神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

学田公園

2016-06-20 06:51:01 | 妙正寺川4

 中新井川の水源は現学田公園にあった池や周囲の湧水でした。享保10年(1725年)の「江古田村鑑帳」に「当村川 水上西ハ中荒井村池より、東ハ落合川江流申候」とあるのがそれで、大きさは文政6年(1823年)の「地誌調置写」では、「溜池 東西三十間 南北百五十間」となっています。享保ころにはすでに、千川上水の助水を得ていましたが、「竹戸樋」による助水の占める役割はそれほどではなかったのでしょう。それが、明和8年(1771年)の「江古田村鑑帳」では、「此村用水ハ豊嶋郡中荒井村溜池より落水引申候得共旱損仕候」と書かれ、湧水の減少と千川用水への依存の増大を示唆する書き方になっています。

 

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    ・ 学田公園前  前回最後の学田公園南交差点から100m強のところで、学田公園の西縁に沿って北上する水路跡の道路です。左手は練馬区立中村南スポーツ交流センターです。

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    ・ 左岸流跡  前々回UPの→ 「昭和4年第三修正」では、学田公園の東南角から流れ出す左岸流が描かれていますが、ほぼこの道路と重なります。左手奥の茂みが学田公園です。

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    ・ 学田公園  その東南角からの撮影です。昭和10年代の土地区画整理事業に伴い開園されたもので、現在は野球場一面を中心に10000㎡強の面積を有しています。

 <学田の由来>  明治に入ると池は涸れ、茅や葦の茂る沼地となっていたことは、鎮守の屋根葺きに使用するので茅や葦をみだりに刈ってはならない旨の、「江古田村御用留」に収録された通達や、→ 「東京近傍図」の描き方からも推測できます。明治18年(1885年)には、この低湿地を学田とするプロジェクトが企画されます。官有沼地3町5反余を借り受けて水田を拓き、設立間もない豊玉小学校の維持費を捻出しようというものです。水源を確保するための溜池建設などを条件に認可され、明治20年から開墾に着手、同24年には開墾された水田2町3反余が学校財産として払下げられました。(引用が当事者の中新井村ではなく隣村江古田村に偏在していることは、かねてから疑問でしたが、中新井村の近世資料が散逸するといった事情があったようです。)