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九品中正法

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 九品中正法は、魏の文帝が施行した官吏登用制度で、魏晋南北朝時代を通じて採用されました。その結果、漢代の豪族は貴族に変質していったわけです。
 その制度の内容は、中央政府から任命された中正官が、地方の豪族を9ランク(9品)に分け、中央に報告します。中央ではそのランクに応じて彼らに官職を任命しました。
 「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という言葉は、高くランク付けされた豪族が高級官職を独占し、賄賂や不正によって繁栄したことをしましています。
 

太宗 貞観の治

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 626年兄弟を殺した【玄武門の変】で即位した【李世民】は、【太宗】として【貞観の治】と呼ばれる善政を行ないました。彼は父の李淵とともに【618】年に唐を建国し、即位後628年に中国を統一した皇帝で、【907】年まで続く唐王朝の政治的基礎を確立しています。
 中央政治を扱う中央官庁は、【三省六部】が組織されました。三省とは、【中書省】・【門下省】・【尚書省】のことです。この制度は日本でも真似ていて、二官八省という制度を作っています。
 中書省の役割は、皇帝のブレーンとして政策を【立案】することです。中書省で作成された政策を【審議】(チェック)するのが門下省の仕事です。門下省で審議された結果、反対された政策は中書省に差し戻されます。皇帝やそのブレーンたちが立案した政策を、門下省の官僚たちは拒否できたわけです。門下省の官僚が認めた政策だけが尚書省に送られ、どの部署でその政策を実行するのが適当か、によって6つの部門に【政策を振り分け】ます。この6部門を【六部】といいます。この六部で政策が実行されていくわけです。
 唐から始まった【科挙】試験で合格して官僚になった連中は、皇帝のブレーンとして中書省に配属されました。また、皇帝の意向に対して拒否する権限を持っている門下省の官僚は【高級貴族】によって独占され、皇帝が貴族の意向に反する政策を行なわないようにしました。門下省が「【貴族の牙城】」と呼ばれる所以です。
 

隋の建国

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【鮮卑族】系【北周】の王族独狐信の娘と結婚した【楊堅】は、やがて外戚として【北周】を滅ぼして、【581】年【隋】を建国しました。その後、東にある【北斉】を滅ぼして華北を統一すると、【589】年に南朝の【陳】を滅ぼし、中国の再統一に成功しました。楊堅は即位して【文帝】となった人物です。彼は、【均田制】・【租庸調制】・【府兵制】の3つの制度を整えました。また、後の科挙に受け継がれる選挙という官吏登用制度をつくるなど、隋唐帝国の制度の基礎を作った人物です。
 この文帝の子が【楊広】で、隋第2代皇帝となる【煬帝】です。煬帝は父や兄を殺害して即位したと考えられています。彼は鮮卑族の王族の血を濃く受け継いでいるわけです。

農民を苦しめた?煬帝

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【隋】の第2代皇帝は、【煬帝】(本名は【楊広】)です。かれには2つの大きな業績があります。そのうち後世まで彼の政策の恩恵を受けたのが、【大運河】の開削事業でした。南北朝時代の南朝諸王朝が、【長江下流域】の農地を開墾したため、【江南地方】は一大農業地帯となっていました。これは漢の時代には見られなかったことです。
 このように農業地帯となった【江南地方の経済力】と【消費地である華北】とを結びつける目的で大運河は開削されました。とくに【通済渠】という運河は、長江(正確には淮河)から黄河までを結ぶ運河です。隋の都【大興城】(【長安】)は貴族たちだけが住んでいましたから、この消費都市長安に江南から穀物が運ばれてくるということは、非常に重要なことでした。
 【494】年【孝文帝】による【漢化政策】によって【鮮卑族】が華北に移住してしまったモンゴル高原で【552】年に【突厥】が成立し、まもなく西域(中央アジア)をも支配する大帝国を建設していました。彼らがササン朝ペルシア【】の【ホスロー1世】と組んで中央アジアにいた遊牧民族【エフタル】を挟撃したことは有名です。
 この大帝国【突厥】が、【朝鮮半島北部】にあった【高句麗】と同盟を結んで、統一まもない隋と対立していました。隋の煬帝は両国の同盟を破るために、3度に及ぶ【高句麗遠征】を行ないました。兵員や物資を北方に送るために大運河【永済渠】を建設したほどの力の入れようでした。
 しかし、煬帝が行なった3度の高句麗遠征は【3回とも失敗】に終わりました。大運河の開削という大事業に疲れ、さらに高句麗遠征が失敗したために、煬帝に対する不平不満は頂点に達し、各地で農民反乱が発生して、隋は滅亡していきました。

