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【文化人類学専攻の学生・片部 杏(かたべ あん)と、文化人類学の先生・K-TMのアニミズム問答】
片部 杏:獣魂碑とか鳥獣供養塔とかってのは、いったい何なんですか?
K-TM:ありゃ、石の碑をつうじて、動物に対する供養の念を表すという、地球上でも珍しい現象じゃぞ。
アーメン観自在菩薩アッラーアクバル。
片部 杏:原当麻駅前にも、でっかい豚霊碑ってのがありました。
K-TM:ほう、文化人類学専攻の学生なら、そういうのを見たら記録をとれと言っておいたはずじゃぞ、と
ってきたか?
片部 杏:はい、これです。
K-TM:よしよし感心じゃ、どれどれ。ほほう、昭和の戦争以降、従来のようにコメ作りだけで経済が立ち
行かなくなって、畜舎を立てて家畜業を専業化したのじゃな。農協が中心となって、高品質の
豚を仕入れた。それが昭和37年のことか。その5年後には、年間1万頭を出荷したとな。その
ことを祝して、この碑を建てたようじゃな。おっ、この隣に畜霊塔というのもあるな。
片部 杏:ええ、それは、豚霊碑より一回り小さく、昭和18年に麻溝搾乳組合によって建てられたようで
す。
K-TM:どうやら、動物の霊を弔うという思いが、このあたりの畜産業者によって受け継がれていたようじ
ゃな。
片部 杏:で、これって何なんですか?
K-TM:動物霊に対するアニミズムじゃよ。ある人は、生き物に対する供養行事は、アニミズムを背景と
しつつ、長い間の仏教思想に培われた精神の結果だといっておる。また、別の人は、日本で
は、花や魚や迷子郵便に至るまで、アニミズムが願主の意向を受けていたるところで供養碑
などに結晶化しているといっておる。
片部 杏:へ~。
K-TM:供養の対象を生き物だけでなく、無生物にまで広げてきた日本人の行動から推し量ることがで
きるのは、日本人が、死んでしまった存在、かつて愛着や情愛を傾けた存在に対するアニミス
ティックな想像力に拠りながら、日常の現実を組み立ててきたという事実じゃ。
片部 杏:は~、で、アニミズムって何ですか?
K-TM:19世紀の名付け親のタイラーは、人間以外の存在に魂や霊の存在を認める考え方のことだと
いっておる。
片部 杏:いわゆる精霊信仰ってことですか?
K-TM:いかにも。アニミズムについて考えるためには、アニミズムについてどういう具合に議論がされ
てきたのかを考えるのが肝要じゃ。最初に、19世紀のアニミズム論だが、文化人類学を中心
になされたのじゃ。アニミズム論は、宗教の起源論に関わっておった。文化もまた進化すると
いう考え方を基礎にして、アニミズムは、宗教の原初形態と考えられたのじゃ。でも、20世紀
になって文化進化論が批判されると、しだいに、アニミズムをめぐる議論も下火となったのじ
ゃ。
片部 杏:ってことは、われわれは、いまだに19世紀のアニミズム論を生きてるってことですか?
K-TM:ちょっと、そんなにあわてるでない、そうでもあるし、そうでないとも言えるのじゃが、もう少し先を
見ておこう。新しいアニミズム論を提言したのは、じつは、文化人類学者じゃない。動物行動
学や霊長類学などの進化科学、進化論や認知科学の影響を受けた心理学、考古学などが
一体となって、宗教の起源論およびアニミズム論をリードしてきたのじゃ。
片部 杏:それで、それで?
