神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

本村2

2016-06-13 06:57:29 | 妙正寺川4

 中新井川緑道に戻り、すぐに豊玉南小学校前に差し掛かります。→ 「東京近傍図」で、左岸流が氷川神社前を流れていますが、現在の地図に当てはめると、豊玉南小のキャンパスを横切っていたことになります。昭和10年代初めの区画整理以前は、この付近が中新井村の水田の中心だったところです。ちなみに、正保年間(1645~48年)の記録によると、村高135石のうち田79石余、畑55石余と、周辺の各村に比して珍しく田中心で、中新井川流域の水田開発から出発した村だったことがうかがえます。

 

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    ・ 中新井川緑道  前回の水路の合流点から60mほどのところです。右手が昭和36年(1961年)開校の→ 豊玉南小学校、その裏が氷川神社や正覚院のある左岸段丘です。

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    ・ 氷川神社  旧中新井村の鎮守で、社伝によると当初は北野神社(天満宮)、ついで須佐之男命を祀る須賀神社(牛頭天王)だったそうで、牛頭天王から改称した江古田氷川神社ともども、興味のある経過です。 

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    ・ 天満山正覚院  氷川神社の別当だったお寺で、東隣に並んでいます。太田道灌が天満宮別当として創建との伝承があり、氷川神社が北野神社だったとの伝承と符合します。

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    ・ 中新井川緑道  環七通りの手前です。→ 「段彩陰影図」では、環七通り付近でもう一つの谷筋が合流していますが、その谷筋にかかわる水路が次回のテーマです。  

本村

2016-06-11 06:55:35 | 妙正寺川4

 環七通り手前の左岸段丘斜面上には、中新井村鎮守の氷川神社やその別当だった正覚院が並んでいます。その周辺が中新井村で最初に開拓された本村(ほんむら)です。→ 「段彩陰影図」で、先端を環七通りに切り取られた舌状台地の周辺で、その舌状台地の左右に食い込む浅い谷筋には、どちらにも小支流が流れていました。そのうち東側のものの合流地点が徳殿公園の先にあり、途中豊玉中キャンパスの中断を挟んで、環七通りまでたどることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 徳殿公園の次のブロックの中新井川緑道で、右手から合流する路地をさかのぼります。

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    2. 40mほどで最初に交差する道路が、おおむね改修前の左岸流と重なります。

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    3. 豊玉中学のキャンパスに突き当たって中断します。同校の開校は戦後間もなくです。

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    4. 豊玉中学の北側にある正門前で再開します。右写真は東側からのショットで、浅い谷筋が分かります。

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    5. 右カーブのあと突き当りを左折します。なお、水路はこの道路の右手を並行していました。

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    6. 環七通りに突き当たりますが、右写真のように谷筋は通りを越えています。ただ、水路の先端は特定できません。

徳殿公園

2016-06-10 06:59:41 | 妙正寺川4

 中新井川緑道を西に向います。中新井橋からツーブロック、二百数十メートルの左手に徳殿公園があります。徳田は「新編武蔵風土記稿」では中荒井村の小名となっていますが、江古田村にも同様の字があり、江古田川を挟んで両村にまたがっていたようです。徳田(徳殿)は「得田」で、検地帳に記載されなかったため、年貢を免れ得をした田んぼの意です。ただ得田では余りに露骨なので徳田、あるいは徳殿と表記され、いつしか字名にまでなったと解されています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  徳殿公園や中新井川緑道などを緑で、練馬、中野の区境をオレンジで重ねています。

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    ・ 中新井川緑道  徳殿公園に差し掛かる中新井川緑道です。一見、幹線道路の中央分離帯のようですが、それにしては交通量はごく少なく、歴史的経緯を知らなければ意味不明な空間です。

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    ・ 徳殿公園  中新井や江古田地区の区画整理事業は、一定割合の土地を公園として提供しましたが、この公園もそうなのでしょう、長方形のブロックにピッタリ収まっています。

  <中新井第二土地区画整理事業>  徳殿公園内には昭和16年5月の日付のある→ 「區劃整理碑」があります。同事業は昭和9年(1934年)、中新井町4丁目(現豊玉南1~3丁目)を中心とする22万8千余坪を対象に開始され、のち対岸の江古田4丁目(現同)の4万5千坪も加わり、昭和16年に完了しました。同じころ中新井第一、第三区域も完了したのに合わせ、中新井町は豊玉と改名しました。豊玉(とよたま)は北豊島郡と東多摩郡の合成で、学区が両郡にまたがっていた豊玉(ほうぎょく)小学校の、読みを変えて地名としたものです。

 


下徳田橋

2016-06-09 07:04:44 | 妙正寺川4

 江古田川は下徳田橋から先は暗渠となり、地上は中新井川緑道や中新井川児童遊園となっています。暗渠化は昭和46年(1971年)ですが、昭和10年代の土地区画整理事業によって、直線かつ単線化の改修を経ている区間です。改修以前は→ 「東京近傍図」をはじめとする地形図が、二本の並行する水路が下徳田橋で合流する様子を描いています。普通はそのどちらかをベースに改修するものですが、中新井川の場合、右岸流をなぞった下徳田橋付近以外は、旧流路を無視して定規で測ったようになっています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 新井」  前回UPした→ 「昭和4年第三回修正」と同一場所、同一縮尺で、両者を比較すると区画整理前後の様子が見て取れます。

