こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

なにが書いてあるのか・・・なにが書いてあるのか、誰が書いたものか(2)

2013年09月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
最近読んだ雑誌に、今日の人間が1日に生み出す情報量は、人類が太古から2003年までに生み出した情報量に匹敵する、というようなことが書かれていた。
今、私たち人類は、未曽有の情報の洪水にさらされている。そして、この洪水はしばらく収まることはないだろう。

病理の教科書、参考書を読むにあたり、そこになにが書いてあるのか、ということを考えるとき、少なくとも教科書レベルではもう病理学を語ることは出来なくなりつつある。

教科書にある項目数は膨大な数である。だが、それらがすべて最新のものであることは難しい。
先日、ある教科書の執筆に加わらせていただいたが、書いていく端からデータは陳腐なものとなってしまう。
病理学は広大な学問であり、それこそ、基礎医学から臨床医学までの幅広い分野を統合したものであり、それぞれが爆発的な広がりを持ってしまった今日、1冊の教科書でそれぞれの分野の先端の知識をカバーすることは難しくなりつつある。
なにより、教科書は改訂が数年に1度しか行われない。だから、一部の分野について新たなことが分かっても容易に改訂できないために、古い知識が残ってしまうこととなる。

教科書にはたくさんのことが書かれているが、それらはすぐに古くなってしまうというのが、現状である。

一方、参考書。
日本の病理学の参考書の最高峰は「外科病理学」である。
あんな立派な本を参考書とは何事、とおっしゃる方もいるかもしれないが、病理総論が述べられていない点で参考書であると考える。
「外科病理学」だけでなく、病理診断のための参考書的な書物はこれまたたくさん発行されている。

消化管、皮膚、乳腺、呼吸器、血液疾患、リンパ腫、腎臓・・・数え上げたらきりがない。

これらの参考書は、小さい分、小回りが利く。それぞれの臓器、疾患について細かく書かれている。

病理学の初めて勉強する学生にとっては教科書でいいだろうが、病理診断を行う病理医にとっては参考書を多数そろえて業務にあたることになる。

次回は“誰が書いたものか”について。

病理の教科書・参考書・・・なにが書いてあるのか、誰が書いたものか(1)

2013年09月29日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
なにが書いてあるのか、誰が書いたものか、といっても、ブログとかTwitter、Facebookで最近炎上している類の話ではない。
病理の教科書とか参考書といっても、具体的に書籍、雑誌の名前を挙げるつもりもない。

先日、病理診断科内で病理の教科書、参考書の話になった。
若いレジデントの先生あたりは、けっこう詳しく、あれがいい、これがいい、といっていた。
病理診断をする際には二種類の本を使う。
いわゆる教科書、と、診断のための参考書だ。
病理の教科書は『○○病理学』といったような、立派な名前がついていて病理総論を中心として、各論も書かれている。病理総論については、これまでにもこのブログ(こんきも)の中で触れているので、そちらを参照していただきたい(2012年02月19日「病理医になるための勉強・・・下」、2012年10月28日「少し、同情してもらった」ほか)
一方、参考書は私たちが駆け出しのころにはなかった類のものだ。すべて、病理診断のためのもので、昔風に言えば”虎の巻”。”病理診断マニュアル”とか”病理アトラス”といったたぐいのものだ。
病理診断の参考書のことも、後日あらためて書くとする。
参考書で足りない時は論文を探す。

気がついたことがある。ここからが今日の本題である。

どんな書物にしても、”なにが書いてあるのか”と”誰が書いたものか”のどちらが大切かということ。について書こうと思ったのだが、またまた手ごわいテーマにぶつかってしまったような気がする。

一回で片が付く話ではないので、四回に分けることにする。
次回は“なにが書いてあるのか”について。





体罰は年だけとった子供のすること・・・学校教育(2)

2013年09月26日 | 日本のこと、世界のこと
学校のみならず、すべての教育・指導で、教育者・指導者はどうすればいいのか考える。
生徒、選手の勝手にさせていては指導はうまくいかない。
勉強はつらいし、練習もつらい。できれば、勉強しないでいい成績がとれたらいいし、練習しないで優勝したい。
だが、競争相手は、勉強するし、練習する。

