「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

八ケ岳西麓原村(10) 建築家高橋修一著「いい家をつくるために、考えなければならないこと」を読む

2022-05-08 04:16:33 | 八ヶ岳西麓の楽しい暮らし
今井書店ふじみ店は富士見町(長野県諏訪郡)のA-Coopファーマーズ富士見内にある書店だ。



そこにはいつもとても良い本が置いてある。そしてその内容を日々SNSで発信している。こういう書店に頑張ってほしいねぇ。



今回の滞在中も、この書店を訪れた。

レジの隣に並んでいた建築家高橋修一さんの本が目に留まったので購入した。


とても良い本だった。わかりやすく書いてあって、サラサラと読める。

書いてあることに、多くの点で共感する。

住宅の話にぴったりな音楽をどうぞ♪

松谷.卓TAKUMI匠 (全能住宅改造王插曲)をクリック(↓)♪

 

「まぁ、なんということでしょぉ~💛」なんてナレーションが聞こえて来そうな音楽だ。

本の帯には『木もクロスも「ニセモノ素材」が全盛』とある(↓)。


本来木は木であり、クロスは布である。しかし一見、木に見えながらも、木屑を接着剤で一定の形に固めて、その表面に木目の模様を印刷した薄い樹脂を貼り付けただけの板や建具は多い。あるいは塗り壁や布製の壁材に見える樹脂製の壁紙。「壁紙」というがそれは紙ではなく樹脂だ。

現代では、そんな部材で埋め尽くされた住宅が大量に生産されている。住宅を支える基本的な材である柱や梁ですら、薄い木材を接着剤で何枚も貼り合わせたものが使われる時代だ。

私は建築、英国、アウトドア、料理、鎌倉について書かれた本が好きなのである。今回は、久々に本格的建築家の本を読んだな。


下の画像の目次にもあるけれど、日本の住宅が魅力に乏しい理由は、狭さのせいか? 違うよね。大きい住宅が魅力的な住宅だなんてことは全くない。鎌倉の路地なんて、狭いほど街並みが美しい。京都の古い町屋も、間口は狭小だけれど美しいものが多く残る。それと同じで、ミニマムな美しさってあるもんだ。


日本の住宅が魅力に乏しい原因は、この投稿の最後の方で出て来るが、住む空間としての魅力の無さや、住み手の生活スタイルに起因することが多いようだ。平面的面積の狭小さが原因ではない。

次の大きな問題。

それは施主が、家づくりの参加者の一人としての自覚や責任感を持たないことだ。


施主はカネを出す人であり、ただ威張っているだけ。これではダメだ。施主も家をつくるチームの一員で「つくり手の一人」なのだ。

上の画像に太字で「現場を明るくする建主」とあるが、そうならないとダメだろう。

設計士、ハウスメーカーあるいは工務店、水道、ガス設備、電気、屋根、左官、塗装、基礎工事等々、それぞれの職人さんを鼓舞するような施主がいないと、現場は盛り上がらない。ただ「あれをこうしたい、これをこうしたい」と表面的な出来上がり時点の状態をリクエストをするだけなら、どんな施主でも簡単にできる。しかしそれでは、チームの一員になったことにはならない。職人さんたちが「ぜひ、その人の家を造りたい!」を感じる施主になる必要があるのだ。

そのためには、もし出来上がった新築住宅に大きな失敗があったら「その失敗の半分以上は自分のせいである」とその施主が思えるくらいにならないといけないだろう。

よく見られることだが、施主が「ヘンなハウスメーカーと契約したから失敗した・・・」と、失敗の責任を自分以外の各専門家に押し付けたなら、その施主は、仮に次に家を建てても、再び大きく失敗する可能性が高い。