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    ・ 下徳田橋  暗渠となっている上流方向です。徳田は徳殿との表記もあり、ここから先の中新井川(江古田川)の流域にあって、中新井、江古田両村にまたがる字でした。

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    ・ 下徳田橋  左岸方向です。左岸流はこの道の奥、80mほどのところを左手から右手に横切っていたことになります。そこには上徳田(徳殿)橋が架かっていました。

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    ・ 旧中新井橋  「ここから練馬区」の標識があり、練馬区所轄の中新井川緑道が始まります。中新井橋は暗渠化区間では最後まで残っていた橋で、昭和50年代後半に廃橋となりました。

左岸の用水3

2016-06-08 06:31:49 | 妙正寺川4

 豊中橋で合流していた左岸の用水をさかのぼり、南に向かっています。→ 「東京近傍図」でもそうなっていますが、中新井村の江古田川(中新井川)は大きく二流あり、小石川道から分岐した道に架かる下徳田橋のところで合流していました。目下追っているのは左岸流の合流後の余水で、そのまま北上していたものです。なお、合流地点に架かる下徳田橋に対し、左岸流には上徳田橋が架かっていましたが、区画整理で左岸流と共に失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 小石川道から分岐した道に差し掛かります。ここに上徳田橋が架かっていました。右写真は下徳田橋方向です。

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    2. 下徳田橋交差点で、現在は六差路になっています。ここで左右の側流は合流していました。

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    3. 左岸流とおおむね重なる通りをさかのぼります。右カーブで西に向きを転じるところです。 

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    4. 通りはあとワンブロックありますが、左岸流と重なるのはこのあたりまでです。

左岸の用水2

2016-06-07 06:57:24 | 妙正寺川4

 豊中橋で左岸から合流する水路を追っています。この水路、現存する断片から全体像を把握するのは困難ですが、どうやら性格のことなる二つの水路が混在しているようで、一つは前回テーマの豊玉陸橋付近から南下する小支流、もう一つは本流と並行して北上する左岸流です。「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)に掲載された「区内の旧水路網」では、両者が落合いUターンの西側の肩で中新井川に合流しています。→ 「東京近傍図」の描くものも、現存する流路とはだいぶ異なりますが、大枠は同じ左岸流と思われます。なお、この一帯は明治に入り中新井村大字中新井当時、小字弁天前と呼ばれました。5.の神社がその由来と思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 豊玉陸橋近くからの小支流の→ 合流地点に戻り、改めて西に向います。

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    2. ワンブロックで幅広の道路に突き当たり、左折します。左折後の左手は豊玉中一公園です。

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    3. 豊玉中一公園の先です。水路はこの幅広道路の左手を並行していました。

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    4. 左手の幅が狭くなったところで左折します。

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    5. すぐに右カーブで再び南に向かいます。カーブの右手には神社と池がありました。

左岸の用水

2016-06-06 06:13:12 | 妙正寺川4

 豊中橋の左岸から合流する水路を追って、途中右折して北に向かった続きです。豊中通りのツーブロック先で今度は左折し、豊玉陸橋の南で環七通りに突き当たって終了します。この小支流に触れた文献、地図類はあまりなく、「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)に掲載された「区内の旧水路網」に、先端の池と共に描かれているくらいです。その割には、昨日UPの→ 「空中写真」もそうですが、実際に歩いてみても、先端の池跡こそありませんが、しっかりした痕跡をとどめていて、迷うことなくたどることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右手の幅広が狭まったとこで左折です。左手に車止め付きの路地が見えています。

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    2. 水路単独の狭い路地が100m強続き、途中車止めでガードされています。

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    3. 右写真は左手(右岸)からのショットで、谷筋が見て取れます。奥は目白通りです。

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    4. 環七通りに突き当たって中断します。高架は目白通りとの豊玉陸橋です。

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    5. 環七通りの先、やや右手にズレた通りです。左カーブまでの20mほど、左手に水路が並行していました。

豊中橋

2016-06-04 06:37:30 | 妙正寺川4

 北江古田橋の次は豊中橋です。Uの字の西側の肩のところにあり、江古田の森公園の整備に伴い架けられた新しい橋です。北江古田橋前の通り(豊中通り)と同様、現行の住居表示の豊玉中(1~4丁目)からの命名と思われます。この豊中橋で左岸から合流する水路があり、今回から数回に分けてのテーマとします。なお、豊中橋から舌状台地の付け根のところに架かる下徳田橋まで400mほどの間には、二本の構内橋のみで立ち寄れる橋はなく、豊中橋先からの→ 写真のように、右岸は舌状台地に接し、左岸は人家が密集していて、川沿いに近づくこともできません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 豊中橋越しに左岸方向です。車止め付きの路地が合流しています。

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    2. 都営住宅を左手に見ながら、ほぼ直線で150m弱西に向います。

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    3. 右手からの合流があり、右折して北に向かいます。右折後の通りの右手が広くなっています。

