こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

Facebook, Twitter または Blog 情報発信は何のため?

2011年08月31日 | 電脳化社会
あなたは、自分の情報発信ツールとしてどれだけのものを利用しているだろう?私の場合、病院のホームページに自分の所属科(病理診断科)とプロフィールを掲載していることを併せると、Facebook(フェイスブック), Twitter(ツイッター), Blog(ブログ)さらには読書メーターでも感想を書き込んでいるので、現在のところ情報発信システムを5つ使っていることを把握している。だが、気が向いたらYou tubeに投稿するかもしれないし、2ちゃんに書き込みをしようとしたこともある。freeml(フリーエムエル)で、小学校、高校のクラス会の連絡が来て、これにも書き込みをすることがある。

私が頻用しているのは、もちろんこの こんきも(こんな気持ちでいられたら)を載せているgoo blogと読書メーター。いずれもコロ健(colocolokenta)でやっている。
さすがにツイッターは”実況中継”感が苦手で、こんきもをアップしたら自動で投稿されるようにセットしてあるだけだ。最近の”舌禍”ならぬ”ツイッター禍”をみると、私のようにあさはかな人間が手を出さないでおいてよかった、とも思える。つぶやきが多いといつ足をすくわれるか、わからない。

フェイスブックは最近の爆発的ブームの前に、イギリスに留学していた後輩に教えられて始めた。実名を出すことに抵抗感は無かったが、写真を掲載していない人が意外と多いのは、ちょっと狡いかな、と思った。まあ、女性の場合など、犯罪防止の観点からすれば、仕方ないこともあるかもしれない。友達を自分から探しにいくことは無いが、それでも誰かからの友達リクエストがあればそれを拒むことはなく受けるようにしている。友達数が1000人を超えている猛者もいるが、私はまだ二桁だ。それでも、だれそれがどうした、などという情報がどんどん入ってくるのには、少々辟易してしまい、いまでは友達リクエストメールが来た時だけ、見ている。
というところで、さっき覗いたら、みんなたくさん書き込みしている。
これって友達登録している人への、一斉メールにしか過ぎないんじゃないか?と、思ったりもする。実際、商売の広告に使っている人は多いように思う。
そういってしまうと身もふたもないので、まあ、海外旅行、学会出張は、アリかもしれない。だけど、”ホームなう”、はいらないんじゃないかとは思う。誕生日も祝って欲しいから公開しているわけではない。

読書メーターには、一冊読み終える毎に感想文を書いている。ときどき、自分の感想に”ナイス”が、入っていると、自分の読みかたに同意してくれる人がいるような気がしてとても嬉しい。残念ながら、メントを入れてもらったことはまだ無い・・・(話はそれるが、読書メーターのいいところは、”再読”があるところ。2度3度、と読むことを肯定していることが、”本当”の読者本位であるように思う)。

さて、この個人情報発信、人は何の為にするのだろう?
自らの考え方を広く人に知らしめることは、古くから行われていたことで、洞窟の壁画だって、同じ範疇に入る。絵や文字を描き書き記す行為そのものが、情報発信であり、自己主張だ。


なぜ、人はそのようなことをするのか。
誰に、何を伝えようとするのか。


そんなこと、わざわざやらなくたっていいはずなのに、なぜかやってしまう。

なぜか?
人には人に何かを伝えなくちゃ!というDNAが刷り込まれているのではないか?と、思う。
すなわち、亀よりは速い足と犬よりは器用な手しかないにもかかわらず、種として残って来れたのは、お互いの情報発信すなわち、情報の共有によって、危険を知り、回避してきたからだ。従って、この、「情報は、発信し、共有すべし」という遺伝情報がわれわれヒトのDNAに刷り込まれている。だから、誰にも情報を提供しない人は役に立たない。良質の情報を人に提供することのできる人こそが、有用な人となった。”自己顕示欲”なんて、意地悪な言い方もあるが、それも何らかの形で刷り込まれた情報発信DNAの発露とも考えられる。逆に、情報を発信しないやつは、嫌われる(国家試験対策委員をやっていて、人に情報を回さなかったやつがいたが、あいつはどういう人間だったのだろう)。DNAに反した行為は許されない。

私自身、こうやって、愚考を日々開陳しているわけだが、これも職場、学会さらには論文でろくな発表が無いことへの忸怩たる思いから出てきている行為なのかもしれない。一応、「こんきも」とか「こんな気持ちでいられたら」とか「病理医」とか「病理医 ブログ」とググらないと、ここには来れないので、一斉メール的なものよりはましかと思っているのだが。