K-TM:今日の認知考古学では、いまから6~3万年前ほどに、宗教が出現したとする見方が優勢なん
じゃ。ミズンによれば、現生人類の出現に先立つ約20万年の間、石器を用い、言語を操って
いたとされるネアンデルタール人の脳では、社会領域、技術領域、博物領域などの脳内の諸
領域が分化していた。そのため、彼らは、ありのままでしか物事を捉えることができなかった。
「石」を見たなら見たなり、「木」を見たら見たなりのものとして理解することができたが、それ以
上のことを行うことはなかった。ところが、現生人類の脳には、それぞれの領域を隔てる壁が崩
れて、ニューロンが組み換えられた結果、それらをつなぐ新たな回路がつくられ、その回路を
とおして、諸領域を横断する流動的知性が作動するようになった。そうした高次の知性の発達
によって、現生人類はいくつもの意味の領域を重ね合わせて、比喩や象徴を使えるようになっ
たんじゃ。現生人類の脳は、さまざまな存在に対する知識を結び合わせて、「石」や「木」など
の無生物にも、人間と同じように意思や意識のようなものがあると考えるようになっ。そのことは
現生人類においてはじめて、目に見えない超自然的存在に対する敬意や畏怖が出現したこ
とを示しておる。あくまでも仮説じゃがな。
片部 杏:ほう、人類の認知の進化のなかに宗教の起源があるってことですね。そうした認知進化の過程
で生み出された観念と実践は、タイラーならば、人間以外の存在のなかに魂や霊を読み取
る、アニミズムと呼んだ現象だということですね。
K-TM:そのとおり、わかってきたじゃないか。アニミズムは、現生人類が認知進化の過程で流動的知
性を獲得した結果、目の前にある事物や事柄だけでなく、それとは別次元に存在する事物や
事柄との関係のなかで、日常の現実を組み立てなおしたり、日々の問題を解決したりする手
立てとして立ち現われたということじゃ。もしそうだとすれば、タイラーのアニミズム理解は、そ
れでいいのじゃろうかということになる。
片部 杏:えっ、どういうことですか?
K-TM:南米の先住民のトーテミズムやアニミズムの調査研究からは、タイラ的なアニミズムとはずいぶ
ん違うアニミズムが報告されておる、じゃ、このあたりの話からしていこうかな。
片部 杏:お願いします。
K-TM:ちょっと難しいが、デスコーラという南米のアシュアルを調査した人類学者は、身体性と内面性
という概念を用いて、世界に関する情報を持たない状況下で、主体が自分自身とそのほかの
存在との差異と類似を発見する仕組みについて考える思考実験をやったのじゃ。アニミズムと
いうのは、彼に言わせると、動物や神、精霊やその他の無生物といった非人間的存在が、人
間との間で、身体性は異なるが、内面性において類似しているという事態を意味している。つ
まり、デスコーラによれば、人間と間が、異なる身体性をもつが、類似する内面性を有す
ることなのじゃ。
片部 杏:どういうこと?お化けと人間は、身体は違うけど、内面は同じだということ?たしかに、お化けは
足がないし、人間は足がある。でも、感情の面では、お化けは人を羨んだり、復讐してやろうと
する。ははん、そういうことで、アニミズムってのは、異なる身体性と類似する内面性か。デスコ
ーラって、けっこうやるじゃん!
K-TM:南米のアラウェテ社会を調査研究したヴィヴェイロス・デ・カストロも、よく似たことを言ったんじ
ゃ。動物、精霊、人間は、内面的・精神的には同じあるが(=連続的)、身体的・物質的には
異なる(=非連続的)と、南米先住民は考えていると。この点を踏まえて、ヴィヴェイロス・デ・
カストロおじさんは、南米先住民社会において、アニミズムは、間存在物に対して、人間
の性質を投影する営みではなく、動物と人間が、それぞれが自らに対してもっている再帰的な
関係が、論理的に等しいことを表現するものだという。わかるかな?
片部 杏:う~ん、難しいな・・・
K-TM:カストロおじさんは、こうもいう。タイラー流のアニミズムでは、人間と人間以外の存在との断絶
が前提とされて、両者がまず「きり」よく分けられた上で、人間のもつ特質としての精神や魂が
間の上に投影されている。それに対して、アメリカ先住民のアニミズムでは、人間と
間は、そもそも内面性において通じており、そうした相互の内面性の連続性こそが、アニミズ
ムなんじゃと。その意味で、間存在物への人間の性質の投影という、タイラー流のアニミ
ズム理解は、そこでは役に立たないことになるのじゃ。
片部 杏:なんかわかったような、わからないような・・・
K-TM:要は、タイラー流のアニミズム理解じゃ、アニミズムの本質は捉えきれてないのじゃないかとい
う問題提起だな、これは。認知考古学がいうように、人間と無生物や動物の間に連続性を見
出す知性のあり方が、現生人類の脳の組織の組み換えで生まれたのだとすれば、その知性
は、人間と人間以外の存在を「きり」よく分けたうえで、自己の内に魂を想定し、それに引き続
いて、人間以外の存在のなかに人間がもつ魂の存在を読み取るというような、順を追って得ら
れたのではなくて、人間のなかに魂を見出す過程も間のなかに魂を見出す過程も同時
に起こったのではないかということなのじゃ。逆にいえば、タイラー流のアニミズムは、人間と非
人間を切り分けた上で、間のなかに人間様の魂や霊を読み取っているということになる。
片部 杏:タイラーは、人間だけに精神を認め、そのほかの存在と分けて考えたデカルトの考えを引き継
いで、そのほかの存在に人間がもつ精神を読み取ろうとしたのがアニミズムであって、そういう
理解じゃ、アニミズムのなんたるかに届いていないってことですかね?
