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ガンダーラ美術

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【ガンダーラ美術】を【ギリシア式仏教美術】と規定したのはフランスのフーシェです。彼によれば、ギリシア彫刻の技法と仏教徒の形態とが影響しあって成立したといいます。
 その歴史的背景は、前326 年【パンジャブ地方】にまで達した【アレクサンドロス大王】の東征の際にギリシア人が【バクトリア地方】に定住しました。その後、前2世紀初、【マウリヤ朝】の衰退を期に、【パンジャブ 地方】に彼らが侵入し、インド 内に定住していったのですが、この時、仏教に帰依した者も多く、その結果、ギリシア式の神々の表現方法が仏教に採り入れられ、仏像が成立していった考えられています。それまで仏教では仏陀の姿を形に表すことは無かったのです。


グプタ文化

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 グプタ朝時代の文化の特徴は、第1に、絵画や文学においてヘレニズム文化の影響が見られなくなり、代わって【純インド風】の文化が成立した点をあげることができます。
 2点目には、【マヌ法典】が完成したこと、さらに「【マハーバーラタ】」や「【ラーマーヤナ】」といった、日本の「古事記」や「日本書紀」のように、社会のモラルや秩序を高めるための神話が書かれました。マヌ法典は【ヒンズー教】の経典です。これらは【サンスクリット語】で書かれました。
 また、【カーリダーサ】が登場して【サンスクリット文学】を興したことも重要でしょう。彼の代表的な作品は「【シャクンタラー】」です。シャクンタラー姫の物語は、ゲーテの『ファウスト』に影響を与えているといわれています。

インドで仏教が衰退したわけ

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 世界史のレベルでの話になります。現在インド共和国ではヒンドゥー教徒が85%程度います。イスラム教徒も12%程度います。しかし現在のインドには仏教徒は2%にも満たない状況です。
 仏教が成立した国のはずのインドで、なぜこのように仏教徒の比率が低いのでしょうか。その理由としてグプタ朝時代の仏教のあり方があげられます。当時の仏教は「学問」としての仏教、という方向性が強まっていました。そのようなニーズがあったのかもしてません。現在のように経済学や政治学や気象学などといった学問は、当時のインドには存在していませんから、その役割を仏教の「お経(仏典)」がかわりに担ったわけです。
 優秀なお坊さんたちが1000人以上もナーランド僧院で仏典の研究をしていたそうです。ナーランド僧院は一大研究センターといった感じでしょうか。優秀な人材が学問研究にかかわっていったことは、逆にいえば、仏教という宗教一般の人々に布教する人材が不足する、ということです。
 一方、日本では仏教が広まりました。これには平安時代の末期に登場した法然や親鸞が果たした役割が非常に大きいのです。鎌倉仏教には仏教を日本の一般の人々に布教した功績があります。また、東南アジアの仏教も盛んであるといえます。東南アジアの人々は「戒律」に従って生活することで、社会の安定を築こうとしたのです。
 この「戒律」にしたがって生きるとはどのような生活か?という問いを持って義浄は長安を出発しました。しかし、インドのナーランド僧院では「戒律」に従う生き方はなく、彼は東南アジアのシュリヴィジャヤ王国の都パレンバンでその生活に触れたわけです。

ハルシャ=ヴァルダーナ王

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 7世紀に登場したハルシャ=ヴァルダーナ王の時に、ヴァルダーナ朝は全盛期を迎えました。グプタ朝が6世紀後半に中央アジアの遊牧民族エフタルの侵入によって滅亡してから50年ほどたった時代です。
 ハルシャ=ヴァルダーナ王は玄奘が面会して「戒日王」と記録した王として有名です。また、彼の時代までがインドで仏教が栄えていたといえます。しかし、北インドを支配したハルシャ=ヴァルダーナ王が亡くなると、ヴァルダーナ朝は推定しました。