FacebookだろうがTwitterだろうがBlogだろうが・・・はたまた2ちゃんだろうが、どれも、自分の思いを吐露したい。誰かに聞いて欲しい、教えてあげなきゃ。という本能に基づいた行為である。

だけど、あんたが今、家にいるってことを教えてもらっても・・・どうかと。
まあ、私の素人料理の記事にどれだけの価値があるかというと、はなはだ疑問ではある。
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夏の終わりに新総理

2011年08月30日 | 日々思うこと、考えること
日差しはまだまだ夏の力強さを残し、ぽっかり青い空に浮く雲も気持ちいいが、吹き渡る風は少しずつ秋のそれになってきた。

8月の終わりに、今年の総理大臣、が決まった。

前任者がにっちもさっちもいかなくなった時も、「職責を全うする」と、おたおたしなかったのには、感銘を受けた。

与党の議員も、まっとうな判断ができたということだろう。


がんばれ、新総理!
わが日本を、さらにすばらしい国に!
もちろん、不肖コロ健も、私の持ち場で頑張りますから!
皆の誇りである日本を、さらにすばらしい国にしましょう!

あと、できれば、来年もやってください。
けっこう、本気で言っています。


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きもちよさそうというか、はしたないというか。

2011年08月29日 | 犬との暮らし


どうしたらこれほど気持ちよく眠れるのだろう???
というほど、気持ち良さそうな格好で、マルチーズのコロが寝ている。
犬が大の字に寝る。
これって、アリ?というほど変だ。

さらに、犬のクセしてこれほど無防備とは・・・おどろく。

時々この格好をするが、真上から撮れたのは初めてかな?。
だいたい、人間が真上にいて平気で寝ているなんて・・・。 この子の場合、そもそも自分が犬とは思っていない節がある。

コロに比べると、フラットコーテッドレトリバーのナイトは、近づくとすぐ起きてくるので、寝ているところの写真がない。

大型犬の方が反応がいいのかとも思うが、ナイトの方は朝、クレートの扉を開けてもなかなか出てこない。あるとき、「どうせ出てこないなら」としばらく放っておいたら、いつの間にか出てきていて、リビングじゅうのものをひっくり返されたことがあるが・・・

犬には犬の都合がある。


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床屋(40分)か?カットだけ(10分)か?

2011年08月28日 | 日々思うこと、考えること
たまった仕事を片付けに病院に出た帰り、横浜駅で床屋に寄った。
そもそもは10分、千円のカット専門店に行こうと思っていたのだが、たまには床屋で総合調髪もいいなと思い、ダイアモンド地下街の有隣堂の隣の床屋へ。
ここのところ、ずっとカット専門店に行っていたので、洗髪、蒸しタオルに髭剃りは久しぶり。

肩ももんでもらって、スッキリ。
やっぱり、床屋はリラックスできる。
とはいっても、あんまり久しぶりだったので、リラックスの仕方を忘れてしまっていた。
10分か40分か。
時間の節約、お金の節約。
休日に、休日らしい生活をすることもできなくなっているような気がする。

昔は、ふつうに床屋行っていたんだけどな。

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料理教室 いかに美味しくいただくか

2011年08月27日 | 料理・グルメ

妻が月に1度通っている料理教室。

教室といっても、○○料理学園、とか言ったようなものではなく逗子の海の近くの個人宅で行うもの。なんでも、今日は人数が少ないということで、頭数合わせということで、夫婦で参加することになった。いかような形式にせよ、料理を習うなどというのは小学校の家庭科の授業依頼だ。

そもそも、今日は、9月の学会の準備に充てようと思っていたのだが…

そうはいっても、料理は好きなので、いざ参加してみた。
今日のテーマは”夏料理”。

講師はフランス人のコックさん。
トマトのクーリ(トマトピューレ)だのカスタードソースだのといったソースの作り方を勉強することができた(今度、コロ健レシピで公開しますね)。

色鮮やかな料理が作られる。
炒めすぎないこと、硬くならないところであげる。そういったことが大切大切。


出来上がりも鮮やかで、とても美しい。

それにしても、こんなにおいしそうな料理、材料は冷蔵庫の奥にあるようなものばかり。

卵、トマト、ピーマン、枝豆、オリーブ。
それでも、調理法によって美味しくできる。

人間生きる目的は食べて寝ること。
したがって、食べるための欲求は尽きることがない。
だけど、世界の珍味を漁るよりは、身近な素材を美味しく作ることがいい。

うーん、当たり前のことだが、食の奥の深さにあらためて感じ入った。
料理教室、花嫁修業か団塊の男の手料理、かと思っていたが…
侮りがたし、来てよかった。

さっそく、今日習ったことを応用して、夕食にトマトとオクラのスープ、揚げなすとピーマンのサラダを作ってみたら、なかなか好評だった。

ただ、料理しながら思ったのは、すべての食材は安全であってほしい、ということでしたが・・・


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教授就任祝賀会

2011年08月26日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

午後からあいにくの豪雨となってしまったが、今夜は私が大学院生時代に、苦楽をともにした学内留学で臨床から来ていた某科の先生が、晴れて教授になられての教授就任祝賀会。
同じセルラインを使って、似たようなデザインで研究をしたにもかかわらず、今となっての彼方此方の違いはなぜか?
まずは学問的な能力の差。
人格的な素晴らしさ。
ハンサム。
非の打ち所がないナイスガイだった。

相談してくる後輩がたくさんいて、それぞれの相談によく応えていた。私も、実験が不調の時(ほとんどずっとだったが)、ずいぶんと救ってもらった。そういったとき、まったく自分のことを放っておいて、助けてくれる。
同期ながら、心から尊敬していた。
大学院時代思い出は尽きぬが、彼と出会ったことは、大切な思い出の一つだ。

さて、バスと電車を乗り継ぎ、なんとか間に合って、扉を開けたら、お歴々の祝辞が始まっていた。
私の知らない、大学院を終わってから、臨床に戻ってからの彼の人生、年賀状で知っていた以上に素晴らしいものだったようだ。

やっぱりすごいんだな。教授って、と、身近な人がなるにあたってつくづく思った。

まだまだ、若い教授の誕生、この先、長いが、がんばってほしい。
フレフレー


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親が原因、子は結果・・・子供は親のように育つ

2011年08月25日 | 妻の名言

妻から聞いた話で、今日は妻の名言ではなく、妻の友人の名言。

「子供は親を選んで生まれてくるわけじゃないでしょ。子供がこの世に生まれてくるのは、あくまでも親の責任。
それから、子供は親に”こう育ててくれ”っていって育つわけでもない。だから、子供がどう育つかも、もちろん親の責任。
子供は結果なの。
子供は親のこと、よくみてるわよ。だから、子供は親のように育つの。」

私も、一昨年、このこんきもで、”よいこの育て方”で、少子化時代を迎えた今、よい子を育てるにはどうすればいいかを、テレビの害について、タバコの害について、夫婦仲について、子供との関係について、子供は親のことをみていること、そして、子供は親のものではないといったことに分けて考えてみた。

2年経って、わが家の二人の子供はグレることも無く、スクスクと育っている。中学高校、という難しい時期なのに、上出来だろう。

振り返ってみれば、そこ(一昨年)までも大事だったが、そこから(この2年)も大事だったように思う。
私は、タバコを再び吸うことも無く、テレビは食卓から見えるところには無い。手を上げることもないし、言葉の暴力もおそらくはないと思う。私自身は、悶々とした生き方ではあるが、たまに泥酔してしまう以外は、わりと真面目に毎日を送っているし、夫婦仲はまあまあだ。

高校卒業までが親の責任とすれば、上の子はあと一息。親の責任もあと少しで果たせることになる。

職場で若い先生をみていると、育ちのいい先生は、しばらく一緒に仕事をすればわかる。
裕福な家で育ったわけでなくても、育ちのいい人は、育ちがいい。
育ちがいいのは、親に愛されて育ったからだろう、と思う。

親が原因で、この世に生まれ落ち、その親に育てられる。
子は結果。どんな子に育つなんて、親以外に責任はありません。

子供を愛する。どうすれば、愛せるか、よく考えてみよう。

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こういう人がいるとみんなが色眼鏡で見らてしまう。

2011年08月24日 | 日々思うこと、考えること
夏の高校野球準優勝校の野球部員が飲酒問題を起こし、法律相談や古美術鑑定のテレビ番組の司会をしている売れっ子タレントも不祥事が発覚して電撃的に引退した。

