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唐と高句麗の関係

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 隋の煬帝は高句麗に対して3回の遠征を試みましたが、すべて失敗しました。高句麗遠征失敗の結果、隋は滅亡しました。中国を統一した王朝であった隋の攻撃をなぜ高句麗がしのぐことができたのでしょうか。それは、当時、モンゴル高原で出現した突厥帝国と高句麗が軍事的に連携していたためであるとされています。突厥が建国した552年は、隋の建国の581年より30年前のことです。
 唐の太宗(李世民)も高句麗遠征を試みましたが、これも失敗しました。そこで彼は朝鮮半島の南東部にあった新羅と643年に唐羅同盟を結び、高句麗を南北から挟撃する計画を立てました。当時の新羅国王は金春秋(武烈王)です。
 唐3代皇帝高宗になると、唐と新羅の同盟軍は、まず660年に朝鮮半島南西の百済を征服。さらに南北から高句麗を襲いました。そして668年に高句麗を滅ぼし、唐は平壌に安東都護符をおきました。また、新羅は百済の地を征服し半島南部を支配しました。その間、百済再興を狙った日本軍が663年に朝鮮半島に上陸したものの、白村江の戦いで敗北しています。このとき、百済人の多くは日本に亡命しています。
 高句麗の遺民は北に逃れて698年に渤海を立てました。大祚栄が渤海の建国者ですが、渤海は「海東の盛国」と呼ばれ、日本との交流が盛んであった国です。
 その後、新羅は唐の安東都護符が置かれていた平壌を攻撃し、朝鮮半島を統一しました。その結果、唐の安東都護符は遼東半島に撤退を余儀なくされました。

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