欠陥住宅など見えないところで重大な瑕疵があるような場合は別だけれど、通常の住宅の出来不出来は、多くが施主に依存にしている。



工務店側に「つくった甲斐がねえなあ・・・(↑)」と言われたら、もう終わりだ。

「施主は工務店やハウスメーカーを厳しく選別しないといけない」などと、住宅雑誌に書いてある。それは正しい。

しかし同時にそれはほとんど逆の話でもあって、ジョークみたいなものだ。なぜなら工務店や設計士や職人は百戦錬磨であり、過去に何百人もの施主を見て来ていているので、彼らは施主を一目見れば、その施主の暮らしのセンス・スタイルに始まって、その施主の(あくまで素人としての)建築への理解度や参加の意欲を見抜いてしまうものだ。

つまり選別され評価されているのは、むしろ施主の方だ。もし施主が悪意に満ちた業者に取り込まれ馬鹿にされたら、その建築のプロセスはつまらないものになる。施主は建築業者側を厳しく選別すると同時に、その選別した相手側に飛び込んで、対等でノリノリ♪の良い関係を築き、建築プロセスに「参加」しないといけない。

次の話。ニセモノ素材ばかり。


現代の日本の住宅は多くの部材がニセモノ素材で出来ている。冒頭にあったように、それは純粋な木材でないもの(樹脂や接着剤)から構成された木材に見えるもの、同様にレンガやタイルではないがそのように見える樹脂、クロス(布)ではないクロスまがい(樹脂)の内壁材等々・・・から作られているのだ。

そしてそれが原因のひとつとなって、住宅が短寿命化している。実際に住宅の耐用年数がもう少しあるとしても、住宅が古くなった時に、その古さを補って余りある魅力が、経年変化に伴う変化としてニセモノ部材からは生まれて来ないのである。愛着が湧かないのである。したがって、「えい、建て替えてしまえ!」となってしまう。


日本では30年ほどでどんどん住宅が建て替えられているが、↑の画像にもあるように、100年くらいは少なくとももたせなければ、住宅とは言えないだろう。

そうなってしまった責任も、施主にあると言っていい。長い間に日本はニセモノが行き渡ってしまい、我々はニセモノを見てニセモノと感じなくなっている。「驚くほど素材を知らない(↓)」のである。


下の画像の壁はこの山荘の内壁だ。


珪藻土に色を多少混ぜて作ってある。

そうした内壁と、柱や梁の組み合わせだ。


この山荘の内壁の珪藻土も、柱や梁を構成するダグラスファー(米松)あるいは床、天井、腰壁(パイン)も、すべて建築材としては安価なものではあるが、古くなって魅力が落ちることはない。むしろ(ヘンな表現だが)可愛らしくなって行く。どんどん優しく丸くなって行くのだ。樹脂ではそうはならない。樹脂製品は色が褪せるだけで、良い経年変化は生まれない。

また珪藻土もダグラスファーもパインも、全部が呼吸をする。屋内の湿度を調整するのだ。一方、天井、壁、床もすべて人工的な樹脂や接着剤だらけの屋内では、その住宅は呼吸をせず、屋内の湿度の調整もできない。

だから「常時除湿、あるいは常時加湿する」という問題が起こる(↓)。本当の木材や土や紙や布から作られた従来の住宅では、それは相当軽減できたはずのことだ。



本来の素朴な建具や内壁材に出来ることが、現代の便利な樹脂だらけの部材には出来ないのである。

これ(↓)はヘムロック(北米のツガ材)のドアで、かなり安いものだ。しかしこれも季節に応じて膨張し、収縮する。自然な変化である。



世の中で一見無垢材に見える室内ドア、玄関ドアも、現代ではほとんど木製ではない。

木材のチップを接着剤で固めて形をつくり、木目が描かれた樹脂あるいは金属の薄いシールを、表面に貼ったものが多い。木目の模様を仔細に見ればすぐわかる。同じパターンが繰り返されているからだ。


どうしてそうなってしまったのか・・・。


このオークの玄関ドアも山荘の完成後に何度か歪みが発生している。開閉できなくなって、それを調整してもらっている。とても重いのでその作業は大変だ。

その点、木に見えるが本当の木ではない部材や建具は楽だ。軽くて施工が簡単だし、施工後の狂いも少ないからメンテナンスが不要なものが多い。しかし弱い。加えてここが重要だが、樹脂と接着剤で作られたものでは、経年劣化が味わいにならない。

