FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

第1次世界大戦 イタリアの参戦

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1881】年【フランス】がオスマン帝国領【チュニジア】を併合すると、安全保障上の理由からチュニジア領有を目指していた【イタリア】は【ドイツ】に接近。【1882】年【3国同盟】が締結された。しかし、墺伊間は「【未回収のイタリア】」問題と【アルバニア】領有問題で争点を抱えており、【1902】年【仏伊協商】でオスマン帝国領【トリポリ・キレナイカ】の権益をフランスがイタリアに認めると、事実上、3国同盟は瓦解した。


第1次世界大戦 日本の参戦

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1902】年の【日英同盟】を口実に参戦した。日本はドイツが持つ【太平洋】と【中国】の植民地を攻略することが目的であった。すなわち、【山東半島】にあるドイツ権益(【膠州湾】・【青島】)を獲得し、ここを足掛かりに華北侵略をもくろんで、【1915】年【袁世凱】政権に対して「【21ケ条要求】」を強要したのである。大戦中であるため列強をこの行為に干渉できず、アメリカも【1917】年【石井・ランシング協定】で、含みをもたせながらも、中国における日本の特殊権益を認めた。しかし、この協定は【1922】年【ワシントン会議】の「【9ケ国条約】」で破棄される。


第1次世界大戦 イギリスの参戦

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ドイツの両面作戦で【シュリーフェン作戦】に従い、ドイツはフランスを急襲するためにフランス軍の防備が薄い【ベルギー】国境からフランス領内に陸軍を展開した。これに対してイギリスはドイツが「【ベルギーの中立侵犯】」を理由にドイツに宣戦布告した。

イギリスの参戦理由のチェック・ポイント
�ドイツ の両面作戦
=シュリーフェン作戦
�参戦の理由
=ドイツによるベルギーの中立侵犯
�参戦の年
=1914年8月


第1次世界大戦 塹壕戦

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

戦争がはじまったとき,ほとんどの人々は戦争は短期間で終わると予想し、クリスマスは家族で迎えることができると考えていた。しかし,開戦直後【シュリーフェン】作戦にのっとり【ベルギーの中立】を侵犯し、パリ近郊まで迫ったドイツ軍だったが、9月初めの【マルヌの戦い】でフランス軍に押しもどされてから,西部戦線では著しい死傷者をともなう「塹壕戦」が展開された。
 1916年の【ヴェルダン】攻防戦では双方で70万人,史上初めて【イギリス】軍により【タンク】(戦車)が投入された【ソンムの戦い】では150万人の死者を出した。これら戦場で死傷した兵士の数は第2次世界大戦で戦場で死傷した兵士の数より圧倒的に多い。第1次世界大戦の戦死者は、フランス革命からナポレオン戦争までの約4倍にあたる802万に達する。
 一方、東部戦線では,【ヒンデンブルク】将軍に率いられたドイツ軍が、開戦直後に攻め込んできたロシア軍を【タンネンベルクの戦い】で破り,1915年にはポーランドやリトアニアを占領したが,その後はやはり戦線が膠着した。ドイツは当初、ロシア軍がドイツ国境船に尖塔配備されるには時間を要するであろうと考えていたが、これは誤算であり、ドイツは両面作戦を余儀なくされた。
 また、大戦は技術戦でもあり、新兵器が続々と投入された。【毒ガス】・【タンク】(戦車)・【潜水艦】・【飛行機】・飛行船などが,新たに戦闘に用いられた。また,日露戦争で初めて実戦配備され改良された機関銃による一斉射撃が,死傷者の数を著しく増やし,大砲による絶えまない砲撃は,戦場となった地域の自然をも徹底的に破壊した。


第1次世界大戦 長期戦化の影響

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 戦争が「【長期化】」したことで,大戦は国民全体の協力を必要とする【総力戦】となった。工業生産力の大部分が軍需生産にあてられ,兵士となった男性にかわって多くの女性がさまざまな職場に進出し、また,物資や食料を計画的に割りあてる戦時経済体制が導入された。また、国民に対する戦争の正当化も政府によって行われた。クリミア戦争で活躍したナイティンゲールを偶像化し、後方支援体制に女性を組み込む体制が整備された。
 総力戦は,とくに英・仏の植民地の多くの人々をも巻き込み,【インド】からだけでも144万もの人々が兵士や労働力として動員された。総力戦を戦いぬくために,イギリスでは【ロイド=ジョージ】首相,フランスでは【クレマンソー】首相,ドイツでは軍の最高司令部のもとで,強力な指導体制がつくられ、どこの国でも,総力戦をささえる民衆や女性の存在は,大戦前に比べて重みを増していった。
 人々は,総力戦のために課される多大な犠牲に対する見返りを要求するようになり,しばしば政府の側も,戦争が終了したあとでなんらかの改革を実施することを約束しなければならなかった。それでも,長びく戦争に嫌気がさした人々の数は増えていった。とくに,イギリスによる海上封鎖のために食料事情が悪化したドイツでは,戦争の継続に反対する人々が,1916年に【社会民主党】から分かれて【独立社会民主党】を結成し,また,各地で労働者たちのストライキが繰り返された。