だから、負けないように厳しく指導する。そして、そこに体罰を用いる指導者が数多くいる。

体罰について、私はブログの中で取り上げてこなかったが、昨年の大阪市立桜宮高校の事件をきっかけに、今年に入って、3度考えを述べている。
しつけ、体罰、愛の鞭(1月13日)では、子供をたたく指導者にどれほどの覚悟があるのかということを問うた。
今が、わたしたち日本人の転換点では(1月31日)では、日本人そのものが変わっていく必要があると考えた。
私は大人になれるか(2月12日)で、体罰をするのは精神年齢の発達無く、年だけとった子供のすることという結論に達した。

体罰で指導する者というのは、結局のところ自分に自信の無い子供なのであろう。暴力で口を塞げば、自分への応酬は無い。だから、何でもし放題となる。体罰を受けた子供達がどのように心に傷を負うかなど考えたりもしない。

先日、WOWOWで『コーチ・カーター』という映画を観た。落ちこぼれ高校のバスケット部のコーチになったカーター氏が生徒達を更生させ強いチームを作っていくという話だ。

当たり前だが、そこには体罰は一切出てこない。
選手達を愛し、話し合い、育てていく。
カーター氏は大人であり、指導を受ける選手達も大人になっていった。そういう意味で、素晴らしい映画であった。

バスケットしかなくて、バスケットが好きで、それでも自殺した選手は最期の時をどんな思いで過ごしたのだろう。


【朝日新聞デジタル 9月26日】
体罰自殺、元顧問に有罪判決 桜宮高事件 大阪地裁
【岡本玄】昨年12月に自殺した大阪市立桜宮(さくらのみや)高校バスケットボール部主将で2年生の男子生徒(当時17)に対する傷害と暴行の罪に問われた元顧問の小村基(はじめ)被告(47)=懲戒免職処分=の判決が26日、大阪地裁であった。小野寺健太裁判官は、懲役1年執行猶予3年(求刑懲役1年)を言い渡した。
小野寺裁判官は「効果的な指導と信じて暴力的指導を続けてきた」と指摘。そのうえで「生徒が肉体的苦痛に加え、精神的苦痛を受けたことは自殺したことから明らかだ」と体罰と自殺の因果関係を認めた。その一方で、「自殺を量刑上大きく考慮するのは相当ではない」として猶予判決とした。
判決によると、小村元顧問は昨年12月18日、同校体育館であった練習試合で、ボールに飛びついて捕球する姿勢を見せなかったため、生徒の顔や頭を数回平手打ちしたほか、4日後の同22日には「自分の意に沿わないプレーをした」などとして十数回たたき、口を切る約3週間のけがを負わせた。生徒は翌日未明、自宅で自殺した。

宮崎駿監督映画『風立ちぬ』でのタバコの描写について

2013年09月24日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル
妻に、宮崎駿監督の最後の長編アニメ映画となる『風立ちぬ』を観に行こうと誘われたとき、少し躊躇した。
というのも、この映画、喫煙シーンが多く、反喫煙団体がスタジオジブリに抗議していたという話を聞いていたからだ。

私は、元喫煙者で20年以上のあいだ、ニコチン中毒者として紫煙にまみれて生きていた。数年前に、ニコチン中毒から離脱し、今では再発の心配はほぼ無いものと自覚しているのだが、どんなきっかけで中毒症状が再発するかいつもびくびくしている。
だから、映画の中で登場人物が「おいしそうに」タバコを吸っているシーンが出てきたら、私も吸いたくなってしまうのではないかと恐れたのだ。

結論から先に言えば、映画は観たが、それからしばらくたった今も、またタバコを吸いたくなるようなことはないでいる。映画は素晴らしいものだった。
映画の中での喫煙シーンはたしかに数多くあった。というか、あの頃の男性は誰もがタバコを吸っていたのだろう。最近では32%と、3人に1人程度のようだが、ほんの30年前は90%近くの人(男性)がタバコを吸っていた。
だから、時代背景を考えても、この映画の中での描写は当時のままと考えていいだろう。

私の若い頃も、ああだった。大学の教室を一歩出れば、まず吸っていた。歩きながらも、駅のホームでも、トイレでも。どこでも吸っていたし、どこにでも捨てていた。タバコ無しでは生きては行けないと、本気で思っていた。