唐の建国

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【隋】が【煬帝】の失政によって滅亡した後、各地の農民反乱を抑えて、再び中国を統一したのが【唐】です。唐の建国者は【李淵】、すなわち【高祖】ですが、実際はその次子である【李世民】が統一事業で活躍していました。
 【618】年に唐を建国し、都を【長安】に定めた後、李世民は626年に【玄武門の変】というクーデタで兄弟を殺して即位しました。唐第2代皇帝【】太宗の登場です。太宗は即位2年後、建国10年目の【628】年に中国を再統一し、【貞観の治】と呼ばれる善政を行ない、唐前半の最盛期を現出しました。

科挙の歴史

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【唐】の【高宗】によって本格的に実施された【科挙】は、【1905】年まで続いた官吏登用制度です。1200年以上も多くの王朝によって継承されたことになります。唐では科挙試験の合格者数はそれほど多くはなかったようで、貴族の子弟は【蔭位の制】によって家柄ごとに出世コースが決まっていました。
 【宋】代になって、【儒学】の研究が進んだこともあって、科挙制度は本格化しましたが、【形勢戸】たちが科挙試験に臨みました。彼らの科挙試験受験の実態は、事前に試験問題が教えられているなど、多くの不正によって合格していたようです。しかし、科挙試験合格者である、というブランドは出世には必要であったので、受験に臨んだようです。さらに、1代に限ったことですが、科挙合格者を出した形勢戸を【】とよんで、【免税特権】を与えたことも、受験を除く形勢戸が多かった理由と考えられます。
 モンゴル民族の【元】は一時的に【科挙制度を廃止】しましたが、それは、イスラム文明など西方の進んだ文明に接していたことで、中国文明と距離をおくことができたため、と考えられています。しかし、その元もまもなく科挙制度を導入していますから、モンゴル人もある面では中国文明に同化したといえます。

朝鮮半島の歴史

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
朝鮮半島の歴史

(1)朝鮮半島にはどんな国があって,中国や日本とどんな関係があったか?

4世紀中ごろには北部に高句麗,南部には,百済・新羅が成立した(三国時代)。このうちとくに高句麗は強国で、隋の煬帝による遠征を3度も退けている。また、文化面でとくに優れていたのは百済で、日本に仏教を伝えた国として有名である。7世紀に唐と結んだ新羅は半島を統一し,唐の律令制などを採用して,国家体制をととのえた。都が慶州に置かれた。新羅の骨品制は独自の身分制度である。新羅は仏教を保護したため、都の慶州には仏国寺や海印寺などの寺院が残されている。仏国寺は赤・緑・青などの原色で塗られ、日本の寺院とは趣きが異なる。また、海印寺には高麗大蔵経が保存されている。この版木はモンゴルの襲来の際に消失したが、まもなく復刻された。
滅びた高句麗の一族は,中国の東北地方に逃れて渤海を建て,唐の律令制を採用して繁栄した。貿易を主目的とした使節を日本とさかんに交換し,日本の北陸地方に彼らの船が来航した。

10世紀,高麗が成立し,唐・宋の制度を取り入れて中央集権的な政治を行なった。この国で成立した両班は、以後の朝鮮半島の支配階級として君臨し続けた貴族制度である。文班と武班から成り立っているので両班と呼ぶ。一般に文班の方が有力であった。しかし、13世紀になるとモンゴル民族によって侵略され、高麗はこれに服属した。その結果、元による日本遠征(元寇)の時には物資・人員を提供させられた。さらに14世紀頃から拡大していた倭寇は、日本人の海賊だが、朝鮮半島の沿岸地帯の村を襲撃して、村民を拉致したり、食料を収奪した。この倭寇を撃退して名を挙げた李成桂が高麗を倒し、明より承認をうけて,国号を「朝鮮」とし,漢城(ソウル)を都とした。この李氏朝鮮は1910年に日本によって滅ぼされるまでの約600年の間、朝鮮最後の王朝として繁栄した。
李氏朝鮮の時代、16世紀末に豊臣秀吉は、朝鮮に侵略(壬辰・丁酉倭乱)したが,在地両班などが指導する民衆の抵抗や、李舜臣らの活躍により撃退された。日本軍は撤退する時,朝鮮人陶工を拉致してきた。武士の間で茶の湯が流行し,李氏朝鮮の白磁は珍重されていたからである。朝鮮人陶工の技術と,従来の日本の技術が融合し,古伊万里などの磁器が生まれた。
1603年に徳川幕府成立した後,対馬の宗氏の仲介で、江戸幕府の日本は李斯朝鮮と国交を回復した。朝鮮は将軍の代がわりなどの節目に使節(朝鮮通信使)を派遣した。


