親愛なるSさま、
新学期がスタートし、ご多忙のことと存じます。早速ですが、わたしなりに昨日の研究会を以下に手短にまとめます。
まずは、H先生からのコメントを手がかりとして、存在論に関して議論しました。それは、観念論とどう違うのか、さらには、デスコーラのいう存在論とは何かという点に焦点をあてました。ハロウェルが1960年の論文で言っているオジブワの存在論は、アニミズムなどが言語表現されているという事態を指し、われわれがふつういうところの観念論であったのに対して、デスコーラのいう存在論は、実践を踏まえて立ち現れるような人びとの観念世界のことです。
I want to make clear that these four modes of identeification are not mutually exclusive. Each human community may activate any of them according to circumstances, but one of them is always dominant at specific time and place in that it gives to persons who acqired skills and knowledge within a same community of practice the main framework through which they perceive and interpret reality. It is this framework that I call an ontology.(Descola, Philippe "Beyond Nature and Culture. p.8.)
(邦訳)これらの4つのアイデンティフィケーションの4つの様式がお互いに排除的であるというのではないという点を明らかにしよう。人間が集まると、それぞれの状況に応じて、それらの様式のうちの幾つかを動かすようになるが、そのうちの一つが、同じようなふるまいをするような人たちの集まりのなかで、技術と知識を獲得した人たちに与えられるという点で、ある特定の時間と場所において、つねに支配的なものとなる。そして、その主要な枠組みをつうじて、人びとはリアリティーを感知しかつ解釈するのである。この枠組みのことをわたしは存在論と呼ぶのだ。
4つのアイデンティフィケーションの様式とは、①トーテミズム、②アニミズム、③自然主義、④類比主義のことである。大雑把に説明すれば、①トーテミズムは、ある動物との一体感を感じるというようなモードで、身体性+内面性+であると表されます。②アニミズムは、霊現象のように精神性だけを共有しているようなモードで、身体性-内面性+。③自然主義とは、マテーリア(物質)であると捉える一方で、精神性を認めないようモードで、身体性+内面性-。最後に、④類比主義とは、干支でそれぞれがつながっているようなモードのことで、身体性-内面性-となります。こうした4つのアイデンティフィケーションの様式が、お互いに排除的ではなく、つまり、相互に浸透しあうようなかたちで存在しており、同じようなふるまいをする人たちの間で共有されるような、ある支配的な様式が現れてくる。そうしたときの枠組みのことを、デスコーラは存在論と呼んだようなのです。
人間と動物の関係にあてはめるならば、神話世界は、人間と動物が溶け合って一体化している点でトーテミズム的であり、ペットを飼うことは、人間とペットは精神的につながっているのでアニミズム的、動物園で動物を飼育し、市民に公開することは、人間と動物の精神的なつながりがそれほど明瞭ではないという点で自然主義的、さらには、加工して販売された食肉は、原型をとどめないかたちで解体され、人間と動物の間の物質性・内面性ともども粉々に破壊されているという意味で類比主義的だと思われます。しかし、そうしたモードのありようは、必ずしも普遍的なものではありません。動物園の動物と人間の関係は、リンリン・ランランという人気のあるパンダのような動物の場合には、人間と動物のつながりは、俄かに精神性を帯びる場合があります。そうすると、その様態は、トーテミズム的なものに傾くことになります。要は、時と場合によって、その図式は変わりうるのです。デスコーラのいう存在論とは、そうした実践との関わりにおいて移り変わる可能性を含むような枠組みのことなのです。
わたしの理解はまだまだ不十分かもしれませんが、この存在論を軸にして、人間と動物の関係、人間(文化)と自然をめぐる問題について、考えてゆくことは知的にスリリングであるような気がします。
ところで、個々のメンバーの論考についてですが、Kさんは、動物と人間の関係をめぐる生態学的アプローチと象徴論的アプローチおよびその統合アプローチに対して、それらは西洋中心主義であると退けた上で、間側から見る人間をどのように探求すべきかという問題を取り上げています。存在論というキータームによりながら、こうした問題の全容を見取り図にして示そうとする意欲的な内容です。Iさんは、神経生理学教室の自然観を文化領域との関わりから捉えた上で、4つのアイデンティフィケーションのモードを用いて、自然と文化の境界というのは、状況に応じて変容するものであり、その意味で、根拠がないというようなことを示そうとしています。Tさんは、魚にも人間性があるというスリリングな民族誌事例に焦点をあてて、魚への人間性の拡張という捉え方がどのようにして研究者の間に登場したのか、さらには、そうした捉え方が、どのように現地の人たちの魚観(自然観)と同じであり、異なるのかという点の検討を踏まえた上で、自然と社会をめぐる問題を検討しようとしています。わたしはといえば、理論立てを強調することによって分析過多となり、感情や感覚という人びとの実践の重要な部分がすっぽりと抜け落ちてしまう事態を反省して、自然と人間をめぐる民族誌記述の可能性に対して、人類学をふたたび開いてゆくために、エピソードを中心として民族誌を読み上げました。ちょっといきなり感があるので、説明が必要かもしれません。
拙いまとめで申し分けありません。
ひどい文章に疲れ果てたら、アルゲリッチの気力のあふれるピアノ演奏でも聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=JaYx6XfhKZE
(Martha Argerich, Tchaikovsky Piano Concerto No 1 III.Allegro con fuoco)
そのうちに意見交換しましょう。
たんなるエスノグラファーより