たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



J.M.クッツェーの『動物のいのち』をアマゾンで注文したがなかなか届かなかったので、手元にあったJ.M.クッツェー『恥辱』ハヤカワepi文庫(2010-33)を読む、ぐいぐい引き込まれていく、読んでいるのではなく、文字が目と脳を導いてくれるとでもいうような、途中まで読んで眠ってしまうが、メラニーの演劇の稽古の話が出てきたせいか、演劇俳優になった奇妙な夢を見る、わたしは、演技に自信がなく舞台に出て行くのが億劫なのだ。ところで、主人公は、デヴィッド・ラウリー、もとはケープタウンの大学の現代文学の教授だったが、合理化計画の流れで学部が閉鎖になり、いまはコミュニケーション学講座の准教授をやっている、52歳か53歳、「教える科目に敬意をもてないので、学生にも影が薄い・・・教師を辞めないのは・・・ひとを教えに来た人間がそれは手厳しい教訓を得て、逆に学びにきた人間がなにひとつ学んでいない」(10ページ)と考えている、なんたる皮肉屋なのだろうと思う。小説のなかでは、人物の描写のセンスが、際立っている。デヴィッドは、周りから見ると実に嫌な人物だろうと思う、しかし、その人物の内面は、これまでの人生経験を経て、趣味趣向から性癖、問題意識、職業感覚にいたるまでじつに整然たるものとして組み立てられるように感じられる。彼の生活信条のハチャメチャぶり、二度の離婚、性的な欲望を処理するために、毎週木曜日の昼からソラヤという名の娼婦のところに通っている、ソラヤに対する身勝手な思い入れ、別れ、別の女にも手を出す、そんな折、ふと、ロマン派詩人の講義を受講している20歳の美人(だが、ウィットはないという)女学生メラニー・アイザックスに目がとまり、デヴィッドは、レイプまがいの行為でメラニーと交わる、そこには愛はなかったように思える、それまでの記述から、そう読み取れる。メラニーには強面の恋人あるいは元恋人がおり、デヴィッドは、その男に脅迫されるだけでなく、その後、メラニーにハラスメントだと大学に訴えられる。大学では査問委員会が開かれ、デヴィッドは彼のことを思いやる同僚諸氏の好意を無視して(彼には理解できないのだ)、端から自らの罪を認める陳述を行う、「自白させてもらう。話はある夕方に始まる、日付は忘れたが、そう前のことではない。カレッジの古い果樹園を抜けて行く途中で、たまたまくだんの若い女性ミズ・アイザックスに会った。二人の道が交わった。言葉が交わされ、その瞬間何かが起きたーーわたしは詩人ではないので詳述はやめておく。エロスの神が現れたと言えば足りるだろう。その後わたしは、もうそれまでとは同じではいられなかった」(82ページ)という自白のことば。ここから、話は急転する、デヴィッドは、大学を辞し、農村に移り住んで農業で身を立てている娘ルーシーの元に行くのだ、詩人バイロンに関する著作を書きたいという気持ちを持ちながら。彼はルーシーの手伝いや、さらには、ベヴ・ショウの動物クリニックの仕事をしたりして、大学での「恥辱」を引き摺って暮らす。この小説に深さを感じるのは、動物の命に向き合う人というテーマが、底に流れているからである。ルーシーはいう「・・・あるのはこの生活だけよ。それをわたしたちは動物とわかちあう。それが、ベヴのような人たちが築こうとしている理想の生活よ。わたしもその手本に倣おうとしている。人間の特権を動物とわかちあうこと。つぎに犬や豚に生まれ変わったら、人間の下になって生きるのはまっぴら」「ルーシー・・・人間は動物とは種をたがえる生き物だ。高等であるとはかぎらない、たんに違うものだ。だから、やさしくあるなら、純粋に寛容な心からにしようじゃないか。罪悪感やしっぺ返しを恐れる気持ちからでなく」(116ページ)。人間と動物はちがう、だから、動物に対して人間の寛容さが必要なのだという。そのうちに、デヴィッドは、自ら進んでベヴの仕事の手伝いを名乗り出る。多くなりすぎた愛玩動物、それらは持ち込まれて殺される。「針を刺すのがベヴ・ショウなので、亡骸の処理は彼の担当になる。午前中、始末が済むたび、ルーシーのコンビに荷物を積んで移民病院へ向かい、敷地内の焼却炉にはこびこんで、黒い袋に入った屍を炎の手に委ねる」(222ページ)。「最初の月曜は、焼却作業を彼らにまかせた。一夜明けた骸は、死後硬直でかたくなっていた。死体の脚がトロリーのバーに引っかかり、トロリーが焼却炉へ行って戻ってきたときには、ビニール袋はすっかり焼け落ち、歯をむいて黒焦げになり毛皮の焼けた臭いをさせた犬の骸がのっていったものだ。しばらくすると、作業員たちが積み込みの前にショベルの背で袋を打って、硬直した四肢を折るようになった。さすがにその時点で、彼は何かに割って入り、みずから作業することにした」(223ページ)。「いまではこのおれが犬男になっている。犬下請け人、冥界への犬案内人。犬の僕」(225ページ)。ケープタウンで「恥辱」にまみれたデヴィッドは、田舎で、汗まみれになって、動物の死に向き合う。骸となった犬への粗雑な扱いに抗うデヴィッドは、魂のレベルでは、死んだ犬と一体化しているということではないか。ところで、物語のもう一つの強烈な展開がある、娘ルーシーが、黒人3人組にレイプされて、妊娠するというストーリーであるが、その背景には、南アフリカの白人社会と黒人社会の血塗られた歴史があることがうかがえる。白人であるルーシーは、やがて、土地の覇権をめぐって、静かに、したたかに迫ってくるペドラスの庇護の下に暮らすことを決心する。父は、黒人たちにふたたび襲われることを恐れて、ルーシーをオランダに逃がそうと試みるが、ルーシーは頑なに父の計画を拒みつづける。しかし、父デヴィッドは、なかなか急激に己の人格を変化させることはないが、農園とクリニックでの動物の命のやりとりの経験を経て、「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子供もうまれるんだし」(322ページ)ということばを、ルーシーに対して発するようになる。物語の最後のほうに、デヴィッドが、メラニーの家族に会いに行ったり、メラニーの劇を観ている場面で、彼女の(元)恋人から詰られる場面などが組み込まれているが、はたしてそうしたくだりは必要だったかどうか疑問が残るところではあるが、人生における取り返しのつかない転落が、別の時間と場所で、動物の命への関わりをとおして、破滅へと向かうのを踏みとどまらせた物語として読むならば、面白い。★★★★



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