(2)「朝鮮半島の料理」といわれて,思いつくのは焼き肉とキムチ。いつごろからあるのか?

三国時代には雉・鶏・豚などの焼肉が好まれていた。しかし,高麗は仏教をあつく信仰したので,肉食は厳禁された。しかし13世紀のモンゴルによる支配をきっかけに,再び肉食が好まれるようになった。そのため,琉球から胡椒を大量に輸入していた。
李氏朝鮮は儒教の一派,朱子学にもとづいて政治をおこなった。この朱子学は中国で12世紀に朱熹によって完成した学問である。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、日本や朝鮮の思想にも大きな影響を与えた。しかし、1644年から中国に清が君臨し、異民族支配が行なわれるようになると、中国文明の正統な継承者であるという意識から、李氏朝鮮の両班層の間では儒教の儀礼が中国以上に厳格に守られた。
このような儒学の発展の影響を受けて,仏教は廃れていき,その結果、朝鮮における肉食の文化はいっそうさかんとなった。また,同様に仏教の影響から高麗では茶を好み,高麗青磁の茶器も大変精巧で美しいものが多かった。しかし,李氏朝鮮になると,仏教色の強い喫茶の習慣もすたれていった。

キムチは野菜の乳酸発酵食品で,冬のきびしい朝鮮半島で工夫された保存食である。キムチといえば,唐辛子であるが,これは16世紀末以前には使われず,山淑や生姜やニンニクが香辛料として使われていた。唐辛子は,南アメリカ原産で,豊臣秀吉の朝鮮侵略のころ日本の九州地方をへて,朝鮮半島にもたらされたという。日本のものに比べ,朝鮮の唐辛子は辛みが少なく,うまみ成分が多い。朝鮮後期には,唐辛子がさまざまなキムチに使われるようになった。焼肉,キムチだけが朝鮮半島の料理ではない。参鶏湯(サンゲタン)などのスープ,チゲ(鍋)や冷麺などの麺や餅などもよく食べられている。


(3)ハングルは日本語と全然,ちがいますよね?

ハングルは朝鮮半島で考案された朝鮮独自の文字の名称である。15世紀,李氏朝鮮の王,世宗が学者に命じて,朝鮮語を書き表す文字として創作させた「訓民正音」を,現在はハングル(偉大な文字)とよんでいる。ハングルは子音を表す部分と母音を表す部分を組み合わせて文字とする。子音を表す部分は発声器官をかたどっており,当時の朝鮮の学問水準の高さがうかがえる。朝鮮語と日本語の語の語順は似ている。また,敬語表現が発達し,漢語が多く,「きらきら」「わんわん」などの擬態語・擬声語が多いのも日本語と似ている。しかし,子音が19もあり,日本人には発吾が大変難しい。


(4)テレビで韓国のおばあさんがインタビューに上手な日本語で答えてたけど,とうして?

それは,朝鮮が日本の植民地であったからだ。1910年に日本に併合され,その翌年から学校ではほとんどの授業が日本語でおこなわれた。1937年に日中戦争が開戦すると,学校では授業時間以外でも日本語使用が強制された。 

それでは,朝鮮はどのようにして日本の植民地になったのか。明治維新後の1875年,李氏朝鮮と条約による外交関係を結ぼうとする日本との交渉は,不調に終わった。この年、日本は江華島事件を起こし,翌76年に不平等条約である日朝修好条規を結ばせた。その後,日清両国が朝鮮に勢力をのばしていき,とくに清は強く李氏朝鮮に対して内政干渉した。
1894年,宗教結社の東学の地方幹部,全琫準を指導者とする民乱がおこった(甲午農民戦争)。朝鮮は清に民乱鎮圧のための派兵を要請したため,日清両国の取り決めに従って日本も朝鮮半島に出兵した。まもなく両国は朝鮮半島で軍事衝突を起こしたため、1894~95年に及ぶ日清戦争が発生した。この戦争で日本が勝利し、下関条約では朝鮮は清の属国ではなく,独立国であると承認され,日本は清から多額の賠償金を獲得したほか、台湾の領有を認めさせた。

