「葛ヶ谷村は、日本橋より三里余、家数四十一、東北の二方は長崎村南は下落合村、西は多摩郡江古田村なり、南北九町東西七町余、用水は前村と同じ、『小田原役帳』に、太田新六郎知行寄子衆配当の内一貫二百文高田内葛ヶ谷岸分とあり、正保年中は御料所及び・・・・今は御料の地なし、・・・・井草川 村の中程を流る幅四間許」
- ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、細線は豊多摩郡当時の村境、大字境です。なお。「東京近傍図」のこの部分は、縮尺、方角とも正確さを欠いているため、変形して現行の地図に重ねています。
オレンジは区境で、左上から時計回りに中野区、(若干の)板橋区、豊島区、新宿区です。江戸時代の旧村でいうと、中野区は江古田、片山、上高田の各村に分かれ、板橋区は上板橋村、豊島区は長崎村、そして新宿区は葛ヶ谷、上下落合村です。注目は四村が接するはずの四村橋のところで、新宿区が右岸にまで食い込んでいることです。諸事情により天領であった上落合村の飛び地となったことが関係しているようで、豊多摩郡落合村当時も大字上落合字四村に属していました。
- ・ 御霊神社 「村の鎮守なり例祭正月十三日自性院持」(「新編武蔵風土記稿」) 例祭には備射祭(びしゃまつり)が行われます。備射は歩射(ぶしゃ)の転化したもので、弓を射ることで豊凶を占い、除災を祈る神事です。
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