今年の干支にちなんだ山の二つ目、丹波・猪ノ口山に登りました。
地形図では城山となっていて、356.8mの標高と黒井城跡の記入
があります。

春日局の生誕地として知られる丹波市春日町黒井の興禅寺
駐車場に車を置いて歩き出すと、すぐ「黒井城址」の石標と
「保月城址」登山口標識がありました。(11:00)
この山には黒井城山、天神山、保月城祉、保築城址など様々
な名前があるようです。

山頂へは二つのコースがありますが、西側の尾根を登ること
にしました。
野生動物防御用の金網の柵を開けて山道に入ります。
落ち葉を踏んでしばらく登ると尾根に出て、見下ろすと春日の
町並がもうかなり低くなっています。

「赤門」と言われる「石踏の段跡」。
本城を囲む防御陣地・曲輪のひとつです。門から見ると正面に
大きく向山が横たわり、後ろの草地の中に「丹波の赤鬼」と
呼ばれた赤井直政公招魂碑が建っていました。(11:23)

多田への分岐のすぐ上が東曲輪です。このような野面積みの
石垣の跡が、山中のあちこちに残っています。

山頂は、本丸のあったところで広々した芝生の周りをサクラの
木が取り囲んでいます。三等三角点の後ろに見える標柱にには
「保月城址」と書いてありました。(11:35)
黒井城は南北朝時代の建武二年(1335)、赤松則村の次男、
貞範が山頂に築城したのが始まりです。戦国時代の天文23年
(1554)荻野直正が大改修して現在の規模になりました。
天正7年(1579)、明智光秀の丹波攻めによって落城しました
が、現在に残された城跡からもその偉容が偲ばれます。
(駐車場にあった「ふるさと街道」説明版などによる)
雲が多いお天気でしたが、周囲遮るもののない大展望に恵まれ
ました。本当に素晴らしいロケーションにお城を作ったものです。

上の写真と同じ方角(西北)の眺めです。昼食(~12:20)を
すませて手前に見える千丈寺山に向かいます。
地形図では城山となっていて、356.8mの標高と黒井城跡の記入
があります。

春日局の生誕地として知られる丹波市春日町黒井の興禅寺
駐車場に車を置いて歩き出すと、すぐ「黒井城址」の石標と
「保月城址」登山口標識がありました。(11:00)
この山には黒井城山、天神山、保月城祉、保築城址など様々
な名前があるようです。

山頂へは二つのコースがありますが、西側の尾根を登ること
にