たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ノマド性

2006年10月22日 11時05分48秒 | エスノグラフィー
プナンの村に暮らし始めて、半年がすぎた。分かってきたことも多いが、それ以上に、どう考えていいのか分からないことが、ますます増えてきた。以下、その試行の一部。

イノシシがしとめられた後に、狩猟キャンプにやって来た10歳代の若者3名は、ごはんと臓物の煮物が料理されているのを確認すると、われ先に、その肉にむしゃぶりつき、食欲を満たそうとした。空腹であったのかもしれないが、わたしには、彼らの欲深さは、驚きであり、見苦しく思えた。しかし、<欲望>(この場合、食欲)をあまり隠したり、閉じ込めたりするようなことがない、プナンの日々の態度を観察するにつけ、そのような行動は、彼らにとって、きわめて、自然なことであるように思えるようになった。何かをしたいという<欲望>こそが、あらゆる行動の源であり、それは、誰によっても、否定されるべきものではない。

あるとき、ロングハウスの住人が共有しているチェインソーの刃が無くなった。そのことで、予定していた木材の切り出しの仕事ができなくなってしまった。犯人は、すぐに明らかになった。その男は、自らが酒を飲む金を得るために、チェインソーの刃を売り払ってしまったのである、そのことが、明るみに出た状況下においても、人びとは、(酒瓶を手に入れるための)盗みの常習犯であるその男に、面と向かって、抗議し、断罪しようと、つめよるようなことはなかった。彼に猜疑のまなざしを向け、陰で彼の盗み遍歴を数え上げた。そのチェインソーの刃の盗みを諌めようとしたのは、彼の妻であった。しかし、妻は、その男に、開き直られ、逆ギレされることになった。翌朝、わたしは、当の男が、ロングハウスの近くの道で、一人で隠れて、酒を飲んでいるのを目撃した。わたしにとって、驚きだったのは、人びとがその盗みの犯人を、執拗に追及しようとはしなかったことである。人びとは、その男の度重なる盗みに対して、呆れ果てているのかもしれない。しかし、その場の雰囲気から、わたしには、そこでは、酒を飲みたいという男の<欲望>が、共同体全体の損失と引き換えに、全面否定されるようなことがないというふうに感じられた(それ以前にも、何度も、その男の欲深さに発する盗みの行為は、捨て置かれてきた)。

ひるがえって、われわれの社会(=現代日本社会)においてそうであるように、他者に配慮し、社会的に身分の高い人物に先を譲り、「個」ではなく、「全体」を優先するという行動パターンは、<欲望>に貫かれているのではなく、<欲望>を押さえ込み、その上に仮構された、秩序と倫理に貫かれているのだと言えるのかもしれない。

ところで、プナンの人びとが、他者や「全体」に対する配慮を欠く、<欲望>に突き動かされた人たちかというと、じつは、そうでもない。子どもたちは、森のなかに入って摘んできた果実を、自らが食べるときに、その場にいる人びとに対して、積極的に分け与えようとする。イノシシをひんぱんにしとめる男が、娘の出産費用を捻出するために、すべてを隣人に対して現金取引し、内臓肉さえ隣人に分け与えようとしない行動は、共同体の人びとの非難を浴びた。しとめた獲物は、その一部を、共同体の隣人に配らなければならないというのである。

このような、(ランダムに並べられた)プナンの<欲望>をめぐる行動を理解する鍵は、いったいどのあたりにあるのだろうか。 いまのところ、わたしは、鍵は、彼らの<ノマド性>とでもいうべきエトースのなかに潜んでいるのではないかと考えている。プナンは、アドゥット(adet)(=しきたり)という言葉を用いるが、ここでは、ジャングルの遊動民であった太古の時代に持っていた<しきたり>であることを強調するために、「ノマド」という用語を用いてみたい。

近年、そういった言い方をすると、文化を一枚岩的に捉える本質主義だとの批判がなされることが多く、人類学者は、そのような危うい領野に足を踏み入れようとはしない。しかし、そのような態度は、わたしには、他者へのゼロ接近からの逃げの姿勢にすぎないように思える。他者を深いレベルで捉えようとすればするほど、手がかりとなる概念が必要になる。

<ノマド性>とは、遊動的な生活様式において、人びとが身にまとっていたしきたり、行動原理のようなもので、そこにあるもの(=ジャングルに存在する財)を、共同で利用し、消費するというようなエトースのことである。人びとは、<欲望>に従って、だれもが平等に、財へと接近し、利用・消費しようとする。財が無くなれば、共同で、別の場所へ移動したり、別の方法を見つけて、新たな財を手に入れるように努める。

現代のプナンは、近代へと新規参入(=定住化)したこの40年の間、そのような<ノマド性>を、いまだに放擲することなく、保持していると見る。財(=イノシシ肉、チェインソーの刃、果実)は、そこにあるかぎり、共同で利用・消費されるべきものなのである。その財へと向かう<欲望>は、行動の源泉として、否定されることはない。財がなくなれば、再び、みなで探せばいいのである(しかし、それは、あくまでも、ひとつの萌芽的な見方・考え方であり、妥当であるかどうかの保証はまったくないので、今後、さらに考えてみたい)。

プナン社会のフィールドには、日本人にとっては、すんなりと理解できないようなトリヴィアルな数々の行動が満ち溢れている。かつて、人類学者レナート・ロザルドは、ミンダナオ島のイロンゴットの人びとが、身近な人が死ぬと、その<悲しみ>を<怒り>へと転じて、首狩りをおこなうことの意味をどうしても理解できないでいた。しかし、彼の妻が、フィールドにおいて事故死したときに、イロンゴットの人びととともに、その不思議な感情と行為の連関を共有することができるようになったという(レナート・ロザルド『文化と真実』)。経験は、他者理解の道を開く。

以下、わたしの経験から、もうひとつのエピソード。 わたしは、プナンの人びとが、自分の親(父母)を本名で呼ぶことを、非常に不思議に思ってきた。父親を呼ぶときに、「お父さん(ameu)」と呼んだり、あるいは、直接、本名で呼んだりする。「お父さん」と呼ばれるべき人がたくさん集っているときには、本名で呼びかけることが多いようである。

それとは対照的なのが、わたしが調査研究をおこなった焼畑稲作民のカリス社会のしきたりである。そこでは、どのような状況であれ、子どもが親(父母)、祖父母の名を口にすることはない。その調査研究の時点で、わたしは、どうして人びとは、父母、祖父母の名を口にしてはいけないのかという点について、追究してみることはなかったが、いま、直面するプナンのしきたりとの比較で、そういった慣習が喚起する社会的な意味は、重要ではないかと思うようになってきた。

子どもが父母の名を口にしてはならず、反対に、父母は子どもの名を口にすることができる。その行為の<差異>をつうじて、親子関係の秩序と優劣(=親が子どもよりも社会的には優位であり、尊敬されるべき存在であるということ)が示されることになる。ひるがえって、プナン社会では、親と子の両者が、相手を本名で呼び合うことによって、両者の位置関係は対等、平等なものとして現れるのではないだろうか。そのしきたりもまた、プナンが身にまとってきた、財に対して誰もが平等であるとという、平等主義的な<ノマド性>に貫かれていると考えてみてはどうだろうか。

以上、フィールドの真っ只中で、わたしが試行的に考えたことの一部である。フィールドでは、気づくと、驚きや不思議感をわが身にたぐり寄せながら、必ずしもまとまりのあるものではない、そういった数々のマイナーな行為について、没頭して考えていることがある。そういった面を、いずれ、エスノグラフィーとして、照らし出すことができないだろうか。

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