不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています
たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



熱暑の一日、新幹線が止まるようになって、街が大きく様変わりした駅前の高層ビルの一室で、サラワクで新たに始まる、K都大学のIさんを代表者とする、文理融合の5年間の大型プロジェクトの初めての研究打ち合わせが行われた。わたしたちは、2000年代になってからずっと、自然をキーワードとして、サラワクで、これまで二つのプロジェクトに関わってきた。3つめのこのプロジェクトは、熱帯の水系を取り上げて、自然経済からプランテーション経済への移行が進みつつある現在、文化人類学や地理学、経済学、言語学、生態学、環境学などの専門家20数名が協同して、生態が撹乱されている状況下で、人びとがどのように変わってゆくのか、というテーマを追及するというプロジェクトである。打ち合わせでは、人文科学系の学問と自然科学がはたしてどのように協同できるのかという点に、最終的に的が絞られていった。自然科学に人文科学が役に立つというのはほとんど無理なことであって、逆に、人文科学も自然科学を取り入れられないという問題もあるというような冷めた意見が出されたが、現地の人びとの評価(例えば、森林破壊が進んで動物がいなくなったというようなこと)の根拠を、自然科学によって示すことが、とりあえずの出発点としては、確認されたように思う。プナンの狩猟対象であるイノシシやそのほかの動物が、どのような行動を取っているのかについては、わたしはもっぱらプナン人たちから聞いているだけであるが、自然科学のデータから、実際には、動物がどのような行動を取っているのかを知ることができるならば、プナンの自然経済の実状を、より深く知ることができるだろうし、その意味で、研究の地平が広がってゆくことになるのではないかと思える。このプロジェクトでは、研究対象地のサラワクだけでなく、日本国内でも並行して、自然科学の手法を中心に、全国津々浦々で、実習合宿も何度か予定されているという。このプロジェクトそのものには、真正面からあまり貢献ができそうもない一研究者の身としては、その点が楽しみである。むしろ、そちらのほうに力を注ぎたい感じがする。いや、それもそうだけれども、これまで取り組んできた、自然との密着度が高い狩猟民に、自然経済という観点から、今後も継続的に関わることができることは、わたしにとっては幸いである。印象と感想のみ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アマミノクロウサギが原告となった訴訟が、話題にのぼった。わたしたちの近くにも、人間以外の存在が(法的)主体となりうる状況がある。法理では、会社組織や国家などが主体であることが自明の理でもある。
http://www.kamisama-tasukete.com/archive/amami_a.htm

ところで、白人は、アメリカ先住民が動物であるのか人間であるのかをどのように判断したのか。白人たちは、インディオに魂(精神)がある場合、人間であると捉えたようである。これに対して、
アンティル諸島の先住民は、白人を見て、人間であるのか霊的存在であるのかを知ろうとした。先住民たちは、白人が、霊的存在や動物とともに、魂(精神)をもつということはすでに分かっていた。先住民が知りたかったのは、その魂が、自分たちのものと同じ気質を持つものかどうかだったという。白人の身体を調べてみて、腐敗したり、他の存在物へと変化するようなことがない場合には、先住民は、白人たちも自分たちと同じ気質の魂をもつ人間であると判断したのである。

要するに、西欧思考では、魂(精神)が差異の指標となり、身体が統合を促す。そこでは、魂は、人間を動物やモノよりも上に押し上げるが、身体は、普遍的な基質(DNA、炭素化学)によって統合されることで、
他の生き物とわたしたち人間を結びつける。これとは対照的に、アメリカ先住民は、宇宙の存在物の間に、精神がつながっていることと、身体が切れていることを仮定する。前者はアニミズムであり、後者がパースペクティヴィスムとなる。つまり、魂(精神)は統合の指標であり、身体が差異の指標である。

ところで、パースペクティヴィスム(見ることによって主体がつくられるという存在論)は、たんに、身体ではなく、肉体性(corporeality)に関わっている。個人のアイデンティティーの定義および社会的価値の流通において身体を集中的に記号論的に用いることは、あまりにもありふれた身体を特別なものに仕立て上げて、他の人間の集合体の身体からだけではなくて、他の種の身体からもそれ(=身体)を差異化することになる。身体は、苛烈に差異化されなければならないのである。

その意味で、人間の身体とは、人間性と動物性の対立の焦点になる。動物的に着飾った人間は、超自然的に裸になった動物のカウンターパートである。魂(精神)のモデルは人間のそれであり、身体のモデルは動物のそれである。主体(精神)の客体化は、身体の単一化を生み(文化の自然化)、客体(身体)の主体化は、精神のレベルにおけるコミュニケーションを意味する(自然の文化化)。このように、アメリカ先住民の自然と文化の区別は、身体的なパースペクティヴィスムという光の下で再読されなければならない。アメリカ先住民社会では、身体的な変容を伴わない精神の変化などない。身体と精神のちがいは、存在論的な非連続性(=断絶)として解釈することはできない。魂や精神が身体であるように、身体は魂でもある。

西洋思考においては、魂(精神)が、教育や宗教的な改宗をつうじて、メタモルフォーシスする(変わる)ことに恐怖の原因があり、その恐れは、独我論と結びつくことになる。それに対して、アメリカ先住民社会では、身体がメタモルフォーシスすることに恐怖の原因があり、その恐れは、カニバリズムに結びつくことになる。先住民たちは、動物を食べたとしても、それが、もともと魂を共有している人間がメタモルフォーシスしたものであるかもしれないということに疑いを抱くからである。つまり、カニバリズムを犯すことに対する恐れがある。身体は、捨てられ、交換できるものであり、身体の背後には、人間と同一の主体性が想定されている。

さらには、生者と死者の断絶について。死とは、身体の破局である。人間の身体から離れてしまうのが精神(精霊)であり、さらに、死者は人間ではないので、論理的には、死者は、動物となる。超自然性とは、社会的な人と人との間の関係でもなければ、動物の身体との身体的なつながりでもないようなカテゴリーのことである。つまり、超自然性とは、主体としての他者の形式である。アメリカ先住民社会の典型としては、森のなかで、人間が、最初は人間か動物に見えるような存在と出会う。その後、そうした存在物は、精霊か死者として現われて、その人に語りかける。そのことで、その人は、話しかけてきた存在と同じ種の存在(死者、精霊あるいは動物)となる。唯一シャーマンだけが、様々なパースペクティヴを行き来し、人間主体としての状態を失うことなく、動物や精霊に呼びかけたり、それらに呼びかけられたりする。最後に、パースペクティヴィスムの消失点は、神話である。それは、主体と客体が溶け合っていて分かれる以前の場所なのである。

以上、本日の研究会(四谷、写真)で検討したVdCCosmological Diexis and Amerindian Perspectivism の最後のパートの要点、ではあるが、う~ん、難解であり、内容の深い論文であり、日本語にしてまとめるのはなかなか骨が折れる。まだまだ不足がたくさんあると思われるが、とりいそぎ、備忘のため。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




わたしたちがまちがって普遍的であると考えている自然主義について。

人は自由なかたちで付き合い、規範や慣習を精巧なものとして作り上げるがそれを犯す場合もあるし、環境を改変し、生存経済を調達することにおいて仕事を共有するし、交換する記号や価値を作り出すというふうに、人間以外の動物たちがしないようなあらゆることを行う。自然主義の考え方においては、アノミー的な自然とは対照的に、人間社会のなかに人間が配置されることになる。

それゆえに、ホッブスは言うのだ。「いかなる動物との契約もありえない」と。それは、自然主義の格言であるのかもしれない。人間社会を自然から切り分ける自然主義においては、
人間が動物と契約を結ぶなどとは考えられないのである。

その後、
19世紀になると、社会進化論者は、人間社会の等級づけを行った。自然に近い人たちがいると。環境を改変することもなく、重々しい制度的機構なしにやっていけるような、文化文明からは程遠い自然民族がいる。しかし、そうした人たちのことを野蛮、未開だと言い切るような人種主義者でさえも、人間が、動物たちから諸制度を借りているというような言い方をすることは、ありえなのである。人種主義もまた、その意味で、自然主義の上に立っている。

