミーティング。
好むと好まざるに関わらず、周りの人は始動していて私もしっかりしなくてはいけない。
<締めの一言>

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観光地に住んでいると渋滞がつらい

2023年01月21日 | 鎌倉暮らし
今日は頼まれ仕事で車でおでかけ。
すっきした晴れで、朝、134号線から富士山がよく見えた。

こんないい天気の日に仕事というのももったいないことだが、仕方がない。
ある意味私を頼りにしてくれているわけで、それに応えないわけにはいかないからだ。

困ったことが一つあって、朝、鎌倉から出て行く分にはいいのだが、夕刻帰ってくる時にはひどい渋滞に巻き込まれるということ。
ならば電車でということにもなるが、ちょっと遠方なのでそれもどうか。
こんなところに住んでいるのだから仕方がないといえばそれまでだが、なんとかならないだろうか。
疲れは仕事半分、運転半分

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私たち高齢者が今の世の中を作ってきた

2023年01月20日 | 日本のこと、世界のこと
今日は大寒。
ここ数日ほんの少し気温が高かったおかげか、今朝は4度あった。
検索すると大寒については毎年書いていて、去年は0度だったということだから、ずいぶん暖かい。
といっても、明日からはもう一段寒くなるそうだから油断はできない。
空を見ると、いかにも”氷の粒”が浮いている様に見える。

ここ最近、物騒な事件が頻発している。
ストーカーとなったかつての交際相手に女性が路上で刺殺され、和歌山ではバラバラにされた死体が出てきて、関東一円では強盗殺人が頻発している。
親子間での殺人も”よく”聞かれるし、世の中一体どうなってしまったのだろう。

かつては、個々の事件はとても特殊な状況下にある人が引き起こしたものだったが、今はたまたまその人が引き起こしただけ、のものになってしまった様な気がする。
すなわち、誰しも犯罪を起こしてしまう可能性が高くなっているのではないだろうか。

私が今の中学生か高校生のようにスマホがあったら一体どんな若者に育っていただろうかと思うと恐怖を感じる。
おそらく、スマホに関わる事件・不祥事を大なり小なり起こして、犯罪者となっていたか、破産していたのではないだろうか。
そう考えると、大きなお世話だが、今の若者が気の毒になる。
いったいどうしてこんな世の中になったのかと考えると、若者たちにしても社会的弱者であり、その人たちを食いものにしてきたということはないだろうか?
身体的に衰える大人たちが若者に頼ることは間違いではないものの、それを利用するばかりでは、マスとしての若者がそれに嫌気を持つのは仕方がない。
その最たるものが少子化ではないか。
今の物騒な世の中を作ったのは私たち高齢者にほかならない、そんな観点から問題を考えていく必要がある。

私に残された時間はほとんどないに等しいが、それでもできることはまだある。
後進の指導などと言って私の狭量な考えを押し付ける気はないが、何か良かれと思えることの種を蒔くことぐらいはしておきたい。
このブログだってその一つの方法となるのではないかと考えるともう少し身を入れて書こうと思う。
主体的に考える

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何かするなら月のようにクローズアップして

2023年01月19日 | 日々思うこと、考えること
目が覚め、窓から東の方をみると、窓の灯りが点々とみえる真っ黒なスカイラインの上の薄橙色に明るくなりはじめた空にくっきりとした輪郭の三日月が浮かんでいた。
これなら一つのアングルに収まると、手ぶれに気をつけながら撮った写真を見直すと、月はとても小さく、形すらあやふやだった。
顕微鏡を通して見る組織と同じで、人間の脳は必要な情報、大切な情報を抽出する能力に優れている。
それなら望遠レンズで月の写真を撮ったらいいかというとそうではなく、視野全体に広がる風景の中の三日月であることが重要で、こんなことができることこそが人間の脳の処理能力のすごさで、そのおかげで無力な生物である人間の今の繁栄につながったといえる。

昨日の病院機能評価は無事終了。
講評ではサーベイヤーが病理と検査科のことを取り上げてくれてた。
検査部門は患者さんと直接接することが少ないため、患者さんはもとより、臨床医、コメディカルからも院内で話題にのぼることの少ないので、いいアピールとなった。
コメントしてくれたサーベイヤーは臨床医だったが、病院の中での病理・検査部門の重要性をわかってくれていてありがたかった。

ホッとしたせいか、気合を入れ過ぎてきたからかよくわからないが、ちょっと気がたかぶっていて、晩酌が過ぎてしまった。
今週は減量のため禁酒をなどと言っていたはずなのに、却って酒量が増えている。
今日こそはと思うどころか、来週からにしようなどと意志の弱さを実感する。

何はともあれ、心理的にも時間的にもちょっと時間ができたので今月締め切りの原稿にケリをつけようと思う。
あれもこれも同時進行で片付けられたらいいのだが、集中して取り組むことができるのは、一つの期間中、一つしかない。
月を見るときと同じで、何かの仕事に取り組む時もクローズアップすることが最も効率がいいように思う。
そこに集中する