 台湾にはもともと高砂族という少数民族が住んでいるが、16世紀の大航海時代が幕を開けると、オランダ人がゼーランディア城を建設して貿易の拠点としていた。17世紀に現れた中国明朝の残党である鄭成功がオランダ人を台湾から追い出し、それ以降、中国人の支配が続くこととなった。1895年に、日清戦争で中国(清朝)が日本に敗北すると、下関条約によって台湾は日本に割譲された。しかし中国系の住民によって日本支配への抵抗運動は続き、日本軍はこれに厳しく対処した。
台湾の統治は日本総督府が行なっていた。台湾は日本にとって初めての海外領土であったので、日本政府はかなりの情熱と資金をこの島に注いだ。そのために現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっている。
かつて日本は、植民地支配に反対するこの原住民族を武力弾圧し、1930年には700人以上の犠牲者を出すという悲惨な霧社事件も起こした。その一方で、東京大学教授でもあった八田與一(ハッタヨイチ)は台湾でダム建設を行い、台湾でも高く評価されている。現在の台湾で、日本に対する評価は二つに分かれる。日本の統治があったからこそ、今の台湾の発展があるとする見方と、日本の統治は日本による搾取に過ぎなかったとする見方が存在する。
また、現在の台湾では、戦後に中国大陸から移住してきた人々(外省人)を中心に、将来の中国統一をめざす勢力と、戦前からの台湾で生まれ育った人々(内省人)を中心に、中国とは別の独立国家をめざす勢力の政治的対立がいまも続いている。


日清戦争の後、李氏朝鮮は国号を「大韓」とし、日本の勢力拡大に対抗する目的でロシアに接近した。その結果、1904年,中国東北部・朝鮮における支配をめぐり、日本とロシアとの対立が激化して日露戦争が起こった。この戦争に勝利した日本は,大韓に対する保護権をえて,統監府をおいた。これに対抗するために国際世論に訴えようとしたハーグ密使事件や、反日義兵連動,安重根による初代統監伊藤博文暗殺などの抵抗がおこなわれるが,1910年,韓国併合に関する条約が締結され,日本の植民地となり,朝鮮総督府が朝鮮半島を支配した。


(5)李氏朝鮮は朝鮮半島全域を支配したのに,今はなぜ,南北に分裂しているのか?

植民地時代,朝鮮の人々は1919年の三・一運動など、さまざまな形で日本の支配に対する抵抗運動をおこなった。1945年,太平洋戦争の終結と同時に朝鮮は植民地支配から脱した(光復)。しかし、終戦直前に北方からソ連軍が南下してきており、日本の支配かにあった朝鮮半島にまで進軍していた。これに対抗するために南からはアメリカ軍が進駐した。米ソ両国は、暫定的に北緯38度線を境に治安維持の責任を南北で分担することを取り決め、後日、朝鮮半島の統一選挙を予定した。しかし、冷戦という米ソ東西勢力の対立の影響をうけ,朝鮮半島統一国家の建設は失敗に終わり、1948年,南にアメリカの影響を受けた「大韓民国」が,北にはソ連の影響を受けた「鮮民主主義人代共和国」が成立した。1950年,南北統一を公言しあう両国間に朝鮮戦争がおき、1953年休戦協定が板門店で結ばれ,北緯38度線付近を軍事境界線とし,南北の分裂が固定化したのである。この朝鮮戦争の犠牲者は韓国側で約200万人、北朝鮮側で約330万人、中国人92万人、アメリカ軍を中心とする国連軍16万人に及んでいる。

