イタリアはトリエステでの実践から、法律で精神科の閉鎖病棟を無くした先進的な国として知られる。そこには障害の有無やその軽重に関わりなく、誰でも通常教育を受けられるようにしたインクルージョンの発想が完徹しているからだと説明される。幼稚園から大学までの全ての学校教育段階でそれは実践されているそうだ。しかし、だからイタリアのインクルーシブな環境のおかげでダフネは伸び伸びと育っている、と考えるのは早計であると作品解説で堤英俊都留文科大学准教授(学校教育学・教育社会学)は述べる。教育や社会環境に完成形はない。日々葛藤、逡巡、失敗と改善などの繰り返し、制度の見直しと継続、悩み続けているというのが現実のところだろう。
ダウン症のダフネは、スーパーマーケットで充実して働き、仲間に恵まれ、両親もそんなダフネを受け止めている、ように見える。しかし母親マリアの突然の死。それを受け入れられず、落ち込み、日々の仕事、生活にも支障をきたしたのはダフネではなく、父(夫)のルイジであった。ダウン症の人の中には、そうでない人より几帳面すぎるこだわりを見せる人もいるという。ダフネも同じところにしまわないと気が済まないとか、横断歩道でもない道を必ず手を上げて渡るとかの所作を見せる。今までいつも側に必ずいて、自分を受け止めてくれる存在が突然いなくなった衝動は、ダフネにはとても大きいように思える。しかし、落ち込んだ父親を立ち直らせようとするのはダフネの方であったのだ。
監督のフェデリコ・ボンディは俳優でもないカロリーナ・ラスパンティに出会い、この人こそダフネだと感じたという。ダウン症のラスパンティは実際、地元のスーパーで働き、小説も2冊出しているそうだ。その言語能力の高さから人気のYouTuberでもある。ボンディは実際にラスパンティに会い、用意していた脚本ではなく、彼女に自由に演じてもらうことにしたという。それは、彼女が地域社会で共生するとともに、自分自身のダウン症という症状、状況とも共生していることが分かったからという。
遠く離れたマリアのお墓まで歩いて行こうとルイジを誘うダフネ。後半は娘と父、その折々に出会うイタリアの人たちとの会話がはさまれるロード・ムービーになっている。出会う人たちの眼差しは、それは決して「腫れ物」に触るような対応ではない。イタリア全土でいろいろな障害を持った人たちが、普通に暮らし、周囲にいるのが当たり前というこの国の国民の「普通」を垣間見た気がする。
しかし普通と普通でない、ことの境界は曖昧で、グラデーションだ。人と人の間に、あるいは人の心の中に超えるべき壁を作る方が容易く、考え続ける、悩み続けることを避けたいのもまた人間の性だろう。だから民主主義や自由といった簡単には答えの出ない難問に、終止符を打つべく分断を煽るトランプのような人物への人気が衰えない。
菅義偉首相の「自助、共助、公助」発言は、すこぶる不評だ。この発言は、菅首相がこの順番に頼りなさいと言ったように捉えられたからであると思う。反対に、ホームレスや不安定雇用から放り出されて、今日の食べ物にも困っている人たちを支援する側は、「まず公助だろう」と指摘する。最後に、バックに、公助があるからどこまで自助で頑張れるか、と自己を叱咤激励する生き方、というのはその通りだろう。同時に、ダフネを見ていると自助も共助も、公助ともうまく付き合って日々を謳歌しているように思える。ダフネに連れ出されて、マリアの墓に辿り着いたルイジの顔に生気が戻ってきた。