他方で、アニミズムについて。

それは、人間以外の存在に社会性のようなものを帰するような考え方である。その意味で、アニミズムもまた、自然主義と同じように、ヒト中心主義的であるように見えるかもしれないが、本当の意味でヒト中心主義であるのは、自然主義のほうである。そこでは、人と人以外の存在が、裁然と切り分けられるからである。

そのように考えるならば、アニミズムとは何かに接近することができる。アニミズムは、人間以外の存在が人間のように取り扱われるために、人間から必要なものを引き出すことに自己充足する点において、人間をどんどんと作り出す(anthropogenic)ーー魂や精神をもった存在をどんどんと発生させるーーようなものとして、よりよく理解されることになる。

本日の研究会でのデスコーラの「自然主義」についての拙いまとめ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




  本発表の目的は、マレーシア・サラワク州のブラガ川流域に半定住する、狩猟を主生業とする約500人のプナン(Penan)の動物と人間をめぐる関係の輪郭を民族誌的に描き出すことを踏まえて、自然と社会という主題に対して一つの見通しを示すことである。本発表では、ボルネオ島、マレー半島、東インドネシア一帯で広く行われているとされ、東南アジア民族学において、「雷複合(thunder complex)」と呼びならわされてきた観念と実践を取り上げる。フォースによれば、「その複合の中心には、禁止事項、とりわけ、動物の扱い方を含む禁止事項が、嵐を招き、その結果として、洪水や稲妻によって、ときには、石化によって罰を与えられるという考えがある」。

 本発表で取り上げるプナン社会においても、動物に対する人間のまちがったふるまいが、雷雨や大雨、洪水などの天候の激変を引き起こすと考えられている。人間のまちがったふるまいに怒った動物の魂が天空へと駆け上がり、雷神にその怒りを届け、雷神の怒りが雷鳴となって鳴り響き、雷雨や大水を引き起こすと考えられている。そうした制御不能な天候の激変に対しては、それが起きた時点でそれを鎮めるための儀礼が行われ、また、人間の粗野な動物の扱いがその原因であると考えられるため、動物に対して、まちがったふるまいをしないために、禁忌が実践され、人間と動物の間の近接が禁止されてきた。

  本分科会は、民族誌を手がかりとして自然と社会の二元論を考えることを目指している。それに応じるために、本発表では、どのように人間が、民族誌的な実践の場面において、動物と相互交渉しているのかに焦点をあてたい。プナンの行動の現実を、できる限り、生き生きとした民族誌のなかに描き出したいと思う。そのため、以下では、エピソードを中心とした口頭発表を試みる。そうした民族誌の全体性の先に、プナンにおける動物と人間の関係のあり方、とりわけ、それらの近接の禁止というタブーの意味と魂の連続性に関して、一つの見方を提示することを目指している。

 以下では、順に、ジャネ、発表者(プナン名:ブラユン)、ドム、ティマイ、発表者の一人称の表現による世界理解を示す。

◆登場人物リスト
・ジャネ・・・プナンの長老(1.の語り)
・ブラユン・発表者のこと(2.5.の語り)
・ドム・・・プナン人のハンター(3.の語り)
・ラセン・・プナン人のハンター
・ティマイ・プナン人のハンター(4.の語り)

1.長老ジャネの話、夜、狩猟キャンプにて

「よく聞いておきなさい。生きているもののうち人が捕まえようとしたときに逃げようとするものにはすべて魂がある。イノシシ、シカ、マメジカ、リーフモンキー、ブタオザル、テナガザル、マレーグマ、ジャコウネコ、ヤマアラシ、センザンコウだけでなく、地を這うもの(ヘビ)、サイチョウやスミゴロモなどの飛ぶもの(鳥)、泳ぐもの(魚)、トカゲやカエル、蟲でも、捕まるのを恐れて逃げようとするものにはすべて魂がある。魚には捕まえようとしても逃げないものもいるから、魂のないものもいることになる。要は、われわれ人だけではない、魂があるのは。だが、ジャングルのなかにいる吸血ヒル、あれには魂はない。捕まえようとするときにでもただただ血を吸うばかりで逃げようとはしない。ヒルは、枯葉から生まれてくると言われている。だからジャングルにはあんなにたくさんのヒルがいるのだ。それらは、次から次へと出てくる。ヒルには魂がないから、焼き殺そうが切り刻もうがかまわない。しかし、魂を持つ生き物に対しては、人はふるまいに十分に気をつけなければならない。人は魂を持つ生き物に対して、まちがったふるまいをしてはならない。子どもたちがよくそうしているように、狩りでしとめた動物と戯れるなんてもってのほかだ。プナンはしとめた動物はすばやく解体して料理して食べるだけである。そのさい、しとめた動物の本当の名前を口にしてはいけない。生きていてもすでに死んでいても、動物を前にしたら、その動物を別名(ngaran dua)で呼ばなければならない。belengang(サイチョウ)はbale ateng(赤い目) に、kelasi(赤毛リーフモンキー)はkaan bale(赤い動物)に、palang alut(ジャコウネコ)はkaan merem(夜の動物)にというふうに )。人がまちがったふるまいをすると動物の魂は天空へと駆けのぼる。すると雷神は怒って雷鳴を轟かせ大雨を降らせ洪水を起こして、わたしたちに禍をもたらすのだ。大水や洪水。場合によっては、雷神は人を石に変えたり、大地を真っ赤に染めるほど血を流したりする。赤土の大地は、そのようにして、人の血で染まったのだ。よく覚えておくのだ。動物の扱いには十分に注意せよということを。」

2.発表者の回想、翌朝、狩猟に出かける

  わたしは長老ジャネの言葉を聞いているうちに、うとうととし、そのまま蚊帳のなかに入って眠ってしまった。夜が明ける少し前に、男たちの放屁とそれをめぐる笑い声で目が覚めた。狩猟キャンプの朝は早い。朝6時前の夜が明ける前に男たちは起きていつ何時にでもこの場から立ち退くことができるように荷物をコンパクトにまとめる。それは古からの移動民のならわしだ。

 5人のハンターと彼らに同行するわたしは皆飲み物も食べ物もいっさい口にせず夜が明け始めた山道を駆け上がった。なぜ狩猟に行く前には何も飲んだり食べたりしないのかというわたしの問いかけに最年長の男はぽつりとそれが「プナンのやり方なのだ」と答えた )。わたしはもっとも近場のジャングルに入って獲物を探すというラセンとドムについてゆくことにした。

 ほどなく鬱蒼としたジャングルのなかに入った。ジャングルのなかに入り込んだ途端、わたしの脳裏にはプナンの神話世界が浮かんできた。この地上に何もなかった時代、蛙の神ジャウィが事物であれ生き物であれ、あらゆるものに名を付けた。蛙の神によってあらゆる事物や生き物が生み出された。まず言葉が先にあったのだ。その原初の時代、マレーグマだけに尾があった。見てくれがいいと他の動物がマレーグマのところに尻尾をもらいに来た。マレーグマは次々にそれを惜しみなく与えた。最後にテナガザルが来たときにはマレーグマにはもう他の動物に与える尾が残っていなかった。それで今日マレーグマとテナガザルにだけ尻尾がない。そのようにして神話のなかで、マレーグマは惜しみなく与えるという道徳規範をヒトに教えてくれたのである。そのころには、動物もヒトのように話し、ふるまっていた。ジャングルにはそうした神話の世界が息づいている。

 ジャングルを歩いていると前方の木の上で小動物のようなものがちょろちょろと動いているのが見えた。ドムはわたしにあれはリスだと教えてくれた。ムジサイチョウが高い樹々の上を飛んでゆく。はばたく雄大な羽音が聞こえる。樹上高くサルの類が葉をざわつかせている。それらは人間と同じように何かに反応して動く。魂をもっている。プナンはこうも言う。動物とヒトは見かけがちがっていても、それほどちがいはないと。解体してその内部を覗いてみるならば、動物も人間も同じように心臓 、脳、肝臓 をもっている。それゆえにクネップ=心をもっている )。その意味で、動物は、人間と同じように、再帰的な主体として現われる 。