よくご存じのとおり、樹脂は直射日光と熱に弱い。どんな色のものも放置すると白っぽくなる。そしてもろく壊れる。あれと同じだ。

「手入れ簡単、味わい深く・・・はムリ」なのである(↓)。



本当の木や土や鉄を使い、しかるべき保護を施し、その後も継続的にメンテナンスをすべきなのだろう。

メンテナンスは不可避だ。しかしメンテナンスすると、本来の素材は経年劣化すら味わいになってくるものだ。



シックハウスの多くの原因は、建具や内装材の接着剤や樹脂にある。それらを大量に使っておきながら、住宅の気密性を高めたのだから尚更だ。



人体への影響は計り知れない。本来の木材や土や繊維や紙を使わず、簡単に家を作ろうと努めた結果、家がそこに住む人の健康を損なっている。

本物の木材は扱いにくい。歪むし反るし割れる。

特に年数を経ると割れる。乾燥するからだ。

丸太で言うと、年数を経ても長さはほとんど変わらないが、直径が小さくなる。乾燥により丸太が細くなるのだ。そして細くなろうとして、縦に割れ目が入る。

その割れを避けるために、柱や梁のうち居住者から見えない面に事前に背割れという作業を施すことがあるが、この本の著者はそれを好まないらしい。



太い柱や梁なら、割れをそのまま見せてしまってもいいという。

我が山荘が正にそれだ。


あちこちが、割れだらけ。


でも別に平気だ。


ここに使われている柱や梁は、ダグラスファー(米松)が使われている。この本の著者もダグラスファーが好きらしい。

因みにダグラスファーはヤニが多く出る。それは施主によるクレームの対象になるという。

著者はそれも気にしない。私も同様だ。



下の画像で黄色い破線で囲ったところがヤニの塊である。


それが時々、床に落ちている(笑)。

構うものか。拭けばいいのだ。

次の画像もそうだ。黄色い破線で囲ったところにヤニの塊があるし、その左にも小さなヤニの粒がいっぱい付いているのが見える。



しかしこれは自然なものだ。気にする必要はない。

このダグラスファー、あるいはスプルースやウェスタン・レッド・シダーなど日本に多く輸入される木材を指して、「日本の住宅には国産材以外は合わない」という人もいるが、著者は「だったら秋田杉で東京に住宅を建ててもいいのか?」と逆襲している。


まったくそのとおりだと私も思う。

また、米国のツーバイフォー構法(壁組構法)は日本の気候風土に合わないと言う人が多くいるが、それも馬鹿げていると思う。アラスカからフロリダやハワイまで、米国では木造住宅といえば大昔からツーバイフォーだらけだ。狭い日本より、米国50州は高温多湿から低温乾燥まで遥かに広範囲の気候をカバーしている。その米国で主流の構法が日本では使えないなんてことはあり得ない。そして米国の住宅の耐用年数は日本より長い。

住宅性能に関するそうしたなんとも歪曲した情報が世の中には溢れている。加えてハウスメーカーや建材製造・販売会社が自身を売り込もうと自身に有利で一方的な情報を垂れ流しする。



これから家を建てようという施主は、住宅雑誌やインターネットのそうした情報で頭の中がいっぱいになる。施主はその大量の情報を基に、ハウスメーカーや設計士に対し、自身の住宅プランに関する細かなリクエストをすると、そのリクエストは表面的で数値的スペックなものになりがちだ。

しかし住宅には、その前に考えなければならない、もっと重要なことがある。

住宅という場、空間が持つ雰囲気、味わい、テイスト、快適性である。


どんなに屋内の温度、湿度、光量、面積が本人の希望を満たしていても、そこが施主本人にとって快適であるとは限らない。

床材、内壁材、天井材、柱や梁の質感、デザイン、色、太さ、香り、長さ太さのバランス、木目のパターン等々が自分好みでないと、住宅内にいても、施主は寛げないだろう。



外観も同様である。自分の希望どおりに寸法的に設計され建てられていても、外壁や屋根や建具の素材感や色や周囲の風景が持つ雰囲気がうまく溶け合わなければ、外から見た自宅が自分好みのものにはならない。

