帰国して2日しかなかったが、とりあえずやらなければならなかったことだけを終えた気分になって、【初日】、4年生の卒論合宿で、羽田空港から朝8時の飛行機で札幌へ、札幌は涼しいと聞いていたが、真夏はそこにも残っていて、北海道から広がったという本場のスープカレーを食べて、ホテルのロビーの脇と部屋のなかで、その日は、一人一人の卒論の検討会を、みながぐったりなるまでやり、町に繰り出して、お疲れさん会をした、【二日目】、レンタカーを借りて、札幌から白老町へ、ビュンビュンと暴走ぎみのわたしの運転は、評判が悪いだけでなく、車酔いを引き起こしながら、白老町へとたどり着き、ポロト湖の畔にあるポロトコタン(アイヌ民族博物館)へ、チセ(茅葺民家)のなかでアイヌの話を聞き、古式舞踊を見学し、昨年白老でクマが死んだためクマ送り儀礼(イヨマンテ)が行われたという話を聞き、アイヌを身近に感じながら、支笏湖の周りの印象的な山道をドライブして、いくつもの北海道ならではの道路設備を発見した、雪に埋もれたさいの道路の<端>の位置を示す、上から垂直に垂れ下がった矢印、雪が積もらないためだろうと思われる縦型の信号機、さらには、停止線とは何ぞや、わたしは信号の前でいちいち止まっていたが、それもまた雪対策なのであろう、というような話をしながら、札幌へと戻った、【三日目】、台風が熱帯低気圧に変わり、北海道を直撃するなか、レンタカーを借りて、買ったばかりのアイヌ音楽のCDをガンガン流しながら、太平洋に注ぎ込む沙流川を遡るようにして、平取(びらとり)町・二風谷(にぶだに)へ、ケナシパオマナイ、シケレペ、ポンオサッ、日本語とは異なるアイヌ語の川の名の表記、地名に残るなじみの薄い音の響きに魅かれながら、二風谷アイヌ文化博物館へに着いたころ、ザーザーと雨が降り始めた、77年に行われたイヨマンテの映像資料(一時間半:民族映像文化研究所)を初めて見た、第一部のイヨマンテの準備の細かい手続きそのものが、アイヌのクマ送りの背後にある人間と動物(神)の関係のあり方を示しており、準備はたんなる準備などではないなどと考えながら、77年の二風谷のイヨマンテを主導した萱野茂氏の敷地に建つアイヌ文化資料館を訪ね、オヒョウの木の皮から紡ぎ出されるアットゥシ(あつし織)の製作について話を聞き、さらには、クマの肉を食べなくなったからイヨマンテを行わなくなったという話を聞き、魔よけの文様を縫いこんだバンダナを買って二風谷を後にし、熱帯低気圧のために前が見えないほどの大雨で時速制限されたハイウェイをつっ走って、新札幌にある北海道開拓記念館に寄り道し、和人による北海道植民地開拓の歴史の展示を目の当たりにし、周縁化されていったアイヌの人たちのことを想いながら、暮れ方、札幌へと戻り、4年生のメンバーと合流して、駅前の居酒屋で懇親会を行い、その後、部屋で、引き続き飲んだ、【四日目】、札幌から新千歳空港へ、そして羽田へ、4年生の合宿は無事終了した、4日間にわたって、大学の卒論合宿をやったのは初めてのことで、しかも、わたし以外全員が女子学生というのも異例で、なんだかボ~としたまま品川へ、新幹線で新大阪へ向かい、そこに泊まり、【五日目】、7時35分の特急くろしお号で紀伊半島を下り、4時間近くかけて太地町へ、9月2日からクジラ追い込み漁が始まったばかりだという新聞報道があり、関西に行くついでに、とにかくその雰囲気でも知っておきたいというのが太地訪問の目的で、レンタカーかタクシーででも回ろうと思っていた目論見は、太地の駅に降りた瞬間に崩れ去ってしまうほど、な~んもないところだったが、しかも京田辺で39,9度を観測しとんでもない暑い日で、町内の循環バスで、太地町立くじらの博物館へ行き、小学生のときに食べた、なつかしい味のクジラ丼800円を食べてから、セミクジラの大きな骨格標本が印象深く迎えてくれる博物館では、生物としてのクジラの展示、太地の古式捕鯨、近代の捕鯨の歴史などの展示、さらには、クジラをめぐる太地の人びとの取り組みなどの展示などを見て回り、「ザ・コーヴ」のなかでも槍玉に挙げられていたイルカショー、クジラショーを見て、ふたたび巡回バスで、途中、くじら供養碑を見逃したのが残念だったが、美しい太地の入り江の風景を眺めながら(写真)、JR太地駅に戻り、紀伊勝浦経由でくろしお号に乗り、夕暮れに新大阪に戻ったが、太地にいたのはたったの3時間だけ、移動に往復8時間を要した日帰りの旅だった、ふ~、【六日目】、新大阪から北大阪急行とモノレールを乗り継いで、3年生のゼミ合宿で、みんぱく(国立民族学博物館)へ、東京から夜行バスで来た学生が多くやや最初から疲れ気味か、しかし展示見学を終えて、プールサイドビアガーデンへ行こうとのお誘いの連絡があり、飲み食いして、ほろ酔い加減、【七日目】、みんぱく二日目、学生は個々に宿泊を確保するということにしてあり、ひとりだけ所持金がなく野宿をした強者(♂)がいたようであり、すでに、その種の学生は死に絶えたと思っていたが、学生の貧困は人を動かす、人をつくるのだと改めて思いつつ、その日は、各自、それぞれテーマを発見して、それを展示や学習室・図書室の資料、ビデオテークなどを用いて深めてゆくという研修内容であったが、思ったのは、民族学博物館に行くと、エスニックなモノにウキウキする隠れ文化人類学好きがいるってこと、わたしも根っからそうなんだと思ったし、文様や仮面や刺繍の話をしていて、ついふらふらと、布や鞄を買ってしまったのである、みんぱくのアイヌの沙流アイヌの熊送りのビデオテープについていうと、それは、民族映像文化研究所の映像の焼き直しだったし、アットゥシのビデオには二風谷で会ったアイヌのおばさまが出ていて、なんだか懐かしいような気がしたし、夕方には、みんぱくを後にして、途中乗り間違えた学生もいたが、電車でぞろぞろと京都に移動し、京大医学部の近くにある京都教育文化センターに泊まることにして荷を預け、荒神口でコンパ、続いて、大部屋の飲み会、ガールズトークってのを聞いて、そっち方面の底知れぬパワーのようなものを感じ、【八日目】、午前中、全員からみんぱくでの研究成果の発表を聞いて、今後の打ち合わせをして現地解散、まったくあっという間の出来事だったと思いつつ、京都から新幹線で、熱帯低気圧に変わった台風とともに町田へと戻った、歴史・人類学・地域研究区分会議に参加するために、そして、七泊八日のわたしの全国行脚は終わった、おそらく、今年の夏もこれで終わった、、、、