どうして、ああも、どこでもタバコを吸うことが“できた”のだろう。
だが、そうではなかった、というか吸うことが“できた”のではなく、勝手に吸っていただけだった。
妻と結婚する前、デートの時に、
「ねえ、タバコ吸っていい?」と聞いてから吸うのがエチケットのような気がしていた。ダメと言わることがまず無いとわかっていたわけで、意味の無いことだった。

妻に、以前、私がどこでも吸っていたけど、気にならなかったの?と尋ねたら、すごく嫌だったと、返された。
確かに、数度「嫌」と言われたことがあった。

自分がタバコは吸うのは当然だと思っていたし、周りもそうだと思っているに違いないと思っていた。
だが、タバコを吸わなくなってその気持ちがわかるようになった。
少なくともわかるようになったのは、「タバコを吸わない人にとって、タバコは無用である」ということ。
無用の長物という言葉がある。どんなものがあるだろう。価値観はそれぞれなので、あれはそうで、これは違う、と一概にいうことはできないが、ある人にとって、タバコは無用で、ある人にとっては、必要であるというのが現状だ。


先日、NHKテレビ、『プロフェッショナルー仕事の流儀 宮崎駿スペシャル』の中でも、さんざんタバコを吸っていたが、宮崎駿監督自身ヘビースモーカーのようだ。
病人の横でも許されたらタバコを吸ってもいい時代があったと言いたかったのだろうか。
喫煙の是非については言及していないので、真意は不明である。


彼はタバコを吸い続けてきた人生を後悔していたのか、それともタバコが迫害される世の中を憤慨していたのか。

Facebook でダベリング

2013年09月22日 | 電脳化社会
すみません、この記事、人気記事に入っていたので手直ししようとしたら間違えて削除してしまい、復旧もできませんでした。
タイトルは覚えていたのですが、内容は忘れてしまって。
とても残念です。

Facebook でダベリング 2013/09/22 16:39:02

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日本語バンザイ(万歳)!

2013年09月20日 | 日々思うこと、考えること
”言葉”というか”言語”について、ここのところたびたび考える。今日考えたのは、「日本語は
(私がほかに知っている言語の中では)難しい(ほうではないか)」ということ。
私たち日本人は当たり前のように、ひらがな、カタカナ、漢字そしてアルファベットを組み合わせて日本語を操っているが、よくこれだけの文字を区別しつつ、統合して使っているものだとわれながら感心してしまう。

英文論文を読んでいて、アルファベット以外の文字は無いし、国際学会で漢字による表現がはさまれることは無い。ヨーロッパでも似たような感じで、基本はアルファベットかそれに点がついている程度。韓国にいったら表記はほとんどハングルで、アルファベットは道案内程度にしか出てこない。中国は漢字とアルファベットだが、台湾と違って漢字が簡略化されていて却って日本人にはわかりにくくなっていた。それでも、ひらがなやカタカナに相当する文字は無さそうだ。
アラビア語はよく知らないが、使われているアラビア文字もそれほど多くないらしい(28字+α)。

これに対して、日本語で常用漢字は2136字ある。ひらがな50音にカタカナ50音。堂々たるものだ。いくら、ひらがな、カタカナが漢字を元にしているとはいえ、その崩し方は尋常ではないし、音節文字として存在しているので、役割は漢字とは異なる。
そして、それらの文字を組み合わせから日本語はできている。
戦争に負けて、日本語の表音文字化を目指したようだ。たしかに、外国人からすれば、書かれている文字が、ひらがなか、カタカナか、漢字かを判別するところから始めないといけないわけで、その気持ちはよくわかる。
さらには、ローマ字を導入したりしたものだから、アルファベットまで加わって、どうしようもなくなってしまった。
私は言語学者ではないので、素人考えはこれくらいにしておこうと思う。

日本語の乱れというのがいわれて久しいが、言葉は生きているというようにどんどん変わっていくのは仕方あるまい。だが、さすがに、最近とくに問題になっている外来語の大量の流入は日本人である私もついていけなくなっている。クラウドとかいう言葉が、電車の広告画面に踊っているのを見るとさすがに滅入る。新聞で『ガバナンス(統治力)の欠如・・・』と書かれているのをみると、なんだかなとも思う。