唐の辺境支配

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 唐は万里の長城を建設しなかった王朝です。ではどのようにして防衛にあたったのでしょうか。まず、周辺の外国に対しては「【冊封】」関係を結びました。その外国の君主を国王とし、唐の皇帝の臣下の地位に置きました。その代償として、その外国は唐との貿易(これを【朝貢貿易】といいます)ができますし、文化や制度の導入がうまくいくわけです。
 軍事的に非常に強力であった唐の初期は、積極的に対外遠征を行い、周辺国を征服しました。ただし征服された民族に大しては非常に寛容な政策を採っています。現地の部族長に自治権を認め、間接的に統治する方法をとり、その部族長を監視したり、外国が攻撃してきたときに対処するために【都護府】を現地に設置しました。都護府が部族長に【間接統治】をさせる政策を【覊縻政策】と呼びます。
 しかし、700年前後に起きた【武韋の禍】という中央政界の混乱によって、それまでおとなしくしていた辺境の部族長の中から反乱を起こすものが現れたり、外国が攻撃してきたため、唐は710年に都護府による辺境支配をあきらめ、【節度使】を設置しました。節度使は辺境の部族を軍事的に支配し、外国の侵入にも対処する制度です。【軍事権】を持ち、独自の判断で行動できるため、軍事的危機にはすぐに対処できる利点がありました。
 しかし、この節度使の任を3つ兼務した【安禄山】が反乱を起こし、唐は大混乱におちいりました。【755】年~【763】年まで続いた【安史の乱】です。この大反乱に対して唐は節度使を辺境以外の長安周辺にも設置し、【ウイグル】の協力を得て鎮圧しました。
 安史の乱後、唐の軍事・防衛は辺境ばかりでなく内地にも設置された節度使が握るようになりました。強力な軍隊を持っていた彼らは、軍事権・徴税権にくわえ行政権も持ち、唐の政府の言うことを聞かずに【半独立】状態になり、【藩鎮】と呼ばれます。安史の乱後の唐は藩鎮が乱立する混乱期であったといえます。


唐と高句麗の関係

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 隋の煬帝は高句麗に対して3回の遠征を試みましたが、すべて失敗しました。高句麗遠征失敗の結果、隋は滅亡しました。中国を統一した王朝であった隋の攻撃をなぜ高句麗がしのぐことができたのでしょうか。それは、当時、モンゴル高原で出現した突厥帝国と高句麗が軍事的に連携していたためであるとされています。突厥が建国した552年は、隋の建国の581年より30年前のことです。
 唐の太宗(李世民)も高句麗遠征を試みましたが、これも失敗しました。そこで彼は朝鮮半島の南東部にあった新羅と643年に唐羅同盟を結び、高句麗を南北から挟撃する計画を立てました。当時の新羅国王は金春秋(武烈王)です。
 唐3代皇帝高宗になると、唐と新羅の同盟軍は、まず660年に朝鮮半島南西の百済を征服。さらに南北から高句麗を襲いました。そして668年に高句麗を滅ぼし、唐は平壌に安東都護符をおきました。また、新羅は百済の地を征服し半島南部を支配しました。その間、百済再興を狙った日本軍が663年に朝鮮半島に上陸したものの、白村江の戦いで敗北しています。このとき、百済人の多くは日本に亡命しています。
 高句麗の遺民は北に逃れて698年に渤海を立てました。大祚栄が渤海の建国者ですが、渤海は「海東の盛国」と呼ばれ、日本との交流が盛んであった国です。
 その後、新羅は唐の安東都護符が置かれていた平壌を攻撃し、朝鮮半島を統一しました。その結果、唐の安東都護符は遼東半島に撤退を余儀なくされました。

都護府と覊縻政策

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 唐は征服した地域に住む住人に対して寛容な政策を採りました。これを【覊縻政策】といいます。征服された部族の長に【自治権】を与えて、彼らに住民を統治させました。すなわち【間接統治】を行なったわけです。部族長が反乱を起こすことのないように監督する仕事を行なうのが【都護府】です。都護府には長安から役人が派遣されます。また、反乱や異民族の侵入といった非常事態が発生したときは、長安から軍隊が派遣されました。
 都護符は全部で【6】ヶ所置かれました。覊縻政策を採っているので、曽於地域にいる部族を支配するために軍隊を集める権限はなく、徴税権も持っていませんでした。なお、覊縻とは、覊は馬をつなぐ紐、縻とは牛をつなぐ紐、の意味で、部族長がある程度まで自治を行なうことを示しています。

