田中伸尚さんは大逆事件関係の著書をすでに3冊上梓されていて、4冊目にあたる。3冊は事件で検挙され、刑死した菅野須賀子や収監中病死した峯尾節堂、出獄し戦後再審請求をたたかった坂本清馬ら、事件の被害者の評伝であったが、「森長英三郎は、「大逆事件」の過去、現在、そしてこれからを語るに欠かせない人」であって、「捉えるには難き人」であった(あとがき)ので連載(「大逆事件 一○○年の道ゆき」『世界』(2009.1〜2010.3。その後『大逆事件 死と生の群像』(岩波書店 2010.5)にて加筆修正の上出版)では掘り進められなかったのでようやく事件の再審担当弁護士である森長を本格的に取り上げたものとなった。
1906(明治39)年生まれの森長は、故郷徳島県山間部での農家経験の後1935(昭和10)年に高等試験司法科試験に合格し、弁護士登録をしている。戦時体制でますます苛烈となる人権抑圧下、現在でいう人権派弁護士の筆頭であった布施辰治や鈴木義男の事務所にも入らず(鈴木には断られ、布施には「即独」を促される。)、開業する。「大きな圧迫の波が、自由主義とともに弁護士の上に漸次迫りつつある。」。治安維持法に引っかからないように慎重に言葉を選びながら、戦時下という最大の人権状況の危機を訴えた森長の言葉である。労農派・日本無産党弾圧事件や宮本顕治の弁護を引き受ける。
戦後、労働運動関係の弁護士として有名になる森長だが、その「自由」と「抵抗」の理念を顕現したのは「大逆事件」の再審に関わったことではなかったか。関わった、と安易に記したが、大逆事件被害者や遺族、そして、それらの「道ゆき」とともに生きた、と言うべきであろう。再審で負けても40年、その名誉回復の意義を訴え続けた。労働事件を中心にこなしていた弁護士稼業は豊かであるはずがない。しかし、その中にあって、被害者と遺族、その関係者などと連絡を密にし、同行者を増やしていく。そしてますます事件被害者の実像に惹かれていく様は、田中さん独特の抑えた筆致にも関わらず、引き込まれ、同時代を体験できるかのような錯覚にとらわれる。
「大逆事件」で辛酸を舐めた遺族、親族などを周り、支援していた堺利彦が一縷の光、であったとすれば、戦後その役割を、担ったのは森長だったかもしれない。いや、正確にいうと、例えば事件で21年獄につながれ、敗戦の直後に病死した小松丑松の妻はるが、遺族であることを伏し、京都の教会で働いていた件。はるの身上を知った上で面倒を見ていた洛西教会の田村貞一牧師。あるいは過去に一切蓋をしたはるに重い口を開かせたのが、森長が見込んだ大野みち代。事件で6名の被害者を出した和歌山、新宮の実地調査に奔走した伊串英治、中原清ら。はるら事件被害者を直接援けた人と、森長の探求にずっと寄り添った人と。事件そのものは26名の起訴、24名の死刑判決、12名の死刑執行という未曾有の権力犯罪で、被害者以外にもたくさん人生を突如暗転させられた人がいた。曹洞宗僧侶で刑死した内山愚童が名誉回復されたのが1993年。真宗大谷派の僧で死刑減刑後、秋田監獄で縊死した高木顕明が僧籍復帰と名誉回復されたのは1996年。新宮の医者だった大石誠之助(刑死)が「名誉市民」として復権したのが2018年。しかし、それら名誉回復がされるはるか以前から、被害者の雪冤に生涯をかけていた森長は、激する人でも、周りの人がパワーに気押されるような人でもなく、実務をこなし、時に諧謔(大石が情歌を好んでいたことを追求もしていた)に溢れた人であった。その人物像は、筆者は直接お話ししたことはないが、その凄さを田中さんの『反忠』で詳しく知ることとなった箕面忠魂碑違憲訴訟(忠魂碑とはムラの靖国。大阪府箕面市が碑を公費移設したことに対し政教分離原則に反するなどと住民訴訟を提起。大阪地裁で違憲判決。)の原告神坂哲(さとし)さんを彷彿させる。田中さんは理を尽くして、情を失わない、諦めない神坂さんや森長英三郎こそ、丹念に取り上げたい、いや「道ゆき」したかったに違いない。本書で紹介される金子武嗣弁護士が大逆事件の再審を準備しているという。「天皇の裁判官」から脱するために、権力犯罪と司法の解放は終わらない。(2019年 岩波書店刊)