三本の中新井村の分水は中村分水と同じく、大なり小なり自然の谷筋を利用しています。いずれも中新井川(江古田川)に合流するもので、かっては周辺の湧水を集めた小支流だったことが想像できます。なお、「段彩陰影図」中「☓」印は文献上の分水ではありませんが、水車用水の余水を分水として利用したもので、同様に支谷筋を利用しているのが分かります。結局これらの分水利用により、中新井村の水田面積、米の収穫高は、正保年間(1645~48年)に田79石余、10石を1町として8町ほどが、明治初めの「東京府志料」では水田面積17町5反、米の収穫高185石と、倍以上に増加しています。
- ・ 「段彩陰影図 / 中新井」(1/18000) オレンジ線は練馬、中野の区境ですが、江戸時代は中村、中新井村と上鷺宮村、江古田村の村境です。
- ・ 上新街口 グリーンベルト上からのショットで、この路地が右手中村、左手中新井村の村境だったところで、現在の住居表示では、右手中村、左手豊玉となっています。
- ・ 下新街口 同じくグリーンベルト上からのショットで、奥が桜台駅前交差点、次いで二つの建物に挟まれた奥行き50mほどの路地が分水の痕跡です。
- ・ 北新井口 高架の環七通りをくぐり、数十メートル東にいったところから、グリーンベルト越しに武蔵大学キャンパスの体育館のある一角を写しています。