唐の防衛政策と辺境支配

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 唐は万里の長城を建設しなかった王朝です。ではどのようにして防衛にあたったのでしょうか。まず、周辺の外国に対しては「【冊封】」関係を結びました。その外国の君主を国王とし、唐の皇帝の臣下の地位に置きました。その代償として、その外国は唐との貿易(これを【朝貢貿易】といいます)ができますし、文化や制度の導入がうまくいくわけです。
 軍事的に非常に強力であった唐の初期は、積極的に対外遠征を行い、周辺国を征服しました。ただし征服された民族に大しては非常に寛容な政策を採っています。現地の部族長に自治権を認め、間接的に統治する方法をとり、その部族長を監視したり、外国が攻撃してきたときに対処するために【都護府】を現地に設置しました。都護府が部族長に【間接統治】をさせる政策を覊縻政策と呼びます。
 しかし、700年前後に起きた【武韋の禍】という中央政界の混乱によって、それまでおとなしくしていた辺境の部族長の中から反乱を起こすものが現れたり、外国が攻撃してきたため、唐は710年に都護府による辺境支配をあきらめ、【節度使】を設置しました。節度使は辺境の部族を軍事的に支配し、外国の侵入にも対処する制度です。【軍事権・徴税権】を持ち、独自の判断で行動できるため、軍事的危機にはすぐに対処できる利点がありました。
 しかし、この節度使の任を3つ兼務した【安禄山】が反乱を起こし、唐は大混乱におちいりました。【755】年~【763】年まで続いた【安史の乱】です。この大反乱に対して唐は節度使を辺境以外の長安周辺にも設置し、【ウイグル】の協力を得て鎮圧しました。
 安史の乱後、唐の軍事・防衛は辺境ばかりでなく内地にも設置された節度使が握るようになりました。強力な軍隊を持っていた彼らは、軍事権・徴税権にくわえ行政権も持ち、唐の政府の言うことを聞かずに【半独立】状態になり、【藩鎮】と呼ばれます。安史の乱後の唐は藩鎮が乱立する混乱期であったといえます。

メキシコ史

2014年10月28日 | 高3用 授業内容をもう一度

現在のメキシコ・シティはテスココ湖の湖上に位置し、アステカ王国の時代にはテノチティトランと呼ばれた。アステカ人は都市の中心部に大ピラミッドを建設したが、その頂には太陽神ウィツィロポチトリと豊穣の神トラロックの神殿を祭っている。メソアメリカ文明にはピラミッドの遺跡が多く残されている。メキソコ・シティの北西50Kmほどにあるテオティワカンの「太陽と月のピラミッド」は、宇宙観・宗教観に基づいて計画的に建設されたものと考えられている。また、南米のインカは行政組織が整備された帝国で、帝国の領土は4つのスーユに分割統治され、さらにワマンに細分化された。これらは道路網によって結ばれ、要所には軍事都市や宿場が置かれていた。

 1492年コロンブスによって中南米世界は世界史の舞台に登場した。しかしそれは現地の人々にとっては過酷な歴史の始まりを意味していた。1521年にはコルテスがアステカ帝国を滅ぼし、続いて1533年にはピサロがインカ帝国最後の皇帝となるアタワルパを殺害してインカ帝国を滅ぼした。しかし、スペイン人が強いる過酷な労働や彼らが持ち込んだ伝染病によって人口は激減し、先住民をキリスト教化することを条件に彼らを使役するエンコミエンダ制は維持できなくなった。果たして『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著して支配方法に抗議したドミニコ修道会のラス=カサスの主張の正しさが証明されたとも言える。また中南米世界が世界史の舞台に登場した影響は多大なものであった。16世紀後半に西欧では価格革命といわれる極端な価格上昇が起こり、中国においてもメキシコ銀がマニラ経由で持ち込まれた影響から1570年代になると好景気が訪れたため、張居正によって一条鞭法が江南地方から施行された。

 19世紀の始めには逆に西欧世界の政治的混乱が中南米社会を大きく変質させることになった。カリブ海のイスパンヨーラ島のフランス領サン=ドマングでは「黒いジャコバン」と呼ばれたトゥーサン=ルヴォルチュルが独立運動を指導し1804年に世界最初の黒人共和国を樹立した。隣に位置するキューバではサン=ドマングから亡命した白人農場主が砂糖プランテーション経営を持ち込み、最大の砂糖生産地となった。そのためスペイン本国は各地から亡命者を受け入れつつ軍事的に植民地支配を強化した。そのような中、キューバの独立運動は1892年ニューヨークにキューバ革命党を結成したホセ=マルティによって独立戦争に発展した。1898年独立派の解放地域が島の半分に及ぶと、アメリカ合衆国大統領マッキンリーはメイン号事件を口実に独立戦争に介入してスペイン軍を駆逐し、キューバを軍政下に置いた。さらにプラット条項を受け入れさせ、外交権への干渉、バイア=オンダとグアンタナモ海軍基地の設置、相互の輸入関税の引き下げなどを認めさせて、事実上の保護国とした。