秦の万里の長城 ダイジェスト

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 匈奴から中国を守るために作られた万里の長城ですが、その建設の負担は非常に大きなものでした。秦の万里の長城は、着工から15年ほどで完成しましたが、その建設費は200億ドルであると試算されています。奴隷に近い立場の労働力に頼ることができたからこそ、この額で済んだといえます。もし、現在、万里の長城を作るとしたら、その10倍以上の2600億ドルかかると考えられています。これは全米で1年間に使われる建設費の半分に相当する額に相当します。

 長城の建設には、はじめのうちは奴隷や犯罪者を使用しましたが、それでは足りず、多くの一般農民も徴用されました。当時の中国人の人口は約500万人。その内70%にあたる350万人が長城の建設にかり出されたといわれ、さらに100万人を超える労働者が命を落としたとも言われています。人柱として生き埋めにしたという伝説も残されているほどです。

 多くの働き手を奪われて、農村は著しく荒廃しました。そのため、前209年中国史上初の農民反乱である「陳勝・呉広の乱」という大農民反乱が発生し、その混乱の中で秦は滅亡していきました。国を守ろうとして建設した長城でしたが、その負担の大きさから、秦は滅んでしまったわけです。

秦末の混乱 項羽と劉邦

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 前209年に発生した【陳勝呉広の乱】をきっかけに、秦による中国の統一は崩れ去っていきました。各地で農民が蜂起し、それを地方の【豪族】が兵を集めて自力で鎮圧していったのです。つぎにはその豪族同士が軍隊をぶつけ合う乱世になりました。
 この乱世の中で頭角を現してきたのが【楚】の名門出身の【項羽】と、農民出身の【劉邦】でした。彼らは垓下の戦いで雌雄を決し、項羽が敗れて自害したため、【劉邦】が中国の統一を実現しました。彼ら2人の攻防は「【四面楚歌】」などの漢文で目にする場面です。

蘇秦と張儀の合従・連衡

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【戦国の七雄】が覇を争っていた頃、中国には【諸子百家】が登場して、社会のモラルの再建や平和な暮らしの追求を思索していました。
 なかでも【蘇秦】は「【合従策】」を説いて各国を遊説して回りました。いわゆる【蘇秦の遊説】です。合従策とはもっとも強力であった秦に対抗するために、他の6各国が軍事同盟を結ぶというアイディアです。
 合従策が崩れると【張儀】が登場して「【連衡策】」を提唱しました。これは秦以外の6カ国がそれぞれ独自に強国秦と和平協定を結ぶというものです。

秦の孝公と始皇帝

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 戦国の七雄の1国である秦は、【前4世紀】の【孝公】の時代から強大化しました。秦王孝公を補佐したのは【法家】の思想家である【商鞅】でした。彼は非常に厳格な法治主義者として有名です。孝公は秦国内を36郡に分ける【郡県制】を実施し、秦が強大になるための基礎を築きました。
 その後、【前221】年に秦王【政】が歴史上初めて中国を統一しました。彼は宇宙の支配者という意味の【皇帝】という称号を創設し、したがって今までの王という称号はたんに中国の1地域の支配者が用いる称号になりました。
 始皇帝の最大の政治課題は中国の統一を維持する点にありました。そのために彼は生涯にわたって中国各地を移動して、支配者として君臨する自分の姿を人々に見せて回ったのです。もちろん、【郡県制】を中国全土に施行して中央集権体制の確立を急ぎました。また、諸子百家といわれるような多様な思想に対する弾圧を加え、【法家】の思想を国家の中心にすえました。とくに前213年と前212年に行なった【焚書坑儒】の事件は有名です。この事件を始皇帝に提案したのは法家の【李斯】でした。焚書から除外された書物は【医学書と農業書】ですが、坑儒では【儒学者】たちは数百人殺害されています。 
 始皇帝は経済に関する統制も強化しました。各国で鋳造されていた青銅貨幣は秦の【半両銭】に統一。【度量衡・車軌】、【文字】も統一。さらに【臨淄】などにいた商人達を都の【咸陽】に集めています。
 始皇帝は北方の【モンゴル高原】で拡大していた【匈奴】が中国の農地を荒らすのに対しても手を打つ必要がありました。将軍【蒙恬】を派遣して【オルドス地方】の匈奴を追い払った上で、10年間で2000Kmにおよぶ【万里の長城】を作らせました。この万里の長城は戦国時代の【燕・趙・秦】の3国が作っていた長城を修復延長したものです。この長城建設により、匈奴から中国を守るという防衛上の目的のほかに、中国の支配者としての皇帝の偉大さを内外に示す意図があった考えられます。
 しかし、始皇帝がなくなると万里の長城建設などに対する人々の不満から、前209年【陳勝・呉広の乱】が発生し、秦はこの反乱がきっかけとなって滅亡していきました。






