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唐の辺境支配

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 唐は万里の長城を建設しなかった王朝です。ではどのようにして防衛にあたったのでしょうか。まず、周辺の外国に対しては「【冊封】」関係を結びました。その外国の君主を国王とし、唐の皇帝の臣下の地位に置きました。その代償として、その外国は唐との貿易(これを【朝貢貿易】といいます)ができますし、文化や制度の導入がうまくいくわけです。
 軍事的に非常に強力であった唐の初期は、積極的に対外遠征を行い、周辺国を征服しました。ただし征服された民族に大しては非常に寛容な政策を採っています。現地の部族長に自治権を認め、間接的に統治する方法をとり、その部族長を監視したり、外国が攻撃してきたときに対処するために【都護府】を現地に設置しました。都護府が部族長に【間接統治】をさせる政策を【覊縻政策】と呼びます。
 しかし、700年前後に起きた【武韋の禍】という中央政界の混乱によって、それまでおとなしくしていた辺境の部族長の中から反乱を起こすものが現れたり、外国が攻撃してきたため、唐は710年に都護府による辺境支配をあきらめ、【節度使】を設置しました。節度使は辺境の部族を軍事的に支配し、外国の侵入にも対処する制度です。【軍事権】を持ち、独自の判断で行動できるため、軍事的危機にはすぐに対処できる利点がありました。
 しかし、この節度使の任を3つ兼務した【安禄山】が反乱を起こし、唐は大混乱におちいりました。【755】年~【763】年まで続いた【安史の乱】です。この大反乱に対して唐は節度使を辺境以外の長安周辺にも設置し、【ウイグル】の協力を得て鎮圧しました。
 安史の乱後、唐の軍事・防衛は辺境ばかりでなく内地にも設置された節度使が握るようになりました。強力な軍隊を持っていた彼らは、軍事権・徴税権にくわえ行政権も持ち、唐の政府の言うことを聞かずに【半独立】状態になり、【藩鎮】と呼ばれます。安史の乱後の唐は藩鎮が乱立する混乱期であったといえます。


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