3.ドムの狩猟行、昼、ジャングルにて

 その日は、ジャングルのなかにはイノシシシの真新しい足跡はほとんど見あたらなかった。遠くの峰からリーフモンキーの鳴き声が聞こえてきた。クゥオークゥオークゥオクゥオクゥオクゥオクゥオ。おれたちは、ジャングルのなかを歩いても歩いても、お目当てのイノシシには出くわさなかった。新しい足跡さえ見あたらない。ラセンとおれは、そのうちにイノシシではなくてリーフモンキーやブタオザルなどを狙撃しようと考えるようになった。ちょうど樹上の動物や小動物をしとめるための散弾も2発ある。われわれは下を向いて足跡を見て歩くよりも、樹上に目を凝らしながらジャングルのなかを歩き回るようにした。遠くでクロカケスがさえずっている。トゥアイトゥトアイトゥトゥアイトゥトアイトゥ。ジャングルのなかには陽射しは届かないので天空の様子は分からないが、どうやら雨が降るようだ。そうクロカケスが教えている。木の上で何かが動いているのを察知した。さきほど遠くで葉を揺らしていたブタオザルのようだ。距離にして、ここから200メートルほど先の樹上だ。ラセンは猟銃の筒に散弾銃を補填して、音を立てないように小走りで獲物がいるほうへと近づいて行った。ブタオザルの集団はどうやら危険を察知して、警戒しはじめたようである。ブタオザルはヒトが放つ匂いに対して敏感だ。甲高い声を上げて逃げようとする。樹から樹へと飛び移り始めた。そのときである。ドゥドーン。前方に一発の銃声が響いた。急いで駆けつけると地上からブタオザルがズドンと落ちてきた。散弾が何発か命中したのだ。見るとそのブタオザルのメスは血をたらたらと流しながら虫の息だった。それを見て、ラセンは、何のためらいもなく、即座に山刀の反対側で頭をコツンと強く叩いて息の根を止めた。もってきた籐の籠に獲物を畳み込んで、おれがその獲物を担いで帰ることになった。

  1時間くらいかけてジャングルを出ると、ジャングルの外は、クロカケスが教えてくれたように、土砂降りの雨だった。ブタオザルの魂が名前を呼ばれて怒らないように、おれたちはその獲物をウムンという別名で呼んだ )。ラセンとブラユンとおれは、その後しばらくして狩猟キャンプに到着した。5時間ほど歩き回って獲物はこのブタオザル一頭だけだった。狩猟に出かけた仲間のうちキャンプに戻ったのはわれわれ3人が最初だった。 おれはすぐに炭火で火を起こした。薪を割っているときに、そばにいたブラユンがカメラを取り出してその獲物を撮影しようとしていた。おれは手を止めて、それがよく写るようにと両手を持ち上げてポーズを取った。その様子を見て、タバコを吸っていたラセンはゲラゲラと笑った。おれは調子に乗ってその獲物にいろんなポーズを取らせた。ラセンとおれはしばらくの間笑い転げた。ブラユンはその間パシャパシャと写真を写していた。馬鹿騒ぎが一段落するとおれはその肉を解体して中華鍋のなかにぶちこんで、ブタオザルの肉のスープをつくった。

4.ティマイの唱えごと、夜、激しい雷雨のなかで

Iteu ulie amie padie melakau, puun ateng menigen, saok todok kat, selue pemine mena kaan, uyau, apah, panyek abai telisu bogeh, keledet baya buin belengang dek ngelangi
戻ってきたぞ兄弟たちよ、獲物はまったく獲れなかった、何も狩ることができなかった。嘘を言えば父と母が死ぬだろう。ブタの大きな鼻、かつてイノシシだったマレー人、トンカチの頭のようなブタの鼻、大きな目のシカ。夜に光るシカの目、ワニ、ブタ、サイチョウ、ニワトリが鳴いてやがる・・・!

  ラセンたちとは別の猟場に出かけたおれたち4人のメンバーは、獲物が得られなかったときのつねとして、動物に対する「怒りのことば」を唱えながら、手ぶらで狩猟キャンプに戻ってきた。朝っぱらから夕方までジャングルを歩き回って、結局、おれたちには獲物がなかったのだ。運がなかった。今日のおかずはラセンがしとめたブタオザルの肉だけだ。いや獲物があるだけましなほうかもしれない。

 ドムがつくったブタオザルの肉のスープをおかずにして、サゴヤシの澱粉を囲んで皆で食事をした。食事を終えて水浴びをしたころには陽はどっぷりと暮れた。小屋がけで蝋燭の火を灯したときに突然遠くで稲光がした。グォグォグォーン。つづいて遠くで物凄い雷鳴が轟いた。空を見上げると一面に低く雲が垂れ込めている。雷鳴は鳴り響いていた。雷神が怒っている。しだいに雷鳴の回数が増え、その音量が大きくなって、雷雨はこちらのほうに近づいてきているようだった。その瞬間、突風が吹いて蝋燭の灯が消えてしまった。まったくの闇の空間。天空をつんざく稲妻がわれわれに一瞬光を与えた。ドムがあわてて木の切れ端を寄せ集めて壁をつくって蝋燭に火を灯した。そのとき、大粒の雨が降り始めた。よりいっそうがなりたてるように轟く雷鳴。グォグォグォグォーン。土砂降りの雨と稲光。雷神の怒りはおさまらない。おれにはピンと来た。昼間、ラセンとドムがブタオザルにポーズを取らせてゲラゲラ笑ったというではないか。それがこの嵐と雷雨を引き起こしたにちがいない。ブタオザルの魂がラセンとドムのふるまいに怒って、天空の雷神のもとに駆け上がったのである。おれは髪の毛を引きちぎってそれを燃やしながら、雷雨のなかに飛び出して天に向かって唱えた。

Baley Gau, baley Lengedeu. Akeu pani ngan kuuk baley Gau, baley Lengedeu. Ia maneu liwen anah medok ineh . Mau kuuk liwen mau kuuk pengewak baley Gau baley Lengedeu. Ia maneu liwen Berayung gamban medok. Dom Lasen mala ineh maneu kuuk seli liwen. Pengah akeu menye bok mena kau baley Gau, baley Lengedeu. Mau kela baley gau, baley Lengedeu
雷神よ稲光の神よ。おれはあんた、雷神と稲光の神と話している。嵐を起こすのは、ブタオザルのせい。雷神よ稲光の神よ、嵐を起こすのを止めておくれ。嵐を起こすのは、ブラユンがブタオザルの写真を撮影したから。ドムとラセンがそれを笑って、そのことがあんたの気に障って嵐を起こしたんだ。おれはあんたのために髪の毛を燃やした。雷神よ稲光の神よ、止めておくれ!


  しばらくすると、その激しい雨は小振りとなり、雷鳴ともどもしだいにおさまった。

5.発表者の解釈、夜、寝ながら唱えごとを聞いて

   わたしは狩猟キャンプのなかで雨がかからないようにうずくまってティマイの唱えごとを録音しながら聞いていた。激しい雨音でよく聞き取れないが、祈願文のなかで、わたしの名前がひんぱんに語られている。どうやら、昼間の写真撮影でブタオザルにポーズを取らせてあざ笑ったことが、その嵐と雷雨を引き起こしたとティマイは考えたようだ。ドムとラセンとわたしの3人が、しとめられたブタオザルに対してまちがったふるまいをしてしまったのである。長老ジャネのいう戒めを破ってしまったのだ。ティマイは、ブタオザルの魂はその粗野なふるまいに腹を立て、天空へと飛び立ち、雷神が怒ってわたしたちに罰を与えたと推論したようである。

 プナンにとって、ブタオザルを含めて、動物は人間と同じように魂を持ち、人間と同じように心で怒りを感じる存在である。そこでは、動物と人間は「身体性(physicality)」は異なるが、同じような「内面性(interiority)」をもつ存在として捉えられている )。そのように、プナンにとって、動物と人間は、内面性(魂)を分かちもつ点で、きちっと切り分けられるような存在ではない。自然のなかでは、すべての現象や事物に平等の地位が与えられており、とりわけ、生き物に関しては、一頭の動物であれ一人の人間であれどんなものにも優先権はない。そういったことが、動物も人間と同じように魂をもつとプナンが言うことで示されているのではないだろうか。いずれにせよ、動物と人間の間に大きな違いはない。

 他方で、人間は動物を狩って、食べて生きてゆかなければならない。そのとき、人間にとって対象となる動物との間で、身体性と内面性に、どのような変化が起きているのだろうか。ここでは仮に、動物を殺して食べるという行動の背景には、人間と動物の間で、身体の物質性の点では類似しているが、内面性については異なる(=魂を認めない)という見方が成り立つと考えてみよう。動物を人間と同じ魂をもつ存在と見なしていては、人は、日々動物を殺害することに抵抗感を感じるはずだ。したがって、自然主義に拠りながら、人間と動物には魂の連続性はないという見方をベースにして、人間は、道具と技術を用いて、一方的に、動物を殺害し、解体・料理して食べることが可能になる。言い換えれば、人間が、獲物である動物に対面する場合には、動物と人間の魂の連続性が断ち切られ(=内面性が分断され)、動物が人間にとって操作と加工の対象(=死せるマテーリア)となる。

 しかし、はたして、プナンにとって、動物と人間の魂の連続性(=内面性の類似)という価値は、狩猟から食へのプロセスにおいて、魂の非連続性(=内面性の違い)へと変更されるのだろうか。どうやら、そう単純なものではないようである。プナンはよく、獲物はすばやく解体・料理しなければならないという。その間に、まちがったふるまいをして、魂をもつ動物を怒らせないためである。また、獲物を前にしてその動物に言及しなければならない場合には、プナンは、その動物の名の代わりに別名を用いて動物を怒らせないようにする。そうした諸規範の実践をつうじて、動物と人間の魂の連続性の価値それ自体は、いっこうに変更されることがない。つまり、プナンは、動物と近接しなければならない場合において、決められたふるまいをつうじて、動物と人間の間に魂の連続性があること、すなわち、それらが内面的に類似しているという原則を維持しようと努めているように見える。

 別の角度から述べれば、プナンは、動物と人間の魂の連続性という大原則を揺るがせにしないために、動物をあざ笑ってはならないであるとか、獲物はすばやく解体料理しなければならないであるとか、種の名前を呼んではならないというような、動物に向き合ったときの禁忌実践を複雑に発達させ、動物と人間の間の近接を禁じてきたのである。そのように理解すれば、プナン人たちは、そうした存在論の底に、人間と大部分の間(多くの動物を含む)は、同じように再帰的な主体であることを認めているという事実が浮かび上がる。

 最後に、こうしたプナンの人間と動物をめぐる民族誌には、自然と社会の二元論思考を再検討する上で、いったいどのような意味があるのだろうか。いましがた述べたように、プナンにとって、人間と動物は、ともに魂をもち、内面的に類似している。そこでは、魂をもつことにより、人間と間が同じ主体的存在、一つの主体として立ち現われる。その主原則が大きく崩れることがないように、動物をめぐる禁忌が行われ、人間と動物の近接が禁止されていた。そうした考え方は、部分的に、ヴィヴェイロス・デ・カストロのいう、「単一の文化、多数の自然」から成る「多自然主義(multinaturalism)」の考え方に近いものである )。

 多自然主義は、人間と間が等しく主体=文化であることをベースにして、「単一の自然、多数の文化」から成る「多文化主義(multiculturalism)」という知の枠組みの組み換えの可能性に開かれている。多文化主義とは、自然という共有世界を想定し、文化は多様だとする、欧米近代に主流の考え方である。そこでは、身体と物質の客観的な普遍性が確認された上で、精神と意味の主観的な特殊性が確認される。それに対して、多自然主義では、文化あるいは主体が普遍の形式であって、自然や客体が特殊の形式となる。「西洋の多文化主義が公共政策としての相対主義なら、アメリカ先住民の観点主義者のシャーマニズムは、宇宙論的なポリティクスとしての多自然主義である」 。多文化主義では、それぞれの文化の主体である人間同士が交渉し、一方、多自然主義では、人間、動物、精霊などがそれぞれ主体的存在として社会宇宙を構成し、交渉にあたる。

 自然と社会の二元論思考は、単一の自然を想定し、社会を構成する人間主体だけに精神を与えてきた。これまでのところ、人間だけに精神を与えるような考え方を批判的に乗り越えるために、人間と間を同位のアクターとして位置づける理論が提起されてきている。そうした理論的課題の検討状況の進行を見やりながら、人類学者はこれまで、多文化主義から出発することで、そのバイアスによって、人間と間が、同じように主体であるような多自然主義的な状況について語りうる方法をもち合わせてこなかったのではないだろうか。民族誌に基礎を置きながらこうした問題に取り組んできた、ヴィヴェイロス・デ・カストロやデスコーラらの議論に合流しながら、人間と間を同時に再帰的な主体的存在であると捉えるような人びとの民族誌の詳細な検討をつうじて、自然と社会の二元論思考を問い直すための議論だけでなく、そのおおもとのところにある西洋思考の再検討の議論にも接近してゆくことが、今後に残された課題である。

第44回日本文化人類学会(
立教大学)分科会(2010.6.12.)
「自然と社会の民族誌:動物と人間の連続性」 (代表:田所聖志、東京大学&奥野克巳、桜美林大学)のうち、奥野克巳「ボルネオ島狩猟民プナン社会における動物と人間~近接の禁止と魂の連続性~【エピソード・ヴァージョン】」の発表原稿



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ここ数週間、あらゆる事柄を後回しにして、われわれはまるで恋人同士のように空いている時間を見つけて、自ら本番前に燃え尽きてしまうことを望むかのように、むさぼるように読書会や勉強会を開いてきた。いまとなっては、たまりにたまった仕事などのことがやや気にかかるが、昨日、われわれのパネルは、なんとか終了した。3時間にわたる長丁場。事前に何度か予行会をやってみて、内容が複雑多様で、一貫性に欠けるのではないかという課題が浮かび上がり、民族誌というキータームを軸に再調整してきたのであるが、そんなことはさておき、昨日のパネルの熱まだ覚めやらぬ状態で、批判やコメントの断片、個人的な感想などを幾分ごた混ぜにして書き留めておきたい。まずは存在論について、それは文化という概念が少々分かりにくくなってきていることに対するオルタナティブとして提起されたという指摘。われわれはその用語を用いてパネルを組み立てた。「プナンが動物に魂がある」という伝聞調は存在論ではない。それは表象である。「プナンにとって動物には魂がある」という言い方が存在論なのではないか。ところで、動物と人間の連続性を問題とする分科会の全体をつうじて、われわれは自然と社会を切り分けた上で、人間を自然物へと投影するような、タイラー流のアニミズムの枠組みから一歩も外に出ていないのだろうか、いや、意図としてはその点を突き抜けることにあったのだが、そう見えなかったのだとしたら、われわれの試みは、遺憾なことに、まだまだ出発点に達していないことになる。しかしながら、われわれの試みが、静的な対象の分類という、こういった問題を論じる際に取り上げられるような行き方ではなく、働きかけや交渉に焦点を当てながら組み立てられていたということに対する評価には、たいへん勇気づけられた。加えて、エスノグラフィックな描写のあり方を、最近小説を書いた迫力のある先生から評価された点についても、われわれは同じく励まされた(「剽窃しないように自ら注意したい」と言われていた)。しかしながら、人間と間の連続性というテーマを、近年、西洋の自然科学だけでなく人文科学もまた強調する傾向があり、デスコーラやVdCなどを多用するやり方は、日本のアカデミズムの欧米植民地状況を示すものであり、それに対して、人間と動物の連続性に関しては、日本国内にも数々の立派な蓄積があるわけで、それらをネグレクトするのには不信感を抱いたという指摘は、じつにもっともな話であると思った。さらには、これまでの予行会でも、複数の人たちから指摘されてきたことではあるが、<動物と人間>に<自然と社会>の代表権はあるのかという問いは、無生物を取り上げるべきだという、今回フロアから提起された注文へと直結する。それもまた、もっともな話だと思う。動物と人間だけでは、自然と社会は語れない。全体をつうじて、わたしは、一方では、VdCの試みに関する理解が、まだ十分に行き届いてないのではないかと思った。多自然主義やパースペクティヴィズムは、まだアカデミズム内での市民権を得ていない。第一に、そうした点をよりいっそう深める必要性を感じた。他方では、対象への感情移入、間のなかの精神・魂というようなものの人間側の読み取りに関して、わたし自身が、まだ十分に汲み尽くせていないことを痛感した。まずは、それらに挑むことから、再出発するべきなのかもしれない。ゴールは、そんなものがあればの話であるが、カーブの向こうのトンネルのまだずいぶん先である。
http://www.jasca.org/meeting/44th/proceedings.html#1h
http://www.jasca.org/meeting/44th/H-02_H-071.pdf
今日はこれから、別の研究合宿に出かける予定。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先週の金曜の夕方のことである。車を走らせていたところ、数台前の車から次々に車が大きく右に迂回して何かそこにある物を避けていたが、やがて分かったのは、それが道路に投げ出された猫の死体だったということである。歩道には10人ばかりの子どもたちがいた。何をしているのか分からなかったが、数人の子どもたちは、大きな声で笑っているようだった。轢死した猫と莫迦笑いする子どもたち。全くちぐはぐな、ぞっとするような光景であった。しかし、そのとき感じた違和の原因を確かめなかった、いや、確かめることができなかったため、わたしにとっては、それが現実であったのか、わたしの事実誤認であったのか、そのあたりが今となってははっきりと分からない。記憶というのは、じつにあやふやなものだ。さきほど、先週土曜日の研究会で読んだ、デスコーラの「自然と文化を超えて」(Descola, Philippe 2006 "Beyond Nature and Culture)を取り出して、まとめ直そうと眺めていて、論文の細部の記憶がすでに大きく抜け落ちてしまっていることに気づいて、ついでに、その前の日の記憶を辿り直してみたのである。ほんの数日前の記憶でさえ、どんどんと失われてしまっている。それでもなお、もがきながらも、デスコーラの論文について、まとめておきたい。

その論文を読んで分かったことのひとつは、パースペクティヴィスムとはアニミズムの一種だということである。少なくとも、デスコーラはそう考えている。考えてみれば、ごくあたりまえのことである。
VdC(ヴィヴェイロス・デ・カストロ)は、アメリカ先住民のパースペクティヴィスムにおいては、<見る>ことによって主体が生み出され、その意味で、人間も人間以外の存在(精霊、動物など)も、自らのことを意識する(再帰的な)主体となりうるという。興味深い民族誌データを揃えた上で、VdCによれば、アメリカ先住民たちは、主体=文化が単一であると考えている。VdCによって、こうしたパースペクティヴィスムは、「単一の文化、複数の自然」(文化が誰にとっても共通のもので、自然が多様であるとする考え方)へと、スリリングなかたちで高められているように思う。それに対して、デスコーラによるパースペクティヴィスムに対する反論は、高い志に貫かれているようなものではない。そういうふうに読める。デスコーラは、たしかにパースペクテヴィズムというようなものはあってもおかしくないが、それは、世界内存在との関係を、身体性(物質面)においては分断しており、その一方で、内面性(魂)においては類似している、アニミズムを複雑化させたもので、民族誌データによっても保証されない理論立てを用いて、アニミズムについて考えるのは行き過ぎだという。若干、拍子抜けしたような印象を受けた。デスコーラは、ジャガーは、自らを人間であると捉えているが、他の動物が自分のことを人間であると考えていることに照らして、ジャガーも自分自身を人間ではないということに気づくということがあるのではないかというような、ちょっとなんだか分からないようなかたちでのパースペクティヴィスム批判を展開している。

次に、デスコーラは、対象と身体性と内面性を分かち合い、一体化するようなトーテミズムに関して取り上げている。研究者たちは、
トーテム動物やそれとの関係に眼を奪われてきたが、身体性と内面性に関して、トーテミズムをもっている人たちは、より精密なかたちで、動物と人間のつながりを描写しているのだという。また、デスコーラが1996年の論文では取り上げていなかった類比主義については、以下のようなものだという。すなわち、結合する諸関係が最初に想定されていて、それを探し出す力を用いて、脆弱な要素を編成することだと。最後に、自然主義とは、17世紀のルネッサンス期の、原因がなければ何事も起こりえないというような秩序と必然性の場としての自然科学の出現だけでなく、その後、19世紀に、そのカウンターパートとして立ち上がった、社会人文科学をも含むものなのだという。そうした西洋思考の主要な流れは、今日では、「単一の自然と、複数の文化の共存」という考えへと結晶化してきている(このタームは、ラトゥールから引いてきたのかもしれない)。自然主義とは、内面性において非連続的である一方で、身体性において連続的であるような、対象との関係に基づく思考のあり方である。

その後、デスコーラは、これらの「4つの同定化の様式」が、それぞれ排他的でなく、時と場所に応じて可変的なものであるという点に触れた上で、人間と間が、それをとおして現実を感知し解釈する枠組み(=4つの様式)のことを存在論と呼ぶと述べている。デスコーラは、
存在論が作動する基盤として、「社会」の概念に代えて、「コレクティヴ」という概念を提起している。社会は、人間だけに関わる存在と規範についての独立した領域であり、社会的であることが説明されなければならない。コレクティヴの概念を提起した上で、ふたたび、4つの同定化様式を、人間と間を含みながら再検討しようとしているのではないか・・・続く。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




①.「自然」というカテゴリーに言及した瞬間、そのカテゴリーは、自然に対する対概念として立ち上がるがゆえに、自然と文化の二分法を強化することになる。したがって、ヴイヴェイロス・デ・カストロ(VdC)は、文化とは精神(超自然)の現代の名前なのだという。この問題は、アニミズムへと接続される。結局のところ、タイラー流のアニミズム(およびその延長線上に位置づけられるデスコーラのアニミズム論)は、まずは、文化(人間)と自然を切り分けた上で、人間のもつ精神(魂)を人間以外の存在に投影しているという点で、問題含みである。人間の社会性を人間以外の事物に投影するものとして解釈されるようなものとしてのアニミズムは、喚喩(隣接しているもの)の隠喩というほどのことにすぎないのだ。こうしたアニミズム批判は、VdCによって、デスコーラのアニミズム理解に対して与えられたものであると理解することができよう。→2006年のデスコーラの論文には、VdCのこの点に対する反論が行われているようである。

②.観点(見方)というのが対象を生み出すというようなソシュール的な理解(=主体がまずいて、そのことによって観点(見方)が固定される)に対して、アメリカ先住民の観点主義では、観点(見方)こそが主体を生み出す。そこでは、観点(見方)によって活動がなされるものであればどんなものであれ、主体となる。だから多くの社会で「人」を意味する語は、たんに人によって使われるのではなく、イノシシやホエザルやビーバーが自らを言及するときに、「人」という語が使われることになっている。それは、人というよりも、人格と呼んだほうがいいものなのかもしれない。そのようにして、アメリカ先住民社会においては、人間以外の存在は、人間と同じように見ている(という意味で再帰的な主体なのである)のだが、いわゆるその意味における「人」が見ている「もの」がまちまちである。わたしたち人間にとって血であるものが、ジャガーにとってはとうもろこしのビールに見えるし、わたしたち人間にぬた場のように見えるものが、イノシシにとっては大きな儀礼小屋なのである・・・続く。

以上、本日の研究会の粗雑なまとめとして(VdC, Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism, Animism-the first part of Multiculturalism)。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




いったい、何年ぶりだろう。昨日、もう数年訪れたことがないかつての学舎に、研究会(パネルの予行会)のために出かけた(写真)。雨が降って肌寒い土曜の夜、その街は、人が多くもなく少なくもなく、心地よい雰囲気を発していた。酒を飲み、酩酊のうちに。冷めないうちに書き留めておきたいことがある。研究について。

第一に、「自然と社会:動物と人間の連続性」というパネルのタイトルは、繊細さに欠けるという指摘がなされた。動物と人間を、そのまま自然と社会に置き換えられるのかという問いと同時に、連続性、連続的なるものという不確かな事柄がどれだけ語られているのかという指摘は、全体をつうじて、そのとおりかもしれないと思う。

第二に、その点にも関わるが、デスコーラに収斂する議論の問題。デスコーラの図式はひじょうに静的なもので、社会学のパーソンズ的な図式ではないのかという見方については、再検討しなければならないだろう。また、ヴィヴェイロス・デ・カストロではなく、なぜデスコーラなのかという点が説明されなければならない。さらには、ラトゥールに触れていないのはなぜなのか。彼を無視する積極的な意図が説明されなければならないとされた。いずれにせよ、わたしたちの議論のベースをなしているデスコーラ。彼のモデルの評価について考えなければならない。