“実は”という不祥事を抱えている人は、世の中にたくさんいる。
それが、社会のルール違反とかそういったものに近い場合は、責任をとる必要が出る。

それぞれの業界を代表する人が不祥事を起こすと、業界全体が
「ああ、あの人たちって、やっぱりそうなんだ」
と言った目で見られる。

色眼鏡

このとき、一番つらい思いをするのは、同じ業界で真面目に地道にやっている人。
毎日、一生懸命野球の練習をしている高校球児。
毎日、芸に精進して、一生懸命稽古を重ねている芸人。
悪いことをしていないので、普段からそれに対応する心構え、というかそういったものが無いので、そういう、真面目に地道にやっている人たちのほうが、ダメージが大きい。

だれかが不祥事を起こせば
「どうせ裏では」と思われる。
人間誰しも、自分のおかれている立場をよくわきまえ、人生を歩まないといけない。
そして、
落とし穴は、誰でもすぐ目の前にあることを忘てはいけない

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病院の廊下でする立ち話

2011年08月23日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
 医療ドラマで、医者が廊下をひそひそ話しながら歩いているシーンがよくある。
 話の内容は、患者のことか、人事異動のことか、給料のことか、飲み会のことか、女のことか、そんなところだと思うが、当事者ではないので、本当のところはわからない。

 さて、例によって病理医がこういう話に登場することはまずない。最近ではみんなが、美男美女の法医学者だ(最近のドラマを見ていると、病理医の20倍くらい法医学者がいるような気がしてきた・・・)。
 病理医は臨床医と共有できる話題が少ないので、廊下ですれ違っても会釈だけ。一方、病理医が複数いても、せいぜい2、3人止まりなので、話は鏡検室で済んでしまう。
 わざわざ、廊下で話すことは無い。まあ、私だけの話かもしれないが・・・
だが、病理医にもちょっとだけ、人目につくところで話す機会がある。
 医局前の廊下をふらふら歩いていると、めざとい臨床医なんかは、よく
「コロ健先生、あの、一昨日出した○○さん、結果、でました?」
 などと”親しみを込めて”聞いてくる。そんなとき病理医=検査ボックスだと思われているのではないかと感じる。
 臨床的に面倒な、わかりにくい症例は、組織像も複雑なことが多い。

 でも、それだけに切り出しの段階から印象深くてよく覚えている。
 でもわからない・・・

 そう簡単にわかるわけ、ねーだろ

 などという悪態は、心の奥にしまい込んで、しばしの沈黙した後、「ちょっと、難しいから、まあ、もう少し待って。今週中には、いや、連休があるから、来週の月曜日にはある程度のこと話せると思うから」とかなんとか、時間を稼いでやり過ごす。


「コロ健先生、あのー、今度○○学会があって、そのときに使いたい写真があるんですが・・・。」

と、突撃依頼。人の顔を見ると写真写真。論文を書くからと言ってくることも多い。ま、自分の発表に組織の写真を出そうというだけ、えらいといえばえらいのだが。

で、「お名前は○○さんで、○○の症例です。」
と言われても、半年前の患者さんの組織像なんて。
とても珍しい症例は、こちらも覚えているけど。

「薮から棒に言われても困るので、メールで出して下さい。立ち話じゃ、忘れちゃうし。」
 けっこう、忘れちゃったりする。


 あーあ、話しかけられるのは、仕事のことばかり。
 声をかけられて、振り返って、

「コロ健先生、今度いっぱいどうですか?」

 なーんてことがあれば、元気も出るのだが・・・

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神の配剤

2011年08月22日 | 通勤・交通・旅行
予想外の冷夏となった。

朝晩の歩きもラクチン。少々の雨なんてヘッチャラだ。

これほど涼しければ、大規模停電に陥るほどの電力不足に至ることはない。
週末には、暑さも戻ってくるようだが、さすがに先週ほどとは今年の夏には、もうなるまい。海の家とかビアガーデンは大変だろうが、少なくとも今年は猛暑は願い下げだ。

神の配剤とは、このことか。
津波を引き起こし、私たちに試練を与え、さらには、無定見だったかもしれない、科学技術の進歩への戒めかと思われる原発の事故。二次的に起こった電力不足。
節電の夏は、はからずも"節約の夏"を招いた。
昼食時、若い先生が、ひとこと、
「これまで、無駄が多かったって、つくづく思います」
と。

このような会話が、あちこちで、繰り返しされること、そのことがとても大切だ。

日本を見守ってくれている神様はそれでも、少し甘かったような気がする。
だが、私たちはそのことに甘んじてはならない。

今回の出来事を天罰などと言った御仁がいるが、それは犠牲になった方々に失礼だ。ならばなぜ、あなたは被害にあわなかったのか、と問いたい。
それでも、私たち日本人は、見えざるものからの戒めのようなものを感じたのは、事実だろう。
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ここにも落とされたのか・・・被爆地にて思う

2011年08月21日 | 日々思うこと、考えること
チューターとしての任務を果たすべく、関係する分野についての論文を四五本持って行ったのだが。結局、受講生との懇親会、引き続いての講師・チューターの懇親会となだれ込み、やっとのことでシャワーを浴び、倒れ込むように爆睡。
朝7時に護送車然としてホテルの前で待ち受けているバスに乗り込み、窓から路面電車を眺める。

路面電車が走る街は、アクセントがあっていい。

今日も、朝から土砂降り。受講生、みんな来れるのかな?と老婆心ながら心配したが皆無事到着したようだ。

お手伝いの内容はというと、バーチャルスライドを使っての、一コマ、50分の病理解説。
ここ数年、同じ分野を担当させてもらっているが、いっこうに上手にならない。
これを朝から、昼食を挟んで5回(休憩1コマ)。いつもながら、しんどいが、それでもなんとか終わらせた。

考えてみると、受講生は休憩無しでぶっ続けなので、もっと大変かもしれない。

終了後は、長崎大学は蘭学についての貴重な資料がたくさんあり、それを見学させていただいた。
解体新書の写しというのも手に取って見ることができ、感動。

滝のような雨もあがり、五人ほどで連れ立って被爆地を歩いた。
緑豊かな、美しい(が、坂が多い)街を歩くと、戦争のむごさを感じざろう得ない。
この浦上天主堂もたちまちのうちに消え去ったそうだ。

広島でもそうだったが、数万人(長崎7万人あまり、広島12万人あまり)の人が、一瞬にして亡くなったのかと思うと、胸が締め付けられる。

核兵器がどうの、というのではない。ひとたび戦争となれば、勝つためにはなんだってやる。
総力戦ともなれば、なにが起きても驚いてはいけない。想定の範囲内では勝利は得られない。

だから、戦争はしてはいけない。
人は人を殺してはいけない。

当たり前のように平和はここにあるが、その有り難みをあらためてかみしめる。
この、気持ちを、みなで共有し、永遠につないでいかないといけない。


それにしても、長崎は坂が多い。被爆地を一緒に歩いた先生の1人が
「(坂が多すぎるせいか)自転車が圧倒的に少ない街ですね」
たしかに少なかったが、ほんとうのところ、どうなのだろう?
その分、みな、足のように路面を使っているように見受けられた。

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長崎は今日も・・・土砂降り

2011年08月20日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
今日明日は、某研究会の病理講習会のお手伝いのために長崎へ。
YCATから羽田空港へ向かうバスの中、電光掲示板にニュースが流れる。
<昨日のプロ野球>セ・リーグ 巨3-2ヤ広1-2中(ときて、おお、次は横浜!というところで)
横(中止)神
ときて、思わず、ホッとしてしまう。というほど、今年の横浜は弱い。何たることか?

なんてことはさておいて、その足で着いた長崎。小雨交じりだったが、せっかくなので、せめてもの観光をということで、飛行機で一緒になったほかの先生2人と、会場に入る前にグラバー園へと、中華街のバス停で降りた。雨はほとんど降っていない。

だが、大浦天主堂の前を通過するあたりまではよかったのだっが、グラバー園に入ってからポツリポツリと始まった雨はひどくなり、最後は土砂降り。
「長崎は、今日も雨・・・どころか、土砂降りだった」(さむ)

3人ぬれねずみになりながらも、ほぼすべての洋館を通り抜け、何とか長崎の思い出を得ることができた。大変ではあったが、去年ドラマで刷り込まれていただけのことはあって、歴史ロマンを感じることができた。