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医療機関は臨床検査部門がなくてはたちゆかない

2023年01月18日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
また曇りの朝。
昼前には雲もとれ、暖かくなるみたいだが、明後日の大寒にあわせるかの様に大寒波がやってくるとのことで、ちょっと身構えている。

今日は病院機能評価の2日目。
昨日は、病理診断については申し込みのやり方とか結果開封のことで、病理診断そのものの手順についての質問はなかった。
他の検査についてもパニック値の取り扱いについてで、これも主に臨床サイドでの取り扱いだった。
今日は、部署訪問、サーベイヤーが検査科に乗り込んでくる。
部長以下しっかり対応しようと思うが、実際のところは技師長をはじめとする検査技師の皆さんにやっていただくこととなりそうで、私は刺身のツマといったところ。
餅は餅屋で、病理診断以外はお任せしたほうが無難。
病院の臨床検査室というのは縁の下の力持ちで、ここがしっかりしていないと医療機関はたちゆかない。
最近は、外来患者の場合は診察前に採血採尿をするのが当たり前になっていて、診察のときには血液、尿のデータが揃っていて、担当医はそれをみて、診断治療を進めていく。
採血、尿の処理、検査を行なうのが臨床検査技師で、検査室も朝早くから始動している。
入院患者の検査はほぼすべて対応しているし、緊急のものは当然24時間対応だ。

そんな臨床検査室だが、21世紀に入ってから標準化が急速に進展している。
簡単に言えば、どこの病院の検査室でもほぼ同じ様な精度の検査結果が出る、どの検査室でも臨床検査技師は同じ手順で検査を行うことができるといったようなことだ。
また、がんゲノム医療の進展により、それぞれの医療機関が勝手な基準で診断治療をすすめていてはならないところまで来ている。

病理診断もまたしかりで、私も試練にさらされているわけだが、幸い優秀でやる気のあるスタッフに助けられてなんとかやっている。
臨床検査部門では、採血、心電図・超音波などの生理検査以外の部門のスタッフは院内ではほとんど患者さんと接することがなく、その存在すら知らない人もいるが、検査データは自動販売機にコインを入れたらポンと出てくるわけではない。

機械に負うところが増えて実際に手を動かすことは減ってきているが、その分、精度管理やリスクマネジメントなどの仕事が当たり前の様に増えてきている。
臨床検査室がしっかりすることがその病院の技術を担保することになるということを意識することが大事で、最近ではそのための手順、整備を面倒だと思わずに取り組んでいくことが必要だと思うようになった。

なお、標準化と画一化とは異なるのだが、このことはまた別の機会に。
コロナ禍でも頑張ってます

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死を受け入れるための一つの方策としてのメメント・モリ

2023年01月17日 | 生き方について考える
平成7(1995)年1月17日に6千人余りの人が亡くなった阪神・淡路大震災が起きてから28年、私はまだ生きている。
自分の意志で生きているのか、それとも神さまに生かされているのかはわからない。
YMOの高橋幸宏さんが70歳で亡くなった、脳腫瘍を患っていたという。
中学〜高校の間、YMOの熱心なファンだった私としてはすくなからず衝撃を受けた。
久しぶりにYMOを聴くと、全く色褪せない曲調に感動すら覚えるが、もうそれを聴くことはできない。
自分の人生の一部が重なる出来事、人物が、死によって過去のものとなっていく。

メメント・モリという言葉を最近よく耳にする。
ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな」「人に訪れる死を忘る事無かれ」というような意味だ。
このことは多くの方がブログで触れているし、私ですらこれまでに何度か書いたことで、死は人類いや、生きとし生けるもの全てに共通した運命だ。

こういった言葉が流行るようになったのは、どこまで行ってもいつまで経っても逃げることのできない新型コロナウイルスのせいなのか、ウクライナでのロシアによる民間人の虐殺を目の当たりにしてのことなのか、それとももっと他のことのせいなのかはわからない。
ただ、死というものが以前よりもぐっと近くなってきたことは間違いなく、より多くの人が”死”を考えるようになったのではないか。

自分が死ぬということを考えるのは辛い。
たとえ五体満足のつもりでも、いつ死が訪れるかなど全くわからないし、それが突然やってくることになったらさぞ慌て、恐れおおのくだろう。
そんな死から逃れることはできないが、死の恐怖から逃れることはできるのではないか。
そんな思いが、死への恐怖をメメント・モリというちょっとオシャレな言葉に置き換えているように思う。
人はなぜ、生きたいと思い、死にたくないと思うのか。

ベランダに集う小鳥やリスたちは、生きることが当たり前で、一生懸命生きているようにみえる。
彼らは自らのというものをどう考えているのだろう。
それより、人に食べられてしまうために生かされている家畜たちにとってのとは何か。
死は全ての生命にとって普遍的であるが、それと同時にそれぞれの個体にとって固有の事象でもある。
生命を共有することはできない。

ところで、私は病理医で、医師としてこれまで数百の死体と向きあってきたはずなのに、生命活動の停止としての死しか考えておらず、死そのものの意味は考えてこなかったような気がするが、いったいなにが死の本質であるのかはよくわからない。

死んだあとのことは考えない

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