たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

民族誌の限界

2008年10月05日 21時47分19秒 | エスノグラフィー

ボルネオ島にある有名なニアー洞窟では、いまから45,000年ほど前に、人間が狩猟採集活動をして暮らしていたことが知られている。現在、ある欧米の調査研究グループが、ボルネオ島の高地で、考古学的なデータを用いて、先史時代以降の人びとの活動について調べている。それによれば、いまから5,000~6,000年くらい前に、ヒトが、小規模な焼畑をつくったり、水の流れを変えて、周囲の自然環境を改変していたことが分かってきている。その高地には、現在、プナンの一部が住んでいるが、わたしの最大の関心事は、いまから40年ほど前になって、狩猟採集から焼畑農耕を部分的ないしは全面的に取り入れて、生存戦略を変えるようになった、このプナンと呼ばれる人たちが、先史時代以降どのように暮らしてきたのかという点にある。いまから1万年ほど前には、ヒトは、周囲の自然環境から、産物の収奪によって暮らしていたとされる。現代の狩猟採集民は、その生き残りであると考えられている。その点に照らせば、基本的には、プナンも、農耕革命へと移行することがなかった、狩猟採集民の生き残りであるということになる。しかし、他方で、プナンは、粗放農耕(焼畑農耕)をして暮らしていた人たちのなかから、民族集団の交換のネットワークのなかで、ジャングルのなかの産物を集めることに特化していった人たちであるという、ホフマンの説が知られている。わたしは、後者のホフマン説ではなく、前者の「生き残り」説に傾いている。というのは、現代のプナン人のエトースは、明らかに、農耕民的ではないと思えるからである。時間の観念が希薄であるとか、備蓄・保存を毛嫌いするであるとか、家畜動物を動物のカテゴリーに入れていない・・・というような、今日のプナンの民族誌データからは、非・農耕民的な特質が際立っているからである。暦をもった人が暦を捨てたり、保存方法を知った人が保存しなくなったり、家畜動物をもった人がその習慣を捨てるというようには、ふつうならないと、直観的に、考えられる。つまり、農耕的なエトースをもった人たちが(それらが農耕的なエトースとすればの話であるが・・・)、狩猟民的なエトースを身に付けることは、できないと思われる。いずれにせよ、わたしは、そのあたりの実証的な証拠を手に入れたい。民族誌研究をいくら煎じ詰めても、しかしながら、その点を、突破することはできないのではないだろうか。民族誌を手がかりとして、考古学的なデータが必要だと思う。オーラル・トラディションを、丁寧に実証的なデータに結びつけていくような、息の長い調査研究が大切なのえだろう。わたしが調査対象としているプナンは、かつては、どのあたりを移動して暮らしていたのかについては、ある程度分かっている。プナンは、40年前以前は、ジャングルのノマドとして、小屋がけの生活をし、人が死ぬと、その小屋の下に埋めて、別の場所に移動したという。例えば、そのようにして埋められた人骨や埋葬時の遺品は、どれくらいの期間残るものなのだろうか。酸性の土壌では、遺物が、長い間残らないということを聞いたことがあるが。そのような「人間」についての調査研究が、人類(人間)学なのではないかと、いまさながなら思う。わたしたちの社会の自明性を相対化するというような人類学のスローガンは、人類学が現代社会で場所を確保するための、まったくの詭弁なのかもしれない。とにかく、民族誌の限界を超えて、人類学は、どこまで突き進むことができるのか。考古学の助けは必要である。いや、そうではくて、人間に関して、もっともワクワクするような知見を提示するものが、人類学という名を冠することができるようにすればいいことだけなのかもしれない。だとすれば、わたしのやっていることは、人類学未満である。

(吹き矢で樹上の獲物を狙うプナン人のハンター)


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