「万里の長城」その1 秦と漢の長城 �

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
(1) 秦の長城
� 中国の統一
 中国にはすでに、前16世紀頃から、殷という王国が存在していました。この国は司馬遷の「史記」に記述されていますが、20世紀になるまでは伝説の国であると考えられていた国です。しかし、甲骨文字の発見でその存在が証明され、今ではその都である殷墟も確認されています。

 その後、殷がほろびたあとに周が成立しましたが、やがて混乱し、前770年から春秋時代が始まりました。この時代は分裂の時代でしたが、諸子百家という多くの思想家を輩出した時代でもありました。とくに、儒教をおこした孔子と、無為自然を唱えた老子は有名です。孔子の思想は「論語」に記録され、孟子や荀子を経て、現在の東アジア一帯に「儒学」として受け継がれており、朝鮮半島の人々や、日本人の生活にも影響を残しています。一方、老子の思想は「道家」の思想として、その後の中国社会思想の重要な源となりました。

 前5世紀頃からの中国を戦国時代と呼びます。この時代、戦国の7雄が中国の統一を目指して対抗していました。漢文でよく読まれる時代です。その後、前224年、中国華北一帯を支配する秦王の政が、中国華南を支配する楚を攻撃し、秦が圧倒的な勝利を得ました。それから3年の間に、秦王政はその他の小国を次々に征服し、前221年に中国の統一を達成しました。秦による中国統一です。秦王政は「始皇帝」を称しました。

� 始皇帝と匈奴
 万里の長城は、匈奴の騎馬軍団から中国北部の農村を守るために作られました。当時、北方のモンゴル高原を支配していた匈奴は、中国の人々にとって、家畜や人間を奪い去っていく恐ろしい存在でした。その頃、匈奴はすでに華北の一部を領有し、始皇帝の秦の領土をも脅かそうとしていました。そのため、始皇帝は中国統一から6年後、匈奴の侵入を食い止めるため、万里の長城の建設に取りかかします。軍事的側面から考えると、城壁を前にすれば、どんな敵も立ち止まらざるを得ないからである。馬に乗って動き回るやっかいな敵をしとめるには最善の方法であったといえます。

� 秦の万里の長城
 万里の長城は土と石でできています。この点においては、エジプトのピラミッドも同じですが、その規模は桁違いであるといえます。有名なギザにあるクフ王のピラミッドは、10万の労働者が毎年3ヶ月間働いて、20年かけて建設したといいます。しかし、万里の長城に要した労働力は、ピラミッド30個分に相当します。30個分の巨大なピラミッドを連ねて建設するのに匹敵する大事業であったわけです。

 長城の建設の総指揮を執ったのは蒙恬でした。彼は、まず30万の軍勢を率いてオルドス地方を攻撃し、そこにいた匈奴を北に追いやり、すぐに長城の建設に取りかかりました。壁の高さは5mくらい、長さは2000kmの万里の長城の建設が始まったわけです。

 この秦の長城は、朝鮮半島の付け根から内モンゴルを通り、黄河の中流域まで及びました。一般には地中深くから掘り出した土を木枠の中で踏み固める作業で作られていきましたが、砂漠地帯の内モンゴルでは、陰山山脈で採掘された石を使用して、これを積み重ねることで建設されていきました。