長期戦・消耗戦・総力戦としての第1次世界大戦

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 第1次世界大戦が長期化すると、国民生活を巻き込む始めての戦争となった。2次元的にしか展開しない戦場は、【塹壕】が掘られたために膠着し、開戦時からほんの数キロメートルの攻防が繰り返されるのみであった。その結果、戦争の勝敗はその国の持つ工業力の体力に左右される可能性が高まった。
 英仏海軍は消耗戦を優位に展開するために、ドイツと中立国や植民地とを遮断するための方策を採った。イタリアを味方につけバルカン半島の戦場を優位にし、海上からドイツの艦船を締め出すことに成功しはじめた。ドイツは独力でこのような情勢を乗り越えていたが、もっとも早く疲弊したのはロシアであった。ロシアは大戦前に急激に工業化してきた歪みが噴出し、国民経済はほぼ完全に破壊され、【反戦運動】が各都市で発生した。
 【1917】年3月ロシア革命が発生するとドイツ軍は東部戦線から西部戦線に展開され、一気にドイツ軍が戦況を優位にするかに見えた。そのとき、【アメリカ】が、【1823】年の【モンロー宣言】以来続けていた【孤立外交】政策を放棄して大戦に参戦する。しかし、アメリカ軍がフランスに上陸するのは夏ころになった。この結果、ドイツの優位は失われ、戦争は再び消耗戦に戻る。
 しかし、戦争の終結に新しい要素がこのとき加わった。1点目は、【ウィルソン】大統領の【14カ条】で提案された、【民族自決権】と【恒久的国際平和機構】の創設というような、多数決で紛争を解決するという「民主主義的理想」。2点目は、ロシア11月革命成功直後、【レーニン】が「【平和に関する布告】」で提唱した【無賠償・無併合】、資本主義社会の歪みから生じた帝国主義を否定する「社会主義的理想」である。レーニンの呼びかけは資本主義の下で苦しい生活を余儀なくされていた労働者などの民衆に対するもので、戦後のあたらしい社会が彼らの手の内に入という夢を提供していた。この新たな要素にしたがって、ドイツでも反戦運動が発生し、消耗戦によって勝敗が決する前、【1918】年11月に【ドイツ革命】が発生してドイツ帝国が消滅するという形で、戦争が終結した。


バルカン戦争

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1902】年【仏伊協商】の成立を受けて【1911】年【イタリア】がトルコ領【トリポリ・キレナイカ】(現在の【リビア】)に侵攻。トルコの【】青年トルコ党政権は反撃したが、この機に乗じて、【セルビア】・【モンテネグロ】・【ギリシア】・【ブルガリア】が結成した【バルカン同盟】諸国がトルコ領【マケドニア】に侵攻した。【第1次バルカン】戦争はバルカン同盟側が勝利。しかし今度は、その【マケドニア分割】を巡って【ブルガリア】が孤立すると、【トルコ】・【ルーマニア】も加わり第2次バルカン戦争が発生した。

★第1次バルカン戦争のシェック・ポイント
�対戦国
=バルカン同盟4国VSトルコ
�時期
=1912~13年
�敗戦国
=トルコ
�結果
=マケドニアとトラキアがバルカン4国に割譲された。セルビア=この間アルバニアを占領してトルコに領有を認めさせた。

★第2次バルカン戦争のチェック・ポイント
�対戦国
=�ブルガリア�セルビア・ギリシア・モンテネグロ・ルーマニア・トルコ
�時期
=1913年
�原因
=マケドニア・トラキアの分配を巡るバルカン同盟内の対立
�結果
=ブルガリアが敗北。ブルガリアはドイツに接近していった。


バルカン諸国の独立

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1878】年の【ベルリン会議】で【セルビア】・【モンテネグロ】・【ルーマニア】のトルコからの独立が認められた。また、【ブルガリア】には【自治権】が与えられ、この段階でバルカン問題は一応の決着を見た。
 しかし、【1908】年の【青年トルコ党の革命】を機に、ブルガリアが独立し、【ボスニア・ヘルツェゴビナ】を【オーストリア】が【併合】すると、セルビアがロシアと結んでこれに対抗しようとした。その結果、オーストリアとセルビアの対立が顕著となった。さらに第1次バルカン戦争中にセルビアは【アルバニア】を領有したが、アルバニアはセルビアの統治に抵抗し、【1912】年11月にオーストリアの支援を受けて【独立】を達成してしまった。このアルバニア問題で、セルビア、オーストリア両国の関係は最悪の状態となり、【1914】年【サライェヴォ事件】を迎えた。


東方問題

2014年10月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 西欧各国から見て「東方」にあるバルカン半島およびエジプトで発生した諸問題を総称して「東方問題」と呼びます。具体的には、【1821~29】年の【ギリシア独立】戦争や【1831~33】年の【第1次エジプト】事件と【1839~30】年の【第2次エジプト】事件を指しますが、これらを、フランス革命の影響を受けたギリシア人やエジプト人の【国民主義】と捉えることができます。
 当時、これらの地域を支配していたのは【オスマン帝国】でした。しかし、この独立運動は単なる国民主義の運動とだけ捉えるわけには行きません。それは、ロシアの【南下政策】が絡んだ国際問題だからです。ロシアの港は10月以降になると半年間も氷に被われてしまいます。したがってロシアの経済活動は冬の間停止してしまうわけです。そこで凍らない港すなわち「【不凍港】」をロシアは必要としており、そのために「南下政策」がとられました。
 一方、産業革命が進んだイギリスは、【綿花】の生産地である【インド】の支配を最重要政策に位置づけました。安定してインドから綿花を持ってくるには、インド洋や地中海の安全が不可欠です。バルカン半島は地中海に出ている半島ですから、もし仮に、ロシアがバルカン半島をオスマン帝国に変わって影響下においたり、黒海と地中海を自由に軍艦を行き来させては困るわけです。そのためイギリスはロシアの南下政策を封じ込める必要があり、結果的にロシアとイギリスの対立が、オスマン帝国からの独立を目指すギリシアやエジプトの問題を、国際問題に発展させてしまったのです。