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19世紀前半の合衆国の領土拡大とその影響

2014年10月28日 | 高3用 授業内容をもう一度

 独立直後には小国であったアメリカ合衆国は,19世紀を通じて,広大な北アメリカ大陸とその周辺において,その領土を絶えず拡大する。そして,国内の経済的基盤を強化し,政治的安定度を高めて,20世紀の世界に支配的影響を及ぼす国内的体制を固めたのである。ここでは,独立から南北戦争時までに注目しよう。

 1783年9月にパリで調印された講和条約では,13植民地の独立と,ミシシッピ川にいたる領土が認められた。北の境界もこれまでのアパラチア山脈からはるかに広がって,五大湖地帯の一角にひかれた。新たに獲得したこの北西部の領有をめぐっては,以前から各州が領土権を主張していた。しかし,1777年に大陸会議で報告された後,最終的に1781年に全州の批准を終えた連邦規約では,各州が領土権を放棄して,連合全体に帰属されるものと定められていた。

 1800年時点の合衆国は,独立時の13州にヴァーモント,ケンタッキーとテネシーを加えた16州からなっていた。1803年のフランスのナポレオンからのルイジアナ購入によって,合衆国はミシシッピ川の西にこれまでの領土を倍加する領域を確保し,同時に交通の動脈であるミシシッピ川を支配した。これによって,西部への進出の基礎をかためたのである。

1812年戦争(第二次英米戦争)のあと,1818年には,イギリスとの間で北西部の国境線を定めた。さらにオレゴンを英米の共同領域とすることによって,合衆国領土は,ついに太平洋岸まで到達した。1819年には,スペインからフロリダを買収し,南西部ではスペイン領メキシコとの国境線を定めた。

 1840年代には,領土がさらに拡大する。まず,1846年にイギリスとの間での緊張ある交渉を経て,オレゴンの北緯49度線以南を領有する条約を締結する。南西部では,1821年に独立したメキシコ領のテキサスに関して,1844年に併合条約を調印し,1845年に議会の承認をえてこれを併合した。さらに,1846~48年のアメリカ・メキシコ戦争での勝利を経て,1848年にカリフォルニアとニューメキシコの一部を買収する。またこの年カリフォルニアでゴールドラッシュが起こり,政治的混乱が続く西欧からの移民を受け入れることになった。

 これによって,合衆国は北アメリカ大陸の中心部において,西は太平洋から東は大西洋までの,南はメキシコ湾を臨む領土を持つ大陸国家になる。そして,後に1867年には,ロシアからアラスカを購入した。

 合衆国の領土拡大は,ヨーロッパを舞台とする主要国間の戦争・抗争とも関連している。特に1823年に合衆国が,それまでに独立を達成したラテンアメリカへのヨーロッパ諸国の干渉に対して,西半球の問題に対してヨーロッパ列強は干渉すべきでない,という原則すなわちモンロー宣言をうちだしたことが注目される。これは保守的なウィーン体制の反自由主義・反国民主義という政治姿勢が西半球世界に波及することを嫌ったともいえる。一方,このことは合衆国が西欧世界の国際関係,この時点では君主国によるウィーン体制から距離を置くことも意味していた。このモンロー宣言の孤立外交政策は,その後の合衆国の外交姿勢の原則となり,合衆国が1917年に第1次世界大戦に参戦するまで約100年間存続した。

 他面においてこの領土拡大は,先住民の土地を,合衆国とヨーロッパ諸国が各自の領土と呼称し,相互に売買し,奪いあった結果でもあり,先住民を鎮圧し,強制移住させながら進んだ。

 19世紀前半までに新たに獲得された西部の領土において,奴隷制度の導入を許すか拒絶するか,という難問が生じる結果となった。これは,連邦議会や大統領選挙での争点になり,1861年からの南北戦争をもたらす大きな要因のひとつになった。

 この領土拡大が進んだ19世紀半ばまでに,産業面では,南部での綿花栽培の拡大,北部の製造業や西部自由農民が従事した農業の機械化による発展があった。


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