 匈奴を一カ所に集めて戦うために、わざと手薄な部分の長城を作ることもありました。これは軍隊を効率よく配備するためである。敵が堅固な長城を避けて手薄な箇所に集中することを予測すれば、長い防衛ラインに対して有効に軍隊を配備できるからです。また、戦闘能力に長けた匈奴と戦うために、安定して矢を放つことができる弩(いしゆみ)が発明され、さらに鉄剣の大量生産も行われました。ヨーロッパで鉄剣が広く使われるようになるのが12世紀になってからであることを考えると、古代中国の工業生産力の高さが際だってきます。万里の長城と新兵器によって、秦は初めての統一国家を北方遊牧民族の匈奴から守り抜くことができたのです。

 さらに始皇帝は「秦の直道」も建設しました。秦の都である咸陽から万里の長城まで、道幅50m長さ700kmにおよぶまっすぐな道路を建設し、北方に敵が迫ったとき直ちに大群を派遣できるようにしました。この「秦の直道」も万里の長城同じ工法で建設されていますが、万里の長城の一部と考えていいでしょう。

� 秦の滅亡
 匈奴から中国を守るために作られた万里の長城ですが、その建設の負担は非常に大きなものでした。秦の万里の長城は、着工から15年ほどで完成しましたが、その建設費は200億ドルであると試算されています。奴隷に近い立場の労働力に頼ることができたからこそ、この額で済んだといえます。もし、現在、万里の長城を作るとしたら、その10倍以上の2600億ドルかかると考えられています。これは全米で1年間に使われる建設費の半分に相当する額に相当します。

 長城の建設には、はじめのうちは奴隷や犯罪者を使用しましたが、それでは足りず、多くの一般農民も徴用されました。当時の中国人の人口は約500万人。その内70%にあたる350万人が長城の建設にかり出されたといわれ、さらに100万人を超える労働者が命を落としたとも言われています。人柱として生き埋めにしたという伝説も残されているほどです。

 多くの働き手を奪われて、農村は著しく荒廃しました。そのため、前209年中国史上初の農民反乱である「陳勝・呉広の乱」という大農民反乱が発生し、その混乱の中で秦は滅亡していきました。国を守ろうとして建設した長城でしたが、その負担の大きさから、秦は滅んでしまったわけです。


法家と儒家

2014年10月08日 | 高2用 授業内容をもう一度
 戦国時代の秦王【孝公】は、【商鞅】を用いて法家の思想に基づく政治を行ないました。厳格な【法治主義】は人々の不満を買う一方で、中央集権的な国家作りに役立ったといえます。秦の【始皇帝】も法家の【李斯】を用いています。李斯の進言で、前213年に【焚書】、前212年に【坑儒】を実施し、【儒家】を弾圧しました。ただし、焚書のときでも、【医学書】と【農業書】については焼くことをしませんでした。
 前漢の【武帝】になると、法治主義は政治の前提条件となり、社会のモラルをあげるために【儒学】の思想が利用されました。【董仲舒】は儒学の国学化を武帝に進言し、【五経博士】という研究所を設置しました。これ以後、儒学は国家権力と結びついて、中国諸王朝の伝統的な思想になりました。
 儒学が政治の舞台により接近したのは、【新】の【王莽】の時でした。王莽は【周礼】を復活させたことで知られる皇帝です。その背景には、周の社会を理想とする儒学者たちが活躍していたことは明らかでしょう。
 儒学者が政治に登場した新の時代から約150年後になると、外戚と結びついた宦官の一派と、儒学者たちによって政治の主導権をめぐる争いが起きています。この時期の儒学者を【党人】と呼びます。この両者の争いは、【166】年に【党錮の禁】で決着します。つまり党人(儒学者)が禁固刑に処せられたり、正解から追放されたのです。
 追放された儒学者たちは政治の舞台から離れ、経書に書かれてある字句の研究に専念しました。このような学問を【訓詁学】といい、その代表的な学者は【鄭玄】などでした。訓詁学は、古い経書が代々書き写されていく過程で、写し間違いや書き損ないによって生じた経書の違いについて、どの字句が正しい原本に近いのかを突き止めようとするものでした。