しかしそのためには、施主が積極的に建築プロセスに「参加」して行かないとならない。

また住宅が古くなった時、経年変化が武器になるくらいの作りにする必要がある。そのためには、樹脂と接着剤だらけではまずいだろう。仮に工務店が樹脂と接着剤の部材ばかりで仕事していたなら、それを改めるようにリクエストするのは施主の仕事である。

斯様に、住宅の問題は単に建物の問題ではなく、おおいにそこに住む人の問題であるのだ。ところがこれから家を建てようと言う施主本人がそれを認識していない。

だから家をハウスメーカーや設計士に建て替えてもらったらスッキリとした生活が将来送れるようになると思っている施主が多いが、実際建て替えてみてもまた従前からと同じような混沌とした生活が続くというケースが散見されると著者は指摘する。


住宅ひとつを建て替えたらすべてキレイになるという問題ではないのである。

まあ、そうだろうねぇ。


「英国は住宅も街並みも美しいことで知られる」と著者は言う(↓)。


そのとおりだ。

ひとつひとつの住宅が美しいことも必要だが、それが並んだ街並みを美しく魅力的に保つには、景観が公共財であるという概念が定着しなければならない。

自分の土地だから土地も家もなんでも自由にしていいという文化がまかり通る国では、景観は劣化するのみだ。

そして景観の恐ろしいところは、一度劣化すると、元に戻すのが難しいところだ。


【Source: フリー画像】

ヨーロッパの郊外や田舎の風景を見て、多くの日本人観光客は「ああ美しいなぁ」と言うが、そう思うのなら、自国もそうするべく動けばいいと思うのだが、それはまた別なようだ。そこでは経済が景観に優先してしまう。

日本では土地は切り刻まれ、そこに次々と新たな建材を身にまとった最新住宅が建てられる。そしてそれらの住宅が時間をかけ街並みとして調和する前に、また潰されて、さらにその土地は切り刻まれ、そこにその時点で「最新型」の住宅が複数建てられるのである。それでは街並みはいつまで経っても美しく調和できない。

そして人口は減り始めているのに、かつすでに空き家があちこちにあるのに、土地は分割され、田畑が新たに住宅地とされ新築住宅が分譲されている。これでは人の人生のサイクルが一巡した時、空き家だらけの風景ができあがり、景観どころか、防犯上も拙い街並みが出来上がってしまう。


ということで、日本の景観は劣化するばかりなのでした。


著者の高橋修一さんはブログをせっせと書いておられる。



そして私の山荘からも近いところに、高橋さんは山荘を持ち、そこに長期間滞在しておられるらしい。

高橋さんのブログを読んでいると・・・「私の山小屋は八ヶ岳山麓の標高1,600メートルの地にあって・・・」なんて書いてあって、「それじゃ私のブログと同じじゃん!」と私は驚いたのだが、さらに高橋さんのブログには、原村の農場や富士見のAコープの画像が出て来たりするのだ。

最初高橋さんのブログを読んだ時、「これって私のこと?」なんて思ってビックリした。私は無意識のうちに、当ブログとは別のブログをもうひとつ書いてたりして(笑)。

ハウスメーカーは景観に貢献しようという気はあまりないだろうが、それに関しては建築家の多くも同様だ。建築家も自身の建築物を好きなように建てたいだけで、奇抜なデザインの住宅も多い。あるいは逆に、やる気あるのか?みたいな絵心が無さすぎなデザインも多い。つまり景観や街並みについてあまり考えているようには思えないのである。しかしこの高橋修一さんは違う。立派だと思う。

その意味では、同じく建築家である中山繁信さんの著書は優れていたな。


個々の住宅ではなく、その集合体としての住宅街の街並みを論じた本だ。世の中それくらいのことは行政も建築家も施主も考えてもらいたい。

コメント (19)
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