第三に、自然と社会の二元論を反省する上で、存在論という枠組みを用いても、結局、文化を語ることへと回収されてしまうことに対する危惧がある。存在論、認識論、文化の問題。そういった議論の先に、人類学の近年の存在論者たちが見ている大きな批判の枠組みを見渡さなければならない。
それは、相当重いテーマである。

第四に、自然と社会を語るために、なぜ、デスコーラやヴィヴェイロス・デ・カストロが参照されなければならないのか、そもそも、その積極的な理由は何なのかという点についても考えておかなければならないのかもしれない。
デスコーラは、マルクス主義的な観点から出発して、その後、存在論へと至った。その経緯についても、押さえておく必要があるのかもしれない。

わたしたちは、限られた時間のなかで、早速、次の集まりの日取りを決めた。来週の月曜の朝から、ヴィヴェイロス・デ・カストロの存在論を探り、ラトゥールを読むことにした。とりあえず、大急ぎで。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日研究仲間で読書会をやった。その後に別のメンバーも加わってスカイプで議論をした。内容は全体的には覚えているが、細かい点は記憶が蘇ってこない。なぜか。12時間近くにわたって食を忘れて没頭したせいではあるまいか。長い間やりすぎて効率が、著しく低下したにちがいない。パネルの前にすでに議論でヘトヘトに疲れてしまっているような感がある。いったい何を得たのだろうか。その点を整理しておかなくては、今後は、なおさらのこと思い出せないのかもしれない。Viveiros de Castro のCosmological Deixis という論文を、ほんとうに理解しているのかというのが出発点であった。再読であるが、以前本当に理解していたのかどうかきわめて怪しい。それだけ含蓄の深い論文である。途中までしか読み進むことができなかったが、大きくまとめるならば、相対主義とか普遍主義というような文化をめぐる議論は、西洋のある見方を踏まえて行われているというようなことが述べられている。それは、一つの自然があり、多くの文化があるという「多文化主義」の考え方である。アメリカ先住民は、これとはまったく逆に、文化は普遍的なものであり、自然が多様なかたちで現われるという(「多自然主義」)。西洋思考では、文化を一つ一つ区切って、その間の交渉が行われるというような事態が起きる。その上に、相対主義とか普遍主義というような議論がなされている。しかし、アメリカ先住民の世界では、そういったことはありえない。多自然主義者たちは、多様なかたちで存在する精霊や動物と交渉する。いわゆるコスミック・ポリティクスが行われるという。また、この論文を読んで、ヴィヴェイロス・デ・カストロが、それ以前に出たデスコーラの論文の「自然を対象化する三つの様式」を批判し、それに応じて、デスコーラが修正を加えて、「同定化の四つの様式」を提起したのではないかということも分かった。「存在論」に関してもわれわれは議論をした。それは、基本的に、実践を伴う。さらに、そのタームの使用には、より強烈なクリティシズムの匂いが嗅ぎ取れる。社会や社会的なるものが、西洋においてつくりだされた概念であり、わたしたちは、それを疑ってみることはないが、デスコーラの存在論の「同定化の四つの様式」は、社会という大きなくくりにおいては作動しない。その可変的なモデルは、コレクティブというより小さな集合において考えることができる。そういった意味で、存在論というタームは、既存の概念やそれを生み出した西洋思考に対する何らかの挑戦であるのかもしれない。荒っぽいが、備忘のために。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




かつて非常勤講師をやっていたことがある大学で行われた(特に名が付けられていない)研究会に出席してきた(キャンパスは、以前は隅々にまで手入れが良く行き届いていたが、昨今のコスト削減のためか、少し荒れている感じがした:写真)。ちょうど一年間続いた<自然と社会>研究会を引き継ぐかたちで、有志によって、フィリップ・デスコーラの『自然の社会で(In the Society of Nature)』の読書会が立ち上げられたからである。参加者の主要な関心は、デスコーラの2006年の「自然と社会を超えて」で提起されている<存在論>そのほかの議論へと至る、いわば出発点である1986年出版の、博士論文をベースにしたエスノグラフィーの読解にあるように思えた。その20年の間に、デスコーラは、どのようにして、新たな理論枠組みを提起することへとたどり着いたのか。原点へと立ち戻るならば、その着想の芽を見出すことができないだろうか。どうやら、そんなところに、この読書会の趣旨はあったようだ。デスコーラが、アマゾニアのアシュアール・ヒバロでフィールドワークを行ったのが、1970年代の後半のこと。彼は、1980年代前半にもてはやされた<象徴形態論>(自然をその上に観念が行使される対象として見る)、さらには、<生態学的還元論>(あらゆる文化の表れを自然の「自然な」作用の兆候として説明する)のどちらかの一方の立場に与することに抵抗して、象徴(=観念)と技術(=物質)の間のダイナミックな相互作用の観点から、近代文明から隔絶して、周囲の自然環境とともに生きるアシュアールのエスノグラフィーを試みたようである。「一般的な序」の冒頭で述べられている、自然に関する見方は、後の『自然と社会』(1996)の問題意識を先取りしているように思える。その見方の一つ目は、①自然を社会のもう一つの生きた片割れとして見るものであり、そこでは、宇宙がそれに語らせる人びとの幻想的な声をつうじて物語を語る。もう一つの見方は、②自然を人間行動の領域の外部で起きる一連の現象であると見るものであり、数式化に従属するような寡黙なフュシスだという。デスコーラは、その二つを同時に結び合わせることができるのが人類学者の特権であるというような言い方をした後で、面白いことを言う。前者、すなわち、所産的な自然観を有するのは、合理主義的な伝統に固執し続ける人であり、後者、すなわち、能産的な自然観を有するには、エキゾティックな思考体系のがまん強い学習者にならなければならないと。わたしたちは、忍耐強く、先住民社会の人たちの声に耳を傾けるならば、風や鳥が何かを語っている人びとが言うことが、じつは宇宙がそのことを言わせていることにほかならないと気づくようになるというのだ。なかなか面白い指摘である。この部分は、研究会の後半で取り上げられた、<存在論的遭遇>の議論ともリンクしているように思える。存在論を、可変的な<コレクティヴ>(=諸人格がある集合体につながれているあり方)の対象の理解の様式であると捉えるならば、忍耐強く観察すれば、その同定化の様式が、時と場所に応じて、ずれてゆくのである。しかし、それは、<存在論的遭遇>にはちがいないが、イデオロギーの「改宗」というような事態と似ていなくもない。<コレクティヴ>という概念は、<社会>という概念に代わって提起された、それに代わる新たな概念である。デスコーラが説くように、<社会>という概念は、邪魔だし、厄介なのかもしれない。大雑把に言うならば、ある<社会>の特性なるものが、不変的なものとして表象されるが、それは、学問が生み出した、その意味で、バイアスがかかった概念の可能性がある。社会的現実は存在論的現実に従属しているのだと、デスコーラはいう。また、加えて、ここでいう存在論は、つまり、デスコーラの存在論は、もう一人の論者ヴィヴェイロス・デ・カストロの存在論とどうちがうのだろうか、また、どの点で同じであるのか。そのあたりも気になり出してきた。とりあえず、荒っぽい個人的な覚書として。