この先、英語教育の早期化などにより、日本語はますます混迷の度合いを深めていくような気がする。
ここまでグジャグジャだと、これはこれで楽しんで見守っていった方がいいのかもしれないとも思う。
だって、万歳とばんざいとバンザイが同じ言葉だなんて、やはりすごいことだと思う。


普通の学校の勉強だけでは東大に行けないのはなぜか・・・学校教育(1)

2013年09月19日 | 日本のこと、世界のこと
先日、言語教育について考えてみたが、そもそも今の日本の学校教育というのはわれわれ国民にとって有意義なものとなっているのだろうか。
言語教育についてはよく、
「日本人は中学、高校と6年間英語の勉強をするのに、マスターする人はかけた時間に対して極端に少ない」と言われる。
言葉なので、英語を話す機会が無ければマスターできるわけが無いのでこれは仕方ない。

では、ほかの勉強はどうなのだろう。

東大とか国公立大学の医学部に進学する人のなかに、私立学校の生徒が占める割合は極めて高い。
開成とか灘は学費も馬鹿にならず、どの家庭もがおいそれと進ませることはできない。
ずいぶん前から、東大生の親の年収は一般家庭のそれより高い、ということがいわれていたが、これが、教育格差である。
こういう、私立上位校がいけないというのではない。ただ、東大とか国公立大学医学部のレベルがおかしな具合で高すぎるのではないかと思うのだ。
普通の、といったがこれは近所の公立小学校、中学校、高校をさしている。こういったコースで大学受験に挑んでもなかなか難関大学には入ることができない。いわゆる私立中高一貫校に入ることが難関大学進学の第一歩となっている。
これは不公平、というかおかしい。

個々人の”勉強”の能力に差があるのは仕方ないが、一発(センターを入れれば2回だが)の入試で決まるような選抜というのはどうなのだろう。
みているのは本当に”勉強”の能力だけで、それぞれの人間としての総合的な能力はみていない。

ごく少数の天才を除けば、勉強する能力というのに、それほど差はないように思う。
勉強するという行為に対する向き不向きで、入試の点数の差が生じているに過ぎない。
せめて、勉強することに向いている人の間にはこのような差を生じさせないで欲しい、すなわちある程度のレベルの学校に入れば、そこでの勉強を真面目にすれば、難関大学に進学できるようになって欲しいと願うのだが、これはおかしなことだろうか。

ここ数年、都立高校をはじめ、一部の公立高校の躍進がみられるが、これは、学校の勉強だけで頑張っていることのあらわれのような気がして、うれしい。
公立中高一貫校にしてもそうだが、公立高校などに進むにしても、最終的には塾に通わないと入れない、というようなことにはならないで欲しい。

東大でも推薦入試が導入されるそうだ。教育現場の人たちのなかには危機感を持っている人はとても多いのだろう。
日本の将来は、少しでも優秀な人間を育てていくことかかっている。そう、考えて子供達を育てていかねばならない。

言語教育

2013年09月16日 | 日本のこと、世界のこと
言葉というものはどうしてこうも難しいのだろう。
いくら上手につないだつもりでも、思いの10分の1ほども表現できない。

以前、言ったあと、後悔してしまうということを考えたことがあるが、逆に言えばこれは上手に言葉に表せられないということでもあった。

この間、国際学会に行って意思疎通というのがこれほどむずかしいことだったのかと改めて感じた。
諸外国との交渉に言語は必要だが、日本人は日本語以外があまり上手ではない。

私も上手ではない。
なんとかしたいと思っても、もう年なのでいまさら間に合わないので、国際的にどうこうしようとは思わないので、外国人と気持ち、考えをやり取りすることはあきらめている。

だが、やっぱりこれは残念なことだと思う。
日本は、せめて英語だけでもということで早期教育を始めたようだ。いろいろ言われているが、仕方あるまい。英語がある程度できれば、そのなかから外国に出ていく人もいるだろう。

ただ、母国語が十分にできない人はきちんとした思考ができないという。
日本語教育を忘れず、しっかりしてほしい。





あれもこれもができなくなったという悩み

2013年09月15日 | 日々思うこと、考えること

私の前後5歳(45歳から55歳)ぐらいの先生と別々の機会に勉強だの研究だののことを話していたら、それぞれの先生が、
「一度にいろいろなことができなくなってきちゃったのよね。年のせいかしら」
と、異口同音に嘆いていた。

