たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『悪魔祓い』

2010年09月21日 07時50分32秒 | 文学作品

ル・クレジオ『悪魔祓い』、高山鉄男訳、岩波文庫(2010-32)★★★★、これは民族学の衣を着た詩だ、フランス人現代作家が、数年にわたってパナマのインディオたち(エンベラ、ワウララ)と共に暮らし、原住民の美や芸術、呪術のうちに見出した驚異に言葉によって輪郭を与え、インディオ賛歌を謳い上げ、勇ましく現代文明に抗おうとした、美しく麗しい、われわれの手引書だ、しかし、現代の人類学者なら、先住民をロマン化しすぎているというかもしれない、まあまあ、そこは一つの作品として眺めてやろうではないか、「都市は永遠のものだとわたしたちに信じさせるのは、都市の策略の一つである。都市は文明の自然な到達点であり、都市が文明を説明するのだと、都市はわたしたちに思い込ませようとしている。しかし現実はそれとは大変異なっている、インディオたちの原初の文明のうちにこそ知恵が秘められ、説明が隠されているのだ」(19ページ)、「宇宙には自然でないようなものはなにもないと。都市や都市の風景も、砂漠や森や平原や海と同じように自然である。知性の可能性もまた永続的なものであり、神秘的なものである。都市を創造し、コンクリートとアスファルトとガラスを発見することによって、人間は新しい密林を作りだしたが、人間はまだその住人になっていない。もしかしたら人間は、この密林に通暁する前に死んでしまうかもしれない」(42~43ページ)、現代都市文明は、進歩や歴史といった人間にとって余計なものに囲まれている、そのため、インディオたちの美しさに比べて奇怪である、「女の美しさ。はじめは理解できず、困惑させられ、不安にさせられてしまう美しさ。その美しさはあまりにも奇蹟的だし、だれもみなひとしく美しいので、まるでまやかしのように思えてしまう(25ページ)、インディオの女の美しさは光り輝いている。美しさは、内面から来るのではなく、肉体のあらゆる深みからやって来る・・・インディオの美しさは、ただ勝ち誇って、生き生きとしてそこにある」(27ページ)、まだ続くインディオ女性の美をめぐる記述、「美は奇蹟でもなければ、偶然の結果でもない、インディオの女の美しさは、自由の結果である。道徳や宗教の禁制を恐れることなく、あるがままであるという自由。自分の肉体と精神のために、労働と交合と分娩を選ぶ自由。愛されなくなった男から逃れ、気に入った男を求める自由。堕胎用の煎じ薬を飲む自由。子ともが欲しくなければ、分娩の際に毒殺してしまう自由。気に入った家に住み、欲するものを所有し、憎むものを拒む自由。肉体の自由と裸身の自由。自分の顔を手入れする自由。競争相手もなく、自分自身の姿態以外には、他の何物とも競うことがないという自由、不品行の自由と分別の自由」(30ページ)、芸術について、「本当を言えば、インディオが知ることもないし、また無用と見なしているものは、《芸術》である。世界を明らかにすることなどには、インディオは熱中しない。音楽はあるとしても、それは世界を音楽化することではない。世界は説明され得るものではなく、置き換えられ得るものでもないと、インディオは承知している」(57ページ)とした上で、ヨーロッパの芸術の奇妙を暴き立てる、「種族の他のものたちに対する個人の優越を主張しようなどとはしない遺伝的な絵画。男も女も子供も、すべてのものが画家であり、みんなが『芸術家』である。そのためには超自然的な能力も、極端な感受性も必要ではない、『才能』などは必要ないのである。こうした言葉は、教養や技術的成果という考えにつきまとわれて、ヨーロッパ人が、自分の未熟さを正当化するために考えだしたものだ」(114ページ)、絵を描いたり、音を奏でることは、そこでは「才能」ではない、逆に、ヨーロッパでは、成果のためにその概念が作り出されたというのだ!、「感嘆するとは、白人の愚かしい感情であって、この感情は閉じ込め、無機化し、殺す。インディオは感嘆されるためになぞ、なにもつくりはしない」(126ページ)、歌について、「インディオの笛の音と、明確に発音される言語との中間に、歌がある」(72ページ)、「歌のせいで、言葉は人間だけに理解されるものではなくなってしまう。言葉は、音のせいで、悪霊の訓練された耳をそばだたせる」(78ページ)、動物たちとのやり取りもまた、歌によってなされる、「鳥笛や、草や、呼子で、もしくは単に指を使うだけで、インディオは、てんじくねずみ、鹿、パカ、やまうずら、猿などの言葉を話すことができる。インディオは、森のなかでこれらの動物に話しかけ、動物たちが答えると、その隠れ家にでかけて行って、自分のほうにおびき寄せる。そして動物たちを殺すのだ」(80ページ)、したがって、「歌うとは、音楽を奏でることではない。それは理解不能なある言語の助けを借りて、目に見えない世界と連絡することである」(89ページ)、そうだ、歌とは、目に見える世界と見えない世界の連絡の方法だったのだ、ところで、人間について、ル・クレジオの観察、それはどこかで聞いたようなフレーズ、現代のフランスの人類学者・デスコーラの言い回しにそっくりだ、「インディオは世界から分かたれていない。領域と領域が断絶することを欲してもいない。人間は、蟻や植物たちと同等に、大地の上で生きているのであって、自分の土地から亡命して来たわけではない。魔的な力は、ただ人類だけの特権ではなく、大豹も、臍猪も、イグアナも、ひき蛙も、猿も、鳥も、昆虫も、同じ原則に従っているのである。人間はおそらく農耕技術と狩猟の手管によって、万物を支配するにいたった。しかし、超自然的な力からは、他の存在と同じものとみなされているのだ。動物や植物があるわけではない。程度の差はあれ仮面をつけた人間がいるだけだ」(111ページ)、人間と動物は、狩猟と農耕がなければ、この地上において、ひとしい存在であるということを、わたしたちは先住民から学ぶことができよう、身体装飾について、「インディオが肉体に模様を描くのは、それがおよそ人間の考え出し得る限りでの、意識の最大の実験だからである人間は生きているのだということ、このことをインディオは知っている。皮膚は、他者の目にさらされた自分の生命の光景である。同時に、外部からの攻撃や探索から肉体を守るものである。衣裳は、寒気や日光を防いでくれる。ゴムの木や鎧は、矢を防ぐ。しかし、それらは、他者の目や、異物から肉体をふさいでくれはしない。肉体を無防備なままに放置する惨めな襤褸・・・インディオは肌に模様を描く。すると彼はもう裸ではなくなる。彼の皮膚は、鏡のようなものとなり、敵の目には、敵自身の姿しか送り返さない・・・肌に描くことで、インディオの諸族は、意識の冒険をもっと徹底した人々に属することになった」(133~135ページ)、呪術の防護のための身体装飾、最後に、ル・クレジオの民族学的オマージュを読んで、彼の観察眼の照準は、インディオという人間にあてられている、猿でもなければ、鳥でもない、道具でもなければ、さらには、心でもない、政治や経済でもなく、人間なのだ、その意味で、人類学は、人間を追う文学と親和的なのではないか、という凡庸な感想。