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




唐突ではあるが、わたしは道によく迷う。歩いても車でも、道をよくまちがえる。人生の道も、かなりまちがえていると思う。しかし、ふと想う。道とは何ごとか。ある特定の場所がある。道とは、そこに行くための空間である。あるいは、家がある。その隣に家を建てる。その二つの家の前には、あるいは二軒の家を結ぶ道ができる。そのようにして、建物があってはじめて道ができる。もともと道などなかったのだ。場所と場所を結ぶものとして道ができたのではあるまいか。道路地図なるものを、いったい誰がいつ作ったのだろうか。方位をベースにしながら、上を北に下を南に、右を東に左を西に。建物や事物などが、その配置図のなかに位置を占めるようになる。わたしたちは、鳥の眼によって、その地図を眺める。A地点からB地点へと地図の上を移動するように、実際の空間を、道をつうじて移動するのだ。そういったことをやっている鳥になったわたしたちは、じつは、ずいぶんと滑稽なことをやっているのではあるまいか。狩猟民プナンの歩き方、位置取りの仕方を見ていると、そういうふうに思える。彼らの歩き方の基本は、目標物があれば、それに向かって一直線に進むというものである。一途である。障害物があったとしても、山刀で叩き切り、最短距離を進む。もちろん、プナンには方角・方位はない。鳥の眼をもたない。あくまでも、人間の眼をもって、直線距離を進もうとする。そこには、徹底して、道はない。道はそのときできたとしても、すぐに植物が繁茂し、存在しなくなる。では、彼らは、いったいどのようにして、自分の位置取りをするのだろうか。彼らは、もっぱら川の上下(上流と下流)を意識しながら、自分の居場所を測りながら、位置取りをしている。大きな川に注ぎ込む小さな幾つもの川。ブラガ川に注ぎ込むアレット川とクレンゴット川。いま自分は、アレットとクレンゴットの間を上流のほうに向かっていて、これからクレンゴットを越えて対岸に出ようとしているというふうに。位置取りはするものの、ジャングルのなかに道があるわけではない。人が通った跡は、数日で消えてしまう。さらに、プナン語の道は、マレー語からの借用語である。野鶏の通り道があるという言い方は、プナンはしない。このあたりを野鶏が通るかもしれないので、罠を仕掛けるという言い方をする(写真は、罠猟)。はたして、道とはいったい何なのか?道というものが、あらかじめ人間世界に存在していたわけではないのだろう。できの悪い道論として。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




自然環境保護思想の高まりの果てに、生物多様性をビジネスチャンスと捉え、日々、"エコ"であることをいいことのようにお題目として唱えるような滑稽の時代に、そもそもの根源にある<自然>に関して、それに向き合う<人間>を含めて、圧倒的に外部的かつ根源的な、憂いに対する批判の先に建設的な見通しのある研究の方向性は、人類学において、どのようにしたら可能かという問い。わたしたちの研究(「自然と社会の民族誌」)の根元のところにあるのは、そういった問題意識である。昨日、研究会というよりも、研究談話会というような内容の会をもった(写真は、東大キャンパス)。以下、その概要の個人的な覚書である。

今日の現実世界にヘゲモニックに浸透する、<自然>に関する共通した、あるいは共有される傾向にある<自然>観がある。人類は、荒ぶる獣たち、緑の魔境だったはずの密林などに果敢に闘いを挑み、それらを制圧し、さらには、手軽な加工対象に変えてきた。<自然>は、人間によって、大禍を伴う畏怖対象から死せるマテーリアへ、
能産的なものから所産的なものへと変工されてきた。わたしたちは、まずもって、ヨーロッパとして一くくりにされる地球上の一地域の人たちによって培われてきた、そうした知性の発展の水脈にあたらねばならないだろう。それは、やがて、ヘーゲルによって精度を高められて、それ以降の人類が参照する、もっとも頼りになる思考を形づくるようになったからである。世界中で日の目を見た、科学主義や客観主義につながる、そうしたギリシャ神話のアポロン神的な思考に対して、ヨーロッパのなかでも、より人間の情念に根ざした陶酔的・熱狂的だという意味で、ディオニソス神的な思考の系譜もまた存在する(ニーチェ以降の哲学)。

もし、人類学が、人間の感情や芸術に接近することに重心を置くと言う意味で、
このディオニソス的な系譜に連なるのだとすれば、人類学もまた、ヨーロッパのアポロン的な思考だけが唯一無二のものではないことを人類の思考形態の多様性のうちに示してきたことになる。そうした作業の体系化が、デスコーラやヴィヴェイロス・デ・カストロというアングロサクソンではない民族誌家によって、南米アマゾニアの先住民のフィールドワークから生み出されてきている。彼らは、非西洋の人たちの<自然>をめぐる態度や思想を掘り起こし、非西洋のもののほうが、西洋形而上学に基づく理法よりも優れている、あるいは、ましであるというような、価値判断に基づくモデルを提起しようとする意図を持ち合わせているのではない。デスコーラによる存在論のモデルの提示は、人類社会の行く末に反省を促すより意義深いものである
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/3de5d7671fd49016a1f34209629148ea
「フィリップ・デスコラは自己が環境や他者などの様々な非自己を経験するのに社会が用意する説明やその組織化を、四つのタイポロジーによって考察しようとしている・・(中略)・・この理念モデルは、もともと彼が調査した南米のアチュール族の『人間と動物』観(ト-テミズム)を再考するために考察されたものだが、近代科学的世界観を現実理解の総括的・最終的枠組みとして特別視する考え方に反省を促すものになりえている」(出口顕、三尾稔編『人類学比較再考』pp.6-7, 2010, 国立民族学博物館)。



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




分科会「自然と社会の民族誌―動物と人間の連続性」
http://www.jasca.org/meeting/44th/index.html
キーワード:自然と社会、人間と間、連続性/非連続性、
存在論、民族誌

17世紀の近代科学の黎明期に、それまでは自然のなかにあるとされていた諸性質が自然から分断され、人間の精神の側に帰属させられるようになった。自然は、目的的理性をもたない、死せるマテーリアとなったのである。こうして、自然を人間の外なる存在とする自然と社会の二元論が生まれた。

この自然と社会の二元論は、西洋哲学に、より強く人間の精神思考の枠組のみを問うことへの根拠を与えるようになった。その結果として、今日の西洋哲学は、精神を有する存在は人間だけであり、人間と間の間の質的な断絶、すなわち、人間と間の間の非連続性を強調する傾向がある。

他方、20世紀後半の自然科学の進展は、このような西洋哲学の人間観に対して新たな問題を提起しようとしてきた。人間と他の霊長類との類似性を示した霊長類学、ロボットに自意識や理性や想像力や道徳的感情をもたせようとする人工知能研究、ゲノム解析によって人間と他の生物との遺伝子レベルでの共通性を解明した遺伝子研究などは、人間と間が本質的には、同じであると主張することで、人間と間の間の境界をぼやかし、それらに対する連続性を見出す眼差しを打ち立てようとしている。

間と人間の峻別といった、自然と社会の二元論思考の内包する問題が指摘されたのは19世紀末であり、決して新しくはない。しかしながら、そうした二元論への信念は、簡単に乗り越えることができないほど根深かかったのである。あくまでも動物などの間とは本質的に異なるとされていたからである。

現在、注目すべき取り組みが、生態心理学においてすでに始まっている。アフォーダンスという知の組み換えをつうじて、わたしたちを取り巻く環境の記述が試みられているのである。生態人類学は、自然と社会をめぐる非連続性に基づく従来の二元論思考において注意が向けられなかった、隙間や穴といった環境の存在論に注目し、自然と社会の連続性のもとに現われる日常の生態を描き出そうとしている。

近年、人類学でも、自然と社会の非連続性とは異なるコスモロジーをもつ人々の民族誌を描き出すことをとおし、西洋の二元論思考が抱える難題に挑戦する研究者たちがいる。デスコーラによれば、南米・アマゾニアのアシュアル社会は、人間と動植物が同じ規則に従う「自然の社会」であり、そこでは、西洋において自明的に想定されるような人間、動植物、精霊などの明確な弁別がなされないという。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、アメリカ先住民の存在論では、人間と間は、一方で、諸存在が互いに異なる身体をもつという形而下の非連続性によって、他方では、諸存在が互いに意思疎通が可能であるという形而上の連続性によって結びついていると述べている。このような民族誌研究をつうじて、人間と間、自然と社会の構成要素が緩やかに連続し、和合している状況が明らかにされてきている。 

本分科会では、自然と社会の二元論の乗り越えの試みをさらに発展させるために、こうした理論検討と民族誌記述を手がかりとして、人類学の観点から、自然と社会の非連続性と連続性をめぐる問題提起を行う。  

取り上げる内容は、以下の通りである。
①民族誌的な存在論の可能性と意義に関する理論的考察、②日本の神経生理学教室の実験室でなされる研究活動に内在化された自然と文化の二分法をめぐる問題の検討、③ボルネオ島の狩猟民における人間と動物の魂の連続性をめぐる民族誌、④チベット仏教社会において動物個体に対して行われるツェタル儀礼に見られる自然と文化の連続性をめぐる考察、⑤ニューギニア農耕民の内水面漁撈の技術から見える魚への人間性の拡張。 