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この夏も乗り切れた・・・といいのだが。

2011年08月19日 | 通勤・交通・旅行
暑さも一服。
今日は朝から曇りがち。

昨日宣言した通り、歩き通勤に戻したが、比較的楽に歩いて来れた。


よりも、

のほうが、気持ちいい。

だが、空はどんどん暗くなって・・・

昼からは、窓からの景色が真っ白になるほどの大雨。


病院を出て、相変わらずズキズキする左膝と右足首をひきずりながら歩くと、外は窓の中から見て思っていたほど涼しくはなく、蒸し暑かった。
おまけに、思い出したように、また降るし・・・

それでも、これで暑さも一服となるだろう。
来週からは雨がちになるようだが、気温も下がっていくようだ。
今年の夏もなんとか乗り切ることができたような気がする。

だが、明日からの2日間、西国への出張が・・・(明日に続く)。

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夏バテバテ

2011年08月18日 | 通勤・交通・旅行

連日の猛暑。
朝、歩いて病院に着く頃に目がチカチカするようになり、
「これは、もしかすると熱中症のはじまり?」
と、思うようになり。
月曜にそう感じていたが、火曜日もがんばったのだが、夜ダウン。
帰りの横須賀線で、気力・体力とも虚脱状態になってしまった(これはいつものことか・・・?)

夏バテか!?

というわけで、無理をしても仕方が無いので、昨日、今日と車通勤とさせてもらった。
電車通勤よりも1時間短縮できるので、朝もゆっくりで、体調はずいぶん回復した。


いつも歩く道を、そろそろと車で走るのはやや物足りない気分で、暑くてしんどいのは知っていても、やっぱり外の空気を吸って歩きたくなる。

明日から、少しずつ秋の空気に変わってくるとのこと。
ウォーキング通勤が再開(電車通勤に戻ることに)できるといいのだけど。

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サルスベリの花を見て思うこと・・・印象のつよいものが一緒にあると

2011年08月17日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと


今、あちこちでサルスベリ(百日紅)の花が満開だ。
ピンクや紫や白の小さなブーケをたくさん枝に付けているように見える。

花に暗い私はサルスベリの花と木が、同じものとは長い間認識していなかった。
サルスベリの木は、「猿が滑って落ちる」ほど、つるつるの肌をしており、その木肌は葉がすっかり落ちた冬の間、とても際立つ。でも、花が咲いている間、葉もたくさん生い茂り、その木肌が目に飛び込んでくることはほとんどない。


そんなで、あのつるつるの木肌の木が”サルスベリ”なのは知っていたが、サルスベリの花とどうしても一致してみることはできなかった。以前住んでいたマンションの庭にもサルスベリの木が植わっていて、実際、そのつるつるだった木に、たくさんのピンクのブーケが付いているのをさんざん見ていたのだが、結びつかなかった。

と、なぜ、これほどまでに、”ブーケをたくさん挿したような綺麗な花”と”ツルツルの木肌の木”という、それぞれがそれなりに印象的な所見であるのにこれほどまでに乖離していたのか、そのことを考えてみた。
そこからわかるのは、人間、花なら花、木なら木、と、全く別なものとして、いわばパーツ別に物事を捉える傾向があるのではないか?
要するに、近視眼的というか、視野が狭いというか。そんな意味合いだ。

「記憶力のテスト」なんかで、絵をみせられて、絵全体のイメージ、というかメッセージは理解しているのに、描かれていた主要人物のネクタイの模様は?とか横にいたおじいさんは杖をついていたか?とか、池に浮かんでいた小舟はモーターボートだったか手漕ぎボートだったか?なんていう、ちょっと意表をつく質問があって、それぞれがあったのはわかっているのに、ディテールはわからない。それと同じ。
美しい花のついたサルスベリを見て、つるつるの木肌に気がつかない。花も木肌も印象が強いので、それぞれを独立した存在としてみてしまう、そんなところではなかろうか。

それぞれの要素を統合するのが、私が生業としている病理診断であり、こういった独立した所見(病変)を統合することができるよう、常にトレーニングをしているのだが、普段の生活ではそれなりの興味が無いとなかなかできないということか。いってみれば、ループス腎炎の診断をするときには糸球体病変のみならず、間質尿細管病変をも含めた総合的な診断をしなくては臨床的な説明には不十分なのに、糸球体病変に基づいたクラス分類だけで済ませてしまえば、十分と思って、そこで終わらせてしまう。というような感じか。
普段から、総体的、総合的に、事物を見るようにつとめないといけない。

 

なにはともあれ、長い間花をつけるということで、百日紅(サルスベリ)。

もう、しばらくは楽しませてもらえる。
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