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農民を苦しめた?煬帝

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【隋】の第2代皇帝は、【煬帝】(本名は【楊広】)です。かれには2つの大きな業績があります。そのうち後世まで彼の政策の恩恵を受けたのが、【大運河】の開削事業でした。南北朝時代の南朝諸王朝が、【長江下流域】の農地を開墾したため、【江南地方】は一大農業地帯となっていました。これは漢の時代には見られなかったことです。
 このように農業地帯となった【江南地方の経済力】と【消費地である華北】とを結びつける目的で大運河は開削されました。とくに【通済渠】という運河は、長江(正確には淮河)から黄河までを結ぶ運河です。隋の都【大興城】(【長安】)は貴族たちだけが住んでいましたから、この消費都市長安に江南から穀物が運ばれてくるということは、非常に重要なことでした。
 【494】年【孝文帝】による【漢化政策】によって【鮮卑族】が華北に移住してしまったモンゴル高原で【552】年に【突厥】が成立し、まもなく西域(中央アジア)をも支配する大帝国を建設していました。彼らがササン朝ペルシア【】の【ホスロー1世】と組んで中央アジアにいた遊牧民族【エフタル】を挟撃したことは有名です。
 この大帝国【突厥】が、【朝鮮半島北部】にあった【高句麗】と同盟を結んで、統一まもない隋と対立していました。隋の煬帝は両国の同盟を破るために、3度に及ぶ【高句麗遠征】を行ないました。兵員や物資を北方に送るために大運河【永済渠】を建設したほどの力の入れようでした。
 しかし、煬帝が行なった3度の高句麗遠征は【3回とも失敗】に終わりました。大運河の開削という大事業に疲れ、さらに高句麗遠征が失敗したために、煬帝に対する不平不満は頂点に達し、各地で農民反乱が発生して、隋は滅亡していきました。

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