自然や環境、生態をめぐる人類学の調査研究の多くは、幾つかの例外を除き、自然と社会の二元論に基づく視点からなされていた。それに対して、本分科会が目指すのは、デスコーラが取り組むような、諸存在をめぐる諸関係のなかから立ち現われるような「諸関係の一般生態学」への展開への意識である。本分科会では、自然と社会を取り扱うために、文化人類学が主題とすべき問題を再定義し、自然や環境や生態を語るこれまでにない視点を提起したい
(c)田所聖志(東京大学)、奥野克巳(桜美林大学)(20091130、一部改訂)

(写真:キャンプで寝るときには枕にもなるマイザック)



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




自然と文化の問題を考える過程で、昨年の研究会のなかで話題となった、ウィリアム・ワイナー監督の映画『コレクター(1965年)を観た。

テレンス・スタンプ演じる蝶の収集家であり主人公の青年男性は、恋愛感情を抱いた女性を、自らの愛を受け入れてもらうために、4週の間、地下室に軟禁する。この男は、たんに愛欲に突っ走るのではなく、彼女に敬意を払って、客として迎える。しかし、終身刑さえも覚悟したこのやり方は、その意味で熱情的であるともいえるが、どうみても、事の始めから、かなり歪んでいるように思える。

軟禁された女性の青年に対する嫌悪感が消えることがないまま、やがて二人の間に連帯感のようなものが生まれ、女は男に抱かれようとするが、男は、その行為を、女が軟禁を解かれたいための芝居だと言い張り、その「偽」の愛を拒絶する。そうした屈折した感情の表現は、女に、死んで軟禁を解かれるしかないのだという諦念を含む情動を引き起こし、男を叩きのめすための行動を取らせることになる。その事件がきっかけとなり、やがて、女は病死する。埋葬を終えた青年は、収集対象となる別の女を物色するようになる・・・

一方的な愛の感情の歪みが、映画の全編をつうじて描かれていることに強い印象を受ける。そのため、中沢新一が、『くくのち』のなかで取り上げた、レヴィ=ストロースが『構造人類学2』において明らかにした、『コレクター』をめぐる解釈を認めることには、一見すると、かなり飛躍や距離があると感じられる。

レヴィ=ストロースは、『構造人類学2』において、主人公の青年男性と軟禁される女性を一つのコントラストにおいて捉えようとしている。男は、非社会的で、倫理的に倒錯した存在として、女は、上流クラス出身の文化を体現する存在として描かれているという。映画のなかで、彼女は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の熱心な愛読者であり、ピカソのキュービズムの愛好者であるが、その嗜好を、男はクズであるとして、徹底的に忌み嫌うシーンが出てくる。

この点について確認したすぐ後に、レヴィ=ストロースは、以下のように、驚くべき見方を提示している。

健康的な態度というのは—合法か違法かはさておき—むしろ青年の側にあるのではないでしょうか。彼の情熱は、現実のものに、昆虫であれ美少女であれ、美しい現実の生き物にささげられているのです。これにたいして、人工的な現代の趣味は、画集のなかだけに生きているようなヒロインに象徴されるものになっています[Levi=Strauss, Claude Structural Anthropology 2 p.179、日本語訳は、中沢『くくのち1』p.70]。

中沢によれば、青年は、「画集のなかに切り取られた自然よりも、肌を雨がぬらし風が頬をなでていくようなじっさいの自然を、人がつくったものではなく、自然あるいは神がつくったものを深く愛している」一方で、女のほうは、「自然から切りはなされた生活と趣味をもち、自然をもともとあった場所から切りはなして、それを表現の内部で操作していく、ピカソに代表されるような高級な現代芸術の趣味を生きている」[中沢『くくのち1』p.70、74]という。

完全なる逆転。レヴィ=ストロースは、自然への愛が、青年の心にひそんでいるがゆえに、健康的なのだと言うのである。現代文明の諸々の制約のもとで、自然をめでる心が、たまたま蝶や美しい女性の収集へと向かったとでもいうのであろうか。

レヴィ=ストロースの後を追うようにして、中沢は言う。「レヴィ=ストロースはここで、現代の文化的趣味の核心部分にたいして、宣戦布告をおこなっているのだ・・・私たちは、自分を蝶のコレクターであるあの青年と同じ場所に置くことができなければ、いやしくも構造主義を理解したなどとは、とうてい言えない」[中沢『くくのち1』p. 74]。

わたしたちが美しいと感じるモノは、文化という制度・制約のなかだけでゆがめられているかもしれないという直観。それは、キュービズムの批判へと向かってゆく。ピカソが生み出す芸術に関して、レヴィ=ストロースは、以下のように述べる。

The Problem of cubism is that its nature is a nature once removed, a nature such as emerges from previous interpretations or manipulations. [Levi=Strauss, Claude Structural Anthropology 2 p.278]

キュービスムが持つ問題は、もともとのものから切り離された自然を、自然そのものとして扱っている点にある。キュービズムの自然は、前もって解釈されたり、操作されたりした後に、現れるものなのだ。

美とは何か。美を愛でるとはいかなることか。自然と文化をめぐるこうした主題に沿って、より深く考えてみなければならないのではないかと思う。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アニミズムをめぐる拙論に関して、ある方から『風の谷のナウシカ』が参考になるのではないかというご意見をいただき、アニメを読んでみたが、今ひとつピンと来ない点があって完読できなかったので、DVDの映画を観てみた。そこから、ある種の霊感を得た気がした。個人的な感想にすぎないが、述べてみたい。

あらすじをまとめるならば、以下のようになるであろう。人類文明は、「火の七日間」と呼ばれる最終戦争を引き起こした後に滅亡し、焼け跡から、瘴気が充満する腐海が発生した。腐海には、菌や蟲が棲息し、それらが人の生存を脅かし続ける。「風の谷」の王女ナウシカは、人類の栄光を取り戻そうとするトルメキア国との戦争を戦いながら、同時に、人類の生存をかけた蟲たちとの戦いにおいて大きな役割を果たす。

主人公のナウシカは、ギリシャ神話に登場する俊足で空想的な王女の名であり、それと、堤中納言物語に登場する、社会の束縛から逃れて、感性にたよりながら、野山を駆け回って草木や雲に心を動かした「虫愛づる姫君」をかけあわせながら、宮崎駿によって生み出された、創造上の少女である(映画のなかで、ナウシカがスカートの下にパンツを付けてないようだが、そんなことが、ことさら気になるわたしはヘンであろうか?)。

動物や王蟲と心を通じ合わせることができるナウシカは、世界のあちら側の存在とコミュニケーションできる存在としてのシャーマンの特質を備えている。それだけでなく、そのことによって、人心をひとつにまとめることができる点で、シャーマン=王(女)のプロトタイプなのかもしれない、みたいなことを考えた。

全編をつうじて、わたしがとりわけ興味深く感じたのは、この話のなかで、王蟲や胞子などの自然存在物が、知性や精神機能を持つような、人と同等か、いや、人よりも優位な存在として描かれている点である。そうした自然的存在物は、いや、それらこそが、千年もの間、腐海に住みつづけて、腐海を亡きものにしようとする人に反攻しながら、他方で、腐海の奥底深くに、完全なる自然を生み出そうとする営為を続けてきたのである。

そのことを、ナウシカが、はじめて発見したのではあるまいか。そうであるならば、作者の意図は、自然を、人間の考えが及ぶことがない、より崇高なる、オートポイエーティックな秩序や理性として捉えられるという可能性に開いてゆくことにあるのではないだろうかと、思いたくなる。取るに足らない花や自然のなかに、深い知性や秩序のありかを読み取ろうとした、レヴィ=ストロースやスピノザのように。

狩猟民たちの自然観は、ナウシカが捉えようとした自然の動きに近いような気がする。気のせいかもしれないが。そう考えると、腑に落ちる点がいくつもある。ナウシカの物語の先には、わたしたちのものではない、別の自然観を考えるための手がかりがひそんでいるように思える。

以前、宮崎駿映画のもののけ姫について考えてみたことがある
↓↓↓
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/63c757e2a9e59fe6c52415aad981bb67


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »