神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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葛ヶ谷村

2016-06-25 06:11:33 | 妙正寺川5

 「葛ヶ谷村は、日本橋より三里余、家数四十一、東北の二方は長崎村南は下落合村、西は多摩郡江古田村なり、南北九町東西七町余、用水は前村と同じ、『小田原役帳』に、太田新六郎知行寄子衆配当の内一貫二百文高田内葛ヶ谷岸分とあり、正保年中は御料所及び・・・・今は御料の地なし、・・・・井草川 村の中程を流る幅四間許」

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、細線は豊多摩郡当時の村境、大字境です。なお。「東京近傍図」のこの部分は、縮尺、方角とも正確さを欠いているため、変形して現行の地図に重ねています。

 オレンジは区境で、左上から時計回りに中野区、(若干の)板橋区、豊島区、新宿区です。江戸時代の旧村でいうと、中野区は江古田、片山、上高田の各村に分かれ、板橋区は上板橋村、豊島区は長崎村、そして新宿区は葛ヶ谷、上下落合村です。注目は四村が接するはずの四村橋のところで、新宿区が右岸にまで食い込んでいることです。諸事情により天領であった上落合村の飛び地となったことが関係しているようで、豊多摩郡落合村当時も大字上落合字四村に属していました。

 

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    ・ 御霊神社  「村の鎮守なり例祭正月十三日自性院持」(「新編武蔵風土記稿」) 例祭には備射祭(びしゃまつり)が行われます。備射は歩射(ぶしゃ)の転化したもので、弓を射ることで豊凶を占い、除災を祈る神事です。

  <地名伝承>  葛ヶ谷村の鎮守の御霊神社には、源義家の奥州遠征に従った京都の桂の里の一族が帰途、故郷と地形、風土の似た当地に定着、八幡社を勧請したとの創建伝承が残されています。桂の里は山城国葛野(かどの)郡に属しており、地名由来とも関連する伝承ではあります。(葛ヶ谷は古くは「かつらがや」と呼ばれたとの説や、都を追われ当地に着いた葛野大納言の話などもありますが、おそらく、地形由来の地名が先行しそれに伝承が付会したのでしょう。)
 文献的には永禄年間(1558~70年)の「小田原所領役帳」に、「高田内葛ヶ谷」とあるのが最初で、ここで登場する「高田」については、中野区上高田から豊島区高田までを包括する広域地名だった、ともいわれています。明治に入り豊多摩郡落合村大字葛ヶ谷となり、昭和7年(1932年)の淀橋区の成立に伴い、西落合となって住居表示からは消えました。現在は新宿区西落合1~4丁目です。