その前にも似たようなことを誰かから聞いたことがあった。
私も聞いていてなんとなくわかるような気がした。

でも、本当にそうか。あれこれ考えてみた。


実際は違うと思った。
私の専門臓器についてだけ考えてみても、病理学的形態学的レベルから遺伝子レベルまで、多岐にわたって研究されている。それぞれから派生するものを考えたら気が遠くなるほどである。

結局のところ、深くやればやるほど道は遠くなる。だが、それこそがオンリーワンになることである。
あれもこれも、など土台無理な話なのだ。

だから、その先生たちにも、それぞれ、
「そうですよね。でも、先生がその道を深く極めるからこそ大変なのであって、あれもこれもなんて、やっていられませんよ」
と言おうと思う。

これは決してお世辞ではない。

日本は、大丈夫なのかな?

2013年09月14日 | 日本のこと、世界のこと

スマートフォンのシェアについての記事があった。

日本は、ガラケーの伝統か、国による国内企業保護のためか、アップルに続くのはソニー、シャープ、富士通であるが、世界的にみればサムソン電子、アップルが圧倒的なシェアを誇り、ほかにも中国、ノキアなどがあって、日本製品はいったいどこにいるのかわからない。

かつては世界中の電化製品市場を席巻していたのに、いまでは昔日の影もない。

ソニーはいったい何を作っている会社かわからなくなっているし、シャープは経営危機の憂き目にあっている。
家の中を見回して家電製品を見ても、品質をたのみに買ったものの、同程度のものなら外国製でもあるだろうと思えるものがずいぶん増えた。
それに、掃除機なんか海外製のものをライセンス生産でもしていそうなものもずいぶんある。

もう、日本が世界に対して優位に立っている製品なんてほとんどないのじゃないかと思う。
そうすると、TPPで輸出産業が潤う、というのも怪しい目算ではないか。
自動車産業ですら、不安になる。

日本は、途上国に追いつかれ、これからは過去の遺産でやりくりしていかなくてはいけない。
人口はどんどん減っていくが、高齢者はどんどん増える。医療の質を落とすわけにはいかないから、高齢者医療にかかるお金は莫大なものとなる。
医療の領域にもTPPは参入してくる。

アジア諸国の医学レベルも長足の進歩である。ひとえにインターネットの普及によるものだが、日本で独り占めしておくわけにはいかなかった。

新聞もテレビも、日本の財政危機を報道しているが、私たちはこれらに対して鈍感だ。
そして、増税。
増税は高齢者からお金を取ることで、若い世代に再配分する唯一の方法のような気もする。高齢者も日々の生活費は若い世代と同様に使う。お金はそこからとるしかあるまい。私たちのような子育て世代にとっても、負担は大きいが、教育費の減額などで対応してほしい。
とにかく、若い世代に富を分けなくては、日本はつぶれる。
なにより、三党合意で決めたこと、さっさとやるしかないだろう。



先の大戦で、アメリカに負け、アメリカに復興してもらったという経緯はいかんともしがたい。原爆を落とされ、基地を抱えさせらているという問題はあるにせよ、日本はアメリカのおかげでここまで来た。
だが、もう一人立ちしなくてはいけない。

アメリカは、イギリスとともに英語を国際公用語とすることに成功し、圧倒的な優位性を持つこととなった。
では、日本はどうすればよいか。

クールジャパンが世界の共通認識である今のうちに手を打ってほしいが、どうだろう。

『哲学的に考えてみる』の定義・・・医療を哲学的に考えてみる(6)

2013年09月12日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
『哲学的に考えてみる』

不肖コロ健、哲学の勉強をしたことはこれまでに一度も無いので、まずは、広辞苑をひく。

『哲学』という言葉は日本語には元々無く、philosophiatoの訳語である。
物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問。というのが第一義のようで、古代ギリシャでは学問一般を意味していたが、近代の諸科学の分化・独立によって、諸科学の基礎づけを目指す学問、生の哲学・実存主義など、世界・人生の根本原理を追求する学問となったそうである。認識論、倫理学、存在論、美学などを部門として含む。
そして、二義的には、俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方・思想。ということらしい。
さらに、『哲学的』という言葉も定義されていて、哲学的とは哲学に関するさま。哲学でするように思考・行動するさま。となる。

もともと、日本語に無い言葉について定義し、それを用いて考えていくというのはたいそう難しく、はっきりいって離れ業としかいいようが無い。
日本の近代文化というのがいかに“移入された文化”であるかがわかる。
だが、方丈記にもあるとおり、物事の本質を言葉で表す文化というのは、日本にも古くからある。
だから、半分外国語のような『哲学』という言葉を用いても、医療という事項を考えてみることは可能だ。

いい加減、このテーマもいよいよ本格的に取り組みたい。
前段として、各用語を定義することにトライしてきたが、言葉というものを正しく使用することはことのほか難しい。
私は、病理医であり、普段から一つ一つの言葉を丁寧に扱っているつもりだ。なぜなら、患者さんの病気の部分から採取された組織に対して、一般に膾炙されている定義を用いずに、独自の考えで診断をしたら、臨床の現場は混乱してしまう。
昨今、EBM (evidence-based medicine;根拠に基づいた医療)という語が医学界に浸透しはじめているが、病理の世界では、そんなこととっくの昔から行われていることで、個々の病理医の勘だの印象だのといったものに基づいた診断は役に立たず、ずっと以前から豊富な知識と、高い観察能力をもった病理医がもっともEBMに馴染んでいる。だから、私もできる限りそうしたいところだが、これがなかなか難しい。

『医療を哲学的に考えてみる』というのは、一部都合のいい文章である。
まずは、哲学“的”と、“的”の字をいれている。これは、けっこう曖昧な表現であり、『私なりの哲学で』のような感じである。
考えてみる、というのも、“考える”という、そもそも答えの無いことをさらに“(試)みる”わけで、『とりあえず考えてみよう』みたいなことになる。

だが、突き詰めて正しい言葉を定義し、それを行おうとしても次に進むことはできない。従って次に進むにはここまで考えた時点での『医療を哲学的に考えてみる』を確定することが必要になる。

医療という語は前回定義してあるので、それに続けて文章を完成させる。

ある病気になった人を、その病気になる前の状態に近づけるために、医学教育を受けた人間(医師)がある病気の人に対して、その病気を治すために行うこと、とはどういうことであるのかを病理医である私が、これまでに経験してきたことをもとに、さまざまな分野にとりあえず通底しているであろう概念を考え、提案する。

ということにする。
さて、ではどこからどうやって取り組んだらよいか、次は対象と方法を考えてみる。

長くて暑くてつらかった夏の終わり

2013年09月10日 | 日々思うこと、考えること
四日ぶりだが、韓国から帰ってきたら、風がずいぶん涼しく感じられた。
寝苦しい夜は遠い過去。
朝は清々しく目覚めることができる。

7月末に休みを取ったので、8月ほぼひと月を乗り切れるか心配だったが、ど根性ひまわりよろしく、休み明け以降先日の学会まで酷暑の中、朝晩35分ずつ、歩き通すことができた。

のどもと過ぎれば熱さ忘れる。
もう、この通勤パターン(鎌倉から都内の駅まで電車で1時間+病院まで徒歩35分)、50を過ぎる来年以降は無理だと悲痛な思いであきらめていたのが嘘のようだ。
今なら、まだまだ大丈夫と、大見得を切っていえる。

酷暑は遠い思い出となった。
高知、四万十市で41度の国内史上最高気温を更新したことも、ぼうっとしていた頭の記憶の彼方に消えてしまいそうだ。

夏の終わりにあった、国際学会でのシンポジウム、ふたつもの演題を発表することができた。私にその場を与えてくれた方、内容にアドバイスをくれた方、演説原稿に目を通してくれた方、多分に周りの方々のお世話があってできたものであるが、私としては上出来だった。

終わってみれば、長くて暑く、そしてつらかった夏も終わり。
今年も何とか乗り切れた。

ところで、夏が終われば、次は収穫の秋とくるわけだが、刈り取るものが果たしてあるのか、心配ではある。

さあ、次にいこう!