K-TM:ま、そんなところじゃ。
片部 杏:じゃ、われわれは、タイラーじいさんに付きあって、学問をして、回り道をしてたってことになるん
じゃないですか?学問をしなくともわれわれはアニミズムを知っている、人間が生きていること
が即アニミズムだということになる?
K-TM:そのとおりじゃ。われわれ人間は、学問を経由せずともアニミズムを生きとるんじゃ。川上弘美
の小説『蛇を踏む』では、主人公のサナダヒワ子は公園に行く途中の藪で、蛇を踏む。秋の蛇
なので、歩みがのろかったという。踏んでから蛇に気づいた。蛇は「踏まれたらおしまいです
ね」と言い、どろりと溶けて形を失った。そして、人間のかたちが現れた。人間になった蛇は、
50歳くらいの女性となって、ヒワ子の部屋に住みつくようになる。自分のことを、ヒワ子の母だと
名乗り、以前からそこに住んでいたように至極自然に膳を並べ、ヒワ子とビールを酌み交わ
す。ヒワ子は、その人間が蛇であると気づいている。その後、ヒワ子の勤め先の数珠屋のおか
みさん・ニシ子もまた、蛇と関わっていることが分かってきた。その蛇は、ずいぶん歳を取って
いて死期が近い。ニシ子は、蛇の世界はほんとうに暖かいという。何度もあちら側に行きそうに
なったともいう。あるとき、ニシ子はその蛇を踏みつぶした拍子に怪我をする。死んだ蛇は埋め
られた。数珠の納品先の願信寺の住職もまた、蛇に関わっている。蛇を女房にしていたことが
あるという。家の切り盛りはうまい、夜のことも絶品だという。子どもは産めないが卵を産む。その
うちに、ヒワ子の部屋の蛇は、カナカナ堂で仕事中のヒワ子を訪ねてくるようになった。部屋に
戻ると「ヒワ子ちゃん、もう待てない」と言って、ヒワ子の首を絞め始めたのである。その後の格
闘。結論も何もないまま、話は終わる。
片部 杏:それって、アニミズムなのですか?ま、なんとなく分かりますけど。話の内容もわかります。
K-TM:その本のあとがきを書いている松浦寿輝は、こんなことを言っている。たくさんの動物や植物が
入り乱れる川上弘美の物語世界では、種と種との間の境界が溶け出して、分類学の秩序に
取り返しのつかない混乱が生じてしまう。一つの種からもう一つの種へと、存在は自在に往還
できるかのようである。彼女の作品の登場人物たちは、誰も彼も勝手放題に自分を動物化し、
植物化し、しまいには生物と無生物との境界も消え去ってしまう。わたしたちが眺めている世
界の風景には、ふつうは「きり」がある。それは、「きり」良く分類され、例えば人は人であり、蛇
は蛇であって、それらカテゴリー間の混同はありえないという明瞭な了解がそこで営まれてい
る安穏な生の持続を保証している。世界は、基盤のマス目のようにかっきりと「きり」分けられて
いるのが常態なのだ。川上は、この「きり」の概念を崩壊させる。わたしたちを取り巻く世界は、
直観的には、「きり」分けることがない存在から成り立っているのではないだろうかと。
片部 杏:そっか、じつは、わたしたちは、人間とそれ以外の存在を「きり」よく分けて、非人間的存在に
人間的な性質を見てとっているわけではないのですね。アニミズムとは、人間と人間以外の諸
存在が、きちっと「きり」分けられることなく、溶け合って、交差する幻想のようなものなのです
ね。そうした幻想文学に、われわれは直観的にはまりこんでゆくことができるのは、そうした幻
想能力を、認知の進化の過程で、現生人類が獲得したからですね。 だから、人間は、アニミ
ズムを生きてきたということにもなるのですね。
K-TM:そのとおりじゃ。励みたまえ、霊界研究。
片部 杏:はい、ぼちぼち。
上のアニミズム想定問答は、奥野克巳 近刊 「アニミズム、『きり』よく分けられない幻想領域」吉田・石井
花渕共編著『宗教の人類学』、春風社の主要論点を取り出して、再構成したものである。
(写真は、ボルネオ島・カリス社会の「精霊と闘わせる戦士の木像」)
蛇と人間の間には壁がないのですね
究極のバリアフリーですね