たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『ホモ・サピエンスの牢獄』を読んで

2009年06月01日 21時26分58秒 | 文献研究

腰痛の養生のため、今学期はじめて平日自宅にいた。昨日、タイトルに引かれて本屋で買った『ホモ・サピエンスの牢獄~人類の進化を哲学する』(甲田純生、ミネルヴァ書房、2009年)を読んだ。本の最初のほうでは、人類の誕生前夜から、二足歩行や火の使用、埋葬などの人類の進化上の特徴を論じている。二足歩行は、重力への抵抗であり、その後の高層建築へとつうじる歴史の原点であるとの指摘は、スリリングである。さらに、二足歩行によって、男性器は目立つようになり、女性器は隠れるようになったと、著者はいう。つまり、二足歩行によって、「隠す」ことが、意味を持つようになったのである。著者は、「隠す」ことの本質を捉えて、禁止の侵犯というバタイユ的主題へと向かう。火の使用の起源に関しては、バシュラールを援用しつつ、火を起こす摩擦運動とセックスが、ある律動をともなって、人類に快楽を与えるという点で共通することに触れている。その後、著者は、ネアンデルタール人が、埋葬を行っていたという考古学的事実を手がかりとして、彼らの時間構成の能力と夢見の可能性、さらには、「無意識は言語として構造化されている」というラカンに拠りながら、ネアンデルタール人の言語使用の可能性にまで踏み込んでいる。このあたりの思弁は、ひじょうに面白いが、認知考古学、とりわけ、ネアンデルタールをめぐる近年の研究(例えば、ミズンの研究など)を、著者がどのように読み込み、取り入れたのかという点については、大いに疑問が残るところである。著者は、後半部分で、ホモ・サピエンスが、バルトやフーコーを手がかりとして、言語によって、自らをがんじがらめに、金縛りにしてゆくさまへと踏み込んでいる。さらに、知と自由を拡大し、弁証法的な啓蒙を続けてきた人類が行き着いたのが、戦争やテロリズムなどによって、もっとも野蛮な世紀となった20世紀であるという逆説的状況を主題化したアドルノとホルクハイマーに近づきながら、著者は、現代の<マトリックス>という概念で表象される、ヒトに自覚されにくい支配状況へと至り、オウム真理教の権力システムを手短に論評している。この本は、自然から文化への移行という、レヴィ=ストロース的主題を論じているように思えるが、残念ながら、本文中には、レヴィ=ストロースへの論及はない。あとがきには、本文で当然触れられてしかるべきレヴィ=ストロースへの言及が欠けていることと、そのことの理由が手短に述べられている。この本が、物足りないのは、その点にあるのだと言えないだろうか。もっとも、著者も、すでにそのことに気づいているようではあるが。この本が興味深いのは、そういったレヴィ=ストロース的な人類史のテーマに挑戦しているからではないだろうか、とわたしには思える。また、別の点から言えば、この本がユニークなのは、これまで哲学者が取り組まなかった観点から、人類史という土台の上に、人間の思考を哲学するという構えをもつ点にあるのではないかと思う。先史学や人類学の文献の緻密な読解をつうじて、この本に今後、厚みと深みを加えられることを期待したい。総論的に述べれば、人類の誕生から説き起こし、無意識や言語の問題を扱い、現代社会におけるマトリックス的状況へと誘われるうちに、知らず知らずのうちに、哲学の問題系に触れさせられるという、不思議ではあるが、考えさせられる本である。

(サルの丸焼きの頭の部分;プナンのフィールドワークより)
 


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