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    4. 豊玉中1交差点で豊中通りを越えます。「空中写真」にもあるように、水路は通りの右手を並行していました。

中新井村分水

2016-06-03 06:54:40 | 妙正寺川4

 江古田の森公園のある舌状台地の頂点のところに、北江古田橋が架かっています、その前後から江古田川が練馬、中野の区境となり、右手(左岸)が練馬区(旧中新井村)ですが、そこに千川上水の中新井村にかかわる三本の分水中、下新街と北新井の二本が合流していました。ただ、現在確認できる流路は、昭和10年代に行われた中新井地区の区画整理事業の結果で、合流地点は直線かつ単線化されており、田用水というより排水路の機能を担っていたことが推測できます。改修以前の両分水は連絡し合いながら、一帯の田圃を灌漑していました。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  明治26年「北豊島郡全図」の分水をブルーで重ねています。ただ、同図は実測図ではなく、おおよその目安に過ぎません。区画整理を反映した同一縮尺、同一場所の「昭和12年第四回修正」は→ こちらです。

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    ・ 江古田川  舌状台地の先端をU字にめぐるところです。手前は北江古田橋で、親柱には江戸末の江古田獅子舞巡行絵巻を元に、御嶽神社から東福寺に向かう獅子舞の一行が描かれています。

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    ・ 中新井村分水(北新井分)  北江古田橋のすぐ右手にある水路跡の路地です。北新井分の詳細、分水口からの流路については、→  「千川用水4 / 北新井」以下でどうぞ。

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    ・ 中新井村分水(下新街分)  上掲写真の40mほど西側の、間に通り一つ挟んだところです。下新街分の詳細、分水口からの流路については、→  「千川用水4 / 下新街」以下でどうぞ。

中新井村

2016-06-02 06:34:04 | 妙正寺川4

 「中荒井村は日本橋より三里許、民戸百六十二、『小田原役帳』に『森新三郎買得十四貫五百文江戸廻中新居元吉原知行』と載す、正保の改には板倉周防守知行中新井村と記せり、今は御料所なり、東は上板橋村西は中村北は下練馬村南は多摩郡江古田村なり、東西十六町南北八町余、北の方練馬村堺に河越道中(清戸道の誤りか?)掛れり、用水は仙川上水の分水を引用す」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は練馬、中野の区境で、細線は北豊島郡中新井村当時の大字中、中新井の境です。

 中新井の表記は「中新井」が一般ですが、これは明治以降のことで、後北条氏が一門、家臣の役高を記した「小田原衆所領役帳」では「中新居」、また「新編武蔵風土記稿」では「中荒井」となっています。練馬区のホームページ内「練馬の地名今むかし」は、「小田原衆所領役帳」の「中新居」から、隣村中村の人々が新たに開拓し、居住した地域の意と推測しています。なお、現行の住居表示では旧中新井村は豊玉北、豊玉南などとなっていますが、これは明治9年(1876年)開校の小学校の学区が、当時の北豊島郡と東多摩郡にまたがり、豊玉小学校と名づけられたのがきっかけです。

 

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    ・ 中新井緑道  暗渠が始まる下徳田橋の次の中新井橋が架かっていたところで、旧中新井村に属していました。今は「ここから練馬区」の標識が立っています。

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    ・ 氷川神社  「氷川社 村の鎮守なり例祭九月十八日正覚院持」(「新編武蔵風土記稿」) 中新井川(江古田川)を南に臨む左岸段丘斜面にあります。

州崎堰、八百堰

2016-06-01 07:00:57 | 妙正寺川4

 江古田憩い橋の先で、江古田川が寺山の舌状台地を迂回するUターンに差し掛かります。昭和10年代の改修以前には、差し掛かるあたりに八百堰があり、左岸の天神下の田圃を灌漑する用水を分岐していました。その名前の由来については、「江古田今昔」(昭和59年 江古田地域センター)のなかに、「堰の修理や川さらいに出た人が博打をして、八百文負けた者がくやしがり、後日までも八百文負けたといった」、との伝承が収録されています。ついで、U字の先端部分に洲崎堰があり、こちらは右岸の寺山下の田圃を灌漑していました。洲崎は寺山の先端部分をそう呼んでいたものです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  現行の流路及び同時代の「野方町全図(1/6000)に描かれた用水をブルーで重ねています。ほぼ中央で新旧流路が交差しているところが江古田憩い橋です。

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    ・ 江古田川  江古田憩い橋の次に架かる無名橋(公園橋?)から上流方向で、八百堰のあったあたりです。左手は豪雨時のオーバーフローを取り込みむ調節池取水口です。

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    ・ 江古田川  左カーブで寺山の最先端部分に差し掛かり、奥が北江古田橋です。右手に離れる道路が中野と練馬の区境、かっての江古田、中新井の村境の名残で、ここから先は江古田川が境となります。

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    ・ 江古田川  北江古田橋から振り返っての撮影で、このあたりで州崎堰が右岸に用水を分岐、今は17000立方メートルの貯水能力を有する→ 多目的広場兼調節池となっている寺山下の田圃を灌漑していました。