たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

楢山節考考

2014年04月05日 22時30分33秒 | エスノグラフィー

1月の読書会で『甲州子守唄』を読んで、深沢七郎に心を奪われた。coffee & paperbacks 

その後、『滅亡対談』や『みちのく人形』だけでなく、嵐山光三郎の『桃仙人』(サブタイトルは、小説深沢七郎)を読みながら、大学生のころに読んだことがあるが、ぼんやりとしか内容の記憶がない『楢山節考』を改めて読んでみた。今回、『楢山節考』を読んだときの衝撃は、カルペンティエールや石牟礼道子のものを最初に読んだときを大きく凌ぐものであった。私は、部分部分に、「プナン」を発見した。その後、『楢山節考』を幾度か読み直し、小沢昭一のCDブック『楢山節考』を繰り返し聴き(マレーシアを旅行中にも聞いていた)、今村昌平監督の映画『楢山節考』も観た。『楢山節考』はたんなる棄老の物語ではない。それを超えて、第一級の民族誌として読むことができるのではないかと思っている。

「山と山が連なって、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある村ーー向こう村のはずれにおりんの家はあった。家の間に大きい欅の根の切り株があって、切り口が板のように平たいので子供達や通る人達が腰を掛けては重宝がっていた。だから村の人はおりんの家のことを『根っこ』と呼んでいた。この村ではおりんの実家の村を向こう村と呼んでいた。村には名がないので両方で向こう村と呼びあっていたのである・・・」という、ざわめきを孕んだ記述で物語は始まり、小説のタイトルで示されるように、村人に歌われる楢山節が順に考察されるなかで、物語が編み上げられる。

1957年の初版本(写真)にはないが、新潮文庫本では、楽譜に「ギター フラメンコ風」と書かれている。楢山節は、小沢昭一による朗読が秀逸である。「山が焼けるぞ 枯木ゃ茂る 行かざなるまい、しょっこしょって」。おりんの孫のけさ吉は、「節回しが実にうまく、枯木ゃ茂るというところはご詠歌のような節で唄うのだが、そこが浪花節のように、泣けるような申し分のない節まわしである。」

ところで、おりんは、食べ物が十分にないこの貧しい村では、村のしきたりに従って、70歳になったら倅の辰平に背負われて楢山まいりに行くこと(山に捨てられること)を心待ちにしている(深沢は、小説のなかで、この村が貧しいというような表現を一度もしない)。それは、いわゆる「個」が自立的なものとして確立される以前の、伝統的な共同性のなかに埋め込まれた自我のあり方ではあるまいか(それは、プナンの自我にも通じると、私は感じている)。それは、楢山まいりに行くのに抵抗する銭屋の又やんに芽生えつつある個的な価値の対極にあるもののように感じられる。

楢山まいりに行く前夜に催された「振舞酒」の儀式のくだりは、圧巻である。「山へ行く前の夜、振舞酒を出すのであるが、招待される人は山へ行ってきた人達だけに限られていた。その人達は酒を御馳走になりながら山へ行くのに必要な事を教示するのである。それは説明するのであるが誓いをさせられるのであった。」

どうやら、深沢は、山梨県境川村大黒坂あたりの古い習俗に深い関心を抱いていたようである。1969年の朝日新聞上で、「私がこの村の人たちを好きになったのは、生きていくぎりぎりの線上にわいた人情、風景ーーそれこそ、原始の味も残されていると気がついたからである」と、深沢は述べている(新海均『深沢七郎外伝』)。

その翌朝、おりんを背負って倅・辰平はお山へと向かう。「楢山が見えた時から、そこに住んでいる神の召使いのようになってしまい、神の命令で歩いているのだと思って歩いていた。そうした七谷の所まで来たのである。見上げれば楢山は目の前に坐っているようである」。辰平は、だんだんと山の神の領域へと入りこんでいったのである。しかし、そこは、生と死がむき出しのまま隣り合わせになった世界だったのである。「岩のかげに寄り掛かって身を丸くしているその人は死人であった。」「死人が動いたのである。その死人の胸のあたりが動いたのである。そこにはからすがいたのであった。・・・死人は足を投げだしているのだが腹の中をからすが食べて巣を作っていたのだ! と思った。」楢山は、生から死、こちら側からあちら側へと繋がった場所だったのである(おそらく、プナンも、生と死が一つながりになっていることを想像しているが、楢山まいりとは、おそらく、その劇的なものではあるまいか)。

そして、なによりも、この作品を書いた深沢七郎のことが気になる。根っからのノマドであったように評伝は書いている。旅回りのバンドでは芸名川上タケルやジミー川上を名乗り、日劇ミュージックホールでは桃原青二と名乗り、風流無譚事件後、埼玉県菖蒲町にラブミー農場を開き、今川焼「夢屋」の主人もやっている。元祖フリーター、自由人のようでもある。彼の生き方は、「近代」を経由していないがゆえに、ふつうのインテリのように、我々自身のあり方・やり方に我慢がならずそれを批判し、乗り越えようと、ある種無駄な抵抗を試みるのではなく、現実否定と肯定の両方を併せ持ちながら、現実を気儘に受け流したものではなかったかと見るのは、あまりにも穿った見方に過ぎるだろうか?


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