FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

メキシコ史

2014年10月28日 | 高3用 授業内容をもう一度

現在のメキシコ・シティはテスココ湖の湖上に位置し、アステカ王国の時代にはテノチティトランと呼ばれた。アステカ人は都市の中心部に大ピラミッドを建設したが、その頂には太陽神ウィツィロポチトリと豊穣の神トラロックの神殿を祭っている。メソアメリカ文明にはピラミッドの遺跡が多く残されている。メキソコ・シティの北西50Kmほどにあるテオティワカンの「太陽と月のピラミッド」は、宇宙観・宗教観に基づいて計画的に建設されたものと考えられている。また、南米のインカは行政組織が整備された帝国で、帝国の領土は4つのスーユに分割統治され、さらにワマンに細分化された。これらは道路網によって結ばれ、要所には軍事都市や宿場が置かれていた。

 1492年コロンブスによって中南米世界は世界史の舞台に登場した。しかしそれは現地の人々にとっては過酷な歴史の始まりを意味していた。1521年にはコルテスがアステカ帝国を滅ぼし、続いて1533年にはピサロがインカ帝国最後の皇帝となるアタワルパを殺害してインカ帝国を滅ぼした。しかし、スペイン人が強いる過酷な労働や彼らが持ち込んだ伝染病によって人口は激減し、先住民をキリスト教化することを条件に彼らを使役するエンコミエンダ制は維持できなくなった。果たして『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著して支配方法に抗議したドミニコ修道会のラス=カサスの主張の正しさが証明されたとも言える。また中南米世界が世界史の舞台に登場した影響は多大なものであった。16世紀後半に西欧では価格革命といわれる極端な価格上昇が起こり、中国においてもメキシコ銀がマニラ経由で持ち込まれた影響から1570年代になると好景気が訪れたため、張居正によって一条鞭法が江南地方から施行された。

 19世紀の始めには逆に西欧世界の政治的混乱が中南米社会を大きく変質させることになった。カリブ海のイスパンヨーラ島のフランス領サン=ドマングでは「黒いジャコバン」と呼ばれたトゥーサン=ルヴォルチュルが独立運動を指導し1804年に世界最初の黒人共和国を樹立した。隣に位置するキューバではサン=ドマングから亡命した白人農場主が砂糖プランテーション経営を持ち込み、最大の砂糖生産地となった。そのためスペイン本国は各地から亡命者を受け入れつつ軍事的に植民地支配を強化した。そのような中、キューバの独立運動は1892年ニューヨークにキューバ革命党を結成したホセ=マルティによって独立戦争に発展した。1898年独立派の解放地域が島の半分に及ぶと、アメリカ合衆国大統領マッキンリーはメイン号事件を口実に独立戦争に介入してスペイン軍を駆逐し、キューバを軍政下に置いた。さらにプラット条項を受け入れさせ、外交権への干渉、バイア=オンダとグアンタナモ海軍基地の設置、相互の輸入関税の引き下げなどを認めさせて、事実上の保護国とした。

 1933年Fローズベルト大統領はこれまでの強硬政策からいわゆる善隣外交に転換し、中南米諸国との通商関係拡大を図った。キューバに対しても1934年にプラット修正を撤廃したため、キューバは政治的独立を達成するに至り、親米バティスタ政権が成立した。

 

 


最新の画像もっと見る