2013年09月08日 | 日々思うこと、考えること
結構いろいろあったけど、誰かに取って食べられることもなく、帰ってこれた。
評価は人がすることなので、私の知ったことではない。

昨日までのことは、変えることはできないので、今はこれからのことを考えるしか、できることはない。
まずは、この3日間のことを考えて、これまで自分に足りなかったことを挙げてみよう。
でも、そればっかりだと残念なことしかない。

今朝、韓国釜山を出る時間に2020年の東京オリンピック開催が決まった。
東日本大震災からの復興はいまだ途上。
福島の放射能の問題もまだまだ、というか依然深刻である。韓国ではずいぶん心配されてしまった。
この先7年間、大きな地震が来ないとも限らない。そのための防災対策も十分以上にしなくてはなるまい。
だけど、これがこれまでのことであり、変えることはできないことである。
これから、日本中の人が夢を持って未来に向かっていくことになる。

日本に帰ってきて、成田から鎌倉へと成田エクスプレスに乗ってきた(大船からは横須賀線)。
私が、次の展開を考えたちょうどその日、日本も未来の夢を付託された。
オリンピック招致には毀誉褒貶もあろうが、決まってしまった以上はこれを応援する(少なくとも、温かく見守る)しかあるまい。

私の中のオリンピックはどこにあるか、考えてみたい。

放っておいても年は取る

2013年09月06日 | 日々思うこと、考えること
学会発表で、いつのまにかSymposiumとかで話をするようになっている。
これはこれで、いろいろな意味で大変で、今回のように2題も引き受けるとどうしようもなくなる。

いったい、どうしてこうなってしまったのかと考えてみると、ただ単に年を取ったということである。年を取ると順番でこういうことをやらされる羽目になる。
いつまでも使い走りではいられない。

一回りくらい上の年回りの先輩の先生たちを見ていて気がついた。10年、15年前から指導してもらっていたが、いつのまにかその先生たちが指導者として偉くなっている。努力もあっただろうが、年のせいもあるだろう。
そうすると、私がこういった立場にきたのも、自然の成り行きであることは想像に難くない。


年を取ると、しんどいことがどんどん増える。
だが、放っておいても年は取ってしまうし、そのうち終わりがくる。

それ(死ぬ)までの間に、できれば事故とか病気とかになるべく遭いたくはないが、そのときはその時だろう。
いずれにせよ、私は放っておいても年は取る。



したがって、今回の発表2題のうち1題は昨日終わった。大変緊張したが、だれにも取って喰われることはなかった。
明日の発表の準備をしようと思っていたが、セッションに参加していたら、いつのまにか夜になった。

それなりに準備はした。足りないことを言い出したらきりがない。
原稿を1度は読み返し、早いところ寝ることにする。

近代医学黎明期の物語・・・2013年8月の読書記録

2013年09月02日 | 読書、映画、音楽、美術
感染症に対する十分な知識も、麻酔技術もない、近代医学の黎明期に活躍した医師の伝記。
彼のまいた種が今日の医学発展に寄与したことは間違いないだろう。
しかしながら、解剖学にしても、外科学にしても当時勃興期であり、多くの先達がすでにいたということも書かれている。見方を変えれば、ハンターは図抜けた実行力と手先の器用さを併せ持った優秀な解剖医、外科医であっただけで、医学発展のブースターにしか過ぎなかったともいえる。

また、現代医学を推進する上で避けて通ることのできない問題の一つである科学倫理の問題がすでにあったということも興味深い。

いつの時代も、人は死と対峙しながら生きている。



読んだ本の数:1冊
読んだページ数:382ページ
ナイス数:42ナイス

医学関係者のみならず、科学者、さらには知的探究心をもったすべての人が知るべき、混沌とした科学の黎明期の巨人(あくまでも比喩的な意味ですw)の伝記。解剖学者が臨床医として活躍し、さらには解剖学者から(検死を通して)病理医として医療を向上させ、医学教育も行う。研究、臨床、教育という、現代医学の根幹を成す3本柱を明確にうちたてたという点で、現代を生きる私たちは、感謝してしきれない。病理医である私も、一医学徒として残りの人生で何をなし得るか、今一度考えてみたい。
読了日:8月22日 著者:ウェンディムーア


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