 1933年Fローズベルト大統領はこれまでの強硬政策からいわゆる善隣外交に転換し、中南米諸国との通商関係拡大を図った。キューバに対しても1934年にプラット修正を撤廃したため、キューバは政治的独立を達成するに至り、親米バティスタ政権が成立した。

 

 


南北戦争後のアメリカ

2014年10月28日 | 高3用 授業内容をもう一度

アメリカ合衆国の南部諸州は,1865年に南北戦争に敗北した後,北部共和党の主導の下で,荒廃した国土の再建を行うことになった。奴隷制を争点とした1860年の大統領選で奴隷制反対を標榜する共和党リンカンが合衆国大統領に就任すると,1861年南部が連邦から脱退し,ジェファーソン=デェヴィスを大統領とするアメリカ連合国を建国した。それ以来,合衆国は分裂の危機にさらされてきたが,南北戦争の終結により,南部諸州は再び連邦へ復帰することになった。そして,それまで南部諸州が主張してきた自由貿易と奴隷制の存続,州の自治の要求は退けられ,南部は北部産業資本の下で,全国的に統一された市場経済に組み込まれることになった。その結果,北部産業資本は急成長を遂げ,工業化を完成させたばかりか,1869年から80年代にかけて数本の大陸横断鉄道を開通させたことで,西部の自由農民を含めた国内市場の統合が進んだ。このことは,さらに工業化を促進させたため,1880年代にはトラストという形態による独占資本主義が成立し,アメリカは1890年代に次の段階,すなわち国内市場から国外市場への進出という帝国主義政策に展開していった。

一方,いわゆる再建期は,南北戦争終結直後から1877年まで続いたが,その間,南部は5つの軍管区に分けられ,連邦軍による軍政下におかれた。解放民局とよばれる政府機関が,解放された黒人奴隷への食糧の給付,仕事の仲介斡旋,教育や医療サービスの提供などを行い,占領行政において中心的な役割を果たした。

南北戦争中の1863年にリンカン大統領によって出された奴隷解放宣言は,1865年に制定された憲法修正第13条によって明文化され,翌年には,人種・肌の色・以前の隷属状態などに関わりなく,すべての合衆国市民が平等な立場で社会に参加できる権利を保障した公民権法も制定された。さらに1867年の再建法では,黒人に選挙権を与える規定をもつ州憲法を制定することが義務付けられた。

しかし南部の再建には,多くの困難が伴った。さまざまな法律上の改正が行われたにもかかわらず,連邦政府による黒人への土地の再配分は実現せず,農業以外の職業経験に乏しい黒人の生活はあまり向上しなかった。南北戦争前に広大な奴隷制綿花プランテーションを所有していた大農場主は戦後,土地を細分化し,住居や農具などとともに貸し出す農業方式を採用し,黒人をシェアクロッパー(分益小作人)として雇用することによって大きな利益を得た。

その一方で,南部の白人指導者たちは民主党の下で政治的な影響力を強めるとともに,州レベルで黒人取締法(ブラック=コード)を制定し,黒人が獲得した諸権利の剥奪を行った。また各地で,黒人の社会進出を恐れた白人至上主義団体が結成され,黒人を迫害した。なかでも,テネシー州で結成されたKKK(クー・クラックス・クラン)は,反黒人だけでなく,反移民・反カソリックを訴え,勢力を拡大した。その結果20世紀初頭までに,州法によって白人と黒人を日常生活の多くの場で人種別に分離する制度が,南部諸州を中心に確立されることになった。


南北戦争

2014年10月28日 | 高3用 授業内容をもう一度

 アメリカ合衆国の西部への発展とともに,南北のセクション間の対立が激化した。南部は奴隷制の存続と自由貿易,政治面では州の自治すなわち地方分権を強く要求した。これに対し,北部は保護貿易と中央集権主義を主張し,また人道的に奴隷制に反対した。そこには,1812年戦争後から工業化が始まった北部は労働力を西欧からの移民に依存せざるを得なかったという背景があった。

 1860年,北部の利害を代表する共和党のリンカンが大統領に当選すると,南部諸州は合衆国から離脱し,翌61年アメリカ連合国をつくってジェファーソン=デーヴィスを大統領に選び,ここに南北戦争がはじまった。63年,合衆国は南部反乱地域の奴隷解放宣言によって内外世論の支持を集めた。そして63年南北戦争最大の激戦となったゲティスバーグの戦いに勝利をえてから,北軍が優勢となり,65年南部の首都リッチモンドが陥落して南軍は降伏し,合衆国は再統一された。


19世紀前半の合衆国の領土拡大とその影響

2014年10月28日 | 高3用 授業内容をもう一度

 独立直後には小国であったアメリカ合衆国は,19世紀を通じて,広大な北アメリカ大陸とその周辺において,その領土を絶えず拡大する。そして,国内の経済的基盤を強化し,政治的安定度を高めて,20世紀の世界に支配的影響を及ぼす国内的体制を固めたのである。ここでは,独立から南北戦争時までに注目しよう。

 1783年9月にパリで調印された講和条約では,13植民地の独立と,ミシシッピ川にいたる領土が認められた。北の境界もこれまでのアパラチア山脈からはるかに広がって,五大湖地帯の一角にひかれた。新たに獲得したこの北西部の領有をめぐっては,以前から各州が領土権を主張していた。しかし,1777年に大陸会議で報告された後,最終的に1781年に全州の批准を終えた連邦規約では,各州が領土権を放棄して,連合全体に帰属されるものと定められていた。

 1800年時点の合衆国は,独立時の13州にヴァーモント,ケンタッキーとテネシーを加えた16州からなっていた。1803年のフランスのナポレオンからのルイジアナ購入によって,合衆国はミシシッピ川の西にこれまでの領土を倍加する領域を確保し,同時に交通の動脈であるミシシッピ川を支配した。これによって,西部への進出の基礎をかためたのである。

1812年戦争(第二次英米戦争)のあと,1818年には,イギリスとの間で北西部の国境線を定めた。さらにオレゴンを英米の共同領域とすることによって,合衆国領土は,ついに太平洋岸まで到達した。1819年には,スペインからフロリダを買収し,南西部ではスペイン領メキシコとの国境線を定めた。

 1840年代には,領土がさらに拡大する。まず,1846年にイギリスとの間での緊張ある交渉を経て,オレゴンの北緯49度線以南を領有する条約を締結する。南西部では,1821年に独立したメキシコ領のテキサスに関して,1844年に併合条約を調印し,1845年に議会の承認をえてこれを併合した。さらに,1846~48年のアメリカ・メキシコ戦争での勝利を経て,1848年にカリフォルニアとニューメキシコの一部を買収する。またこの年カリフォルニアでゴールドラッシュが起こり,政治的混乱が続く西欧からの移民を受け入れることになった。

 これによって,合衆国は北アメリカ大陸の中心部において,西は太平洋から東は大西洋までの,南はメキシコ湾を臨む領土を持つ大陸国家になる。そして,後に1867年には,ロシアからアラスカを購入した。

 合衆国の領土拡大は,ヨーロッパを舞台とする主要国間の戦争・抗争とも関連している。特に1823年に合衆国が,それまでに独立を達成したラテンアメリカへのヨーロッパ諸国の干渉に対して,西半球の問題に対してヨーロッパ列強は干渉すべきでない,という原則すなわちモンロー宣言をうちだしたことが注目される。これは保守的なウィーン体制の反自由主義・反国民主義という政治姿勢が西半球世界に波及することを嫌ったともいえる。一方,このことは合衆国が西欧世界の国際関係,この時点では君主国によるウィーン体制から距離を置くことも意味していた。このモンロー宣言の孤立外交政策は,その後の合衆国の外交姿勢の原則となり,合衆国が1917年に第1次世界大戦に参戦するまで約100年間存続した。

 他面においてこの領土拡大は,先住民の土地を,合衆国とヨーロッパ諸国が各自の領土と呼称し,相互に売買し,奪いあった結果でもあり,先住民を鎮圧し,強制移住させながら進んだ。

 19世紀前半までに新たに獲得された西部の領土において,奴隷制度の導入を許すか拒絶するか,という難問が生じる結果となった。これは,連邦議会や大統領選挙での争点になり,1861年からの南北戦争をもたらす大きな要因のひとつになった。

 この領土拡大が進んだ19世紀半ばまでに,産業面では,南部での綿花栽培の拡大,北部の製造業や西部自由農民が従事した農業の機械化による発展があった。