その制度の内容は、中央政府から任命された中正官が、地方の豪族を9ランク(9品)に分け、中央に報告します。中央ではそのランクに応じて彼らに官職を任命しました。
「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という言葉は、高くランク付けされた豪族が高級官職を独占し、賄賂や不正によって繁栄したことをしましています。
現在のメキシコ・シティはテスココ湖の湖上に位置し、アステカ王国の時代にはテノチティトランと呼ばれた。アステカ人は都市の中心部に大ピラミッドを建設したが、その頂には太陽神ウィツィロポチトリと豊穣の神トラロックの神殿を祭っている。メソアメリカ文明にはピラミッドの遺跡が多く残されている。メキソコ・シティの北西50Kmほどにあるテオティワカンの「太陽と月のピラミッド」は、宇宙観・宗教観に基づいて計画的に建設されたものと考えられている。また、南米のインカは行政組織が整備された帝国で、帝国の領土は4つのスーユに分割統治され、さらにワマンに細分化された。これらは道路網によって結ばれ、要所には軍事都市や宿場が置かれていた。
1492年コロンブスによって中南米世界は世界史の舞台に登場した。しかしそれは現地の人々にとっては過酷な歴史の始まりを意味していた。1521年にはコルテスがアステカ帝国を滅ぼし、続いて1533年にはピサロがインカ帝国最後の皇帝となるアタワルパを殺害してインカ帝国を滅ぼした。しかし、スペイン人が強いる過酷な労働や彼らが持ち込んだ伝染病によって人口は激減し、先住民をキリスト教化することを条件に彼らを使役するエンコミエンダ制は維持できなくなった。果たして『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著して支配方法に抗議したドミニコ修道会のラス=カサスの主張の正しさが証明されたとも言える。また中南米世界が世界史の舞台に登場した影響は多大なものであった。16世紀後半に西欧では価格革命といわれる極端な価格上昇が起こり、中国においてもメキシコ銀がマニラ経由で持ち込まれた影響から1570年代になると好景気が訪れたため、張居正によって一条鞭法が江南地方から施行された。
19世紀の始めには逆に西欧世界の政治的混乱が中南米社会を大きく変質させることになった。カリブ海のイスパンヨーラ島のフランス領サン=ドマングでは「黒いジャコバン」と呼ばれたトゥーサン=ルヴォルチュルが独立運動を指導し1804年に世界最初の黒人共和国を樹立した。隣に位置するキューバではサン=ドマングから亡命した白人農場主が砂糖プランテーション経営を持ち込み、最大の砂糖生産地となった。そのためスペイン本国は各地から亡命者を受け入れつつ軍事的に植民地支配を強化した。そのような中、キューバの独立運動は1892年ニューヨークにキューバ革命党を結成したホセ=マルティによって独立戦争に発展した。1898年独立派の解放地域が島の半分に及ぶと、アメリカ合衆国大統領マッキンリーはメイン号事件を口実に独立戦争に介入してスペイン軍を駆逐し、キューバを軍政下に置いた。さらにプラット条項を受け入れさせ、外交権への干渉、バイア=オンダとグアンタナモ海軍基地の設置、相互の輸入関税の引き下げなどを認めさせて、事実上の保護国とした。
1933年Fローズベルト大統領はこれまでの強硬政策からいわゆる善隣外交に転換し、中南米諸国との通商関係拡大を図った。キューバに対しても1934年にプラット修正を撤廃したため、キューバは政治的独立を達成するに至り、親米バティスタ政権が成立した。
アメリカ合衆国の南部諸州は,1865年に南北戦争に敗北した後,北部共和党の主導の下で,荒廃した国土の再建を行うことになった。奴隷制を争点とした1860年の大統領選で奴隷制反対を標榜する共和党リンカンが合衆国大統領に就任すると,1861年南部が連邦から脱退し,ジェファーソン=デェヴィスを大統領とするアメリカ連合国を建国した。それ以来,合衆国は分裂の危機にさらされてきたが,南北戦争の終結により,南部諸州は再び連邦へ復帰することになった。そして,それまで南部諸州が主張してきた自由貿易と奴隷制の存続,州の自治の要求は退けられ,南部は北部産業資本の下で,全国的に統一された市場経済に組み込まれることになった。その結果,北部産業資本は急成長を遂げ,工業化を完成させたばかりか,1869年から80年代にかけて数本の大陸横断鉄道を開通させたことで,西部の自由農民を含めた国内市場の統合が進んだ。このことは,さらに工業化を促進させたため,1880年代にはトラストという形態による独占資本主義が成立し,アメリカは1890年代に次の段階,すなわち国内市場から国外市場への進出という帝国主義政策に展開していった。
一方,いわゆる再建期は,南北戦争終結直後から1877年まで続いたが,その間,南部は5つの軍管区に分けられ,連邦軍による軍政下におかれた。解放民局とよばれる政府機関が,解放された黒人奴隷への食糧の給付,仕事の仲介斡旋,教育や医療サービスの提供などを行い,占領行政において中心的な役割を果たした。
南北戦争中の1863年にリンカン大統領によって出された奴隷解放宣言は,1865年に制定された憲法修正第13条によって明文化され,翌年には,人種・肌の色・以前の隷属状態などに関わりなく,すべての合衆国市民が平等な立場で社会に参加できる権利を保障した公民権法も制定された。さらに1867年の再建法では,黒人に選挙権を与える規定をもつ州憲法を制定することが義務付けられた。
しかし南部の再建には,多くの困難が伴った。さまざまな法律上の改正が行われたにもかかわらず,連邦政府による黒人への土地の再配分は実現せず,農業以外の職業経験に乏しい黒人の生活はあまり向上しなかった。南北戦争前に広大な奴隷制綿花プランテーションを所有していた大農場主は戦後,土地を細分化し,住居や農具などとともに貸し出す農業方式を採用し,黒人をシェアクロッパー(分益小作人)として雇用することによって大きな利益を得た。
その一方で,南部の白人指導者たちは民主党の下で政治的な影響力を強めるとともに,州レベルで黒人取締法(ブラック=コード)を制定し,黒人が獲得した諸権利の剥奪を行った。また各地で,黒人の社会進出を恐れた白人至上主義団体が結成され,黒人を迫害した。なかでも,テネシー州で結成されたKKK(クー・クラックス・クラン)は,反黒人だけでなく,反移民・反カソリックを訴え,勢力を拡大した。その結果20世紀初頭までに,州法によって白人と黒人を日常生活の多くの場で人種別に分離する制度が,南部諸州を中心に確立されることになった。
アメリカ合衆国の西部への発展とともに,南北のセクション間の対立が激化した。南部は奴隷制の存続と自由貿易,政治面では州の自治すなわち地方分権を強く要求した。これに対し,北部は保護貿易と中央集権主義を主張し,また人道的に奴隷制に反対した。そこには,1812年戦争後から工業化が始まった北部は労働力を西欧からの移民に依存せざるを得なかったという背景があった。
1860年,北部の利害を代表する共和党のリンカンが大統領に当選すると,南部諸州は合衆国から離脱し,翌61年アメリカ連合国をつくってジェファーソン=デーヴィスを大統領に選び,ここに南北戦争がはじまった。63年,合衆国は南部反乱地域の奴隷解放宣言によって内外世論の支持を集めた。そして63年南北戦争最大の激戦となったゲティスバーグの戦いに勝利をえてから,北軍が優勢となり,65年南部の首都リッチモンドが陥落して南軍は降伏し,合衆国は再統一された。
独立直後には小国であったアメリカ合衆国は,19世紀を通じて,広大な北アメリカ大陸とその周辺において,その領土を絶えず拡大する。そして,国内の経済的基盤を強化し,政治的安定度を高めて,20世紀の世界に支配的影響を及ぼす国内的体制を固めたのである。ここでは,独立から南北戦争時までに注目しよう。
1783年9月にパリで調印された講和条約では,13植民地の独立と,ミシシッピ川にいたる領土が認められた。北の境界もこれまでのアパラチア山脈からはるかに広がって,五大湖地帯の一角にひかれた。新たに獲得したこの北西部の領有をめぐっては,以前から各州が領土権を主張していた。しかし,1777年に大陸会議で報告された後,最終的に1781年に全州の批准を終えた連邦規約では,各州が領土権を放棄して,連合全体に帰属されるものと定められていた。
1800年時点の合衆国は,独立時の13州にヴァーモント,ケンタッキーとテネシーを加えた16州からなっていた。1803年のフランスのナポレオンからのルイジアナ購入によって,合衆国はミシシッピ川の西にこれまでの領土を倍加する領域を確保し,同時に交通の動脈であるミシシッピ川を支配した。これによって,西部への進出の基礎をかためたのである。
1812年戦争(第二次英米戦争)のあと,1818年には,イギリスとの間で北西部の国境線を定めた。さらにオレゴンを英米の共同領域とすることによって,合衆国領土は,ついに太平洋岸まで到達した。1819年には,スペインからフロリダを買収し,南西部ではスペイン領メキシコとの国境線を定めた。
1840年代には,領土がさらに拡大する。まず,1846年にイギリスとの間での緊張ある交渉を経て,オレゴンの北緯49度線以南を領有する条約を締結する。南西部では,1821年に独立したメキシコ領のテキサスに関して,1844年に併合条約を調印し,1845年に議会の承認をえてこれを併合した。さらに,1846~48年のアメリカ・メキシコ戦争での勝利を経て,1848年にカリフォルニアとニューメキシコの一部を買収する。またこの年カリフォルニアでゴールドラッシュが起こり,政治的混乱が続く西欧からの移民を受け入れることになった。
これによって,合衆国は北アメリカ大陸の中心部において,西は太平洋から東は大西洋までの,南はメキシコ湾を臨む領土を持つ大陸国家になる。そして,後に1867年には,ロシアからアラスカを購入した。
合衆国の領土拡大は,ヨーロッパを舞台とする主要国間の戦争・抗争とも関連している。特に1823年に合衆国が,それまでに独立を達成したラテンアメリカへのヨーロッパ諸国の干渉に対して,西半球の問題に対してヨーロッパ列強は干渉すべきでない,という原則すなわちモンロー宣言をうちだしたことが注目される。これは保守的なウィーン体制の反自由主義・反国民主義という政治姿勢が西半球世界に波及することを嫌ったともいえる。一方,このことは合衆国が西欧世界の国際関係,この時点では君主国によるウィーン体制から距離を置くことも意味していた。このモンロー宣言の孤立外交政策は,その後の合衆国の外交姿勢の原則となり,合衆国が1917年に第1次世界大戦に参戦するまで約100年間存続した。
他面においてこの領土拡大は,先住民の土地を,合衆国とヨーロッパ諸国が各自の領土と呼称し,相互に売買し,奪いあった結果でもあり,先住民を鎮圧し,強制移住させながら進んだ。
19世紀前半までに新たに獲得された西部の領土において,奴隷制度の導入を許すか拒絶するか,という難問が生じる結果となった。これは,連邦議会や大統領選挙での争点になり,1861年からの南北戦争をもたらす大きな要因のひとつになった。
この領土拡大が進んだ19世紀半ばまでに,産業面では,南部での綿花栽培の拡大,北部の製造業や西部自由農民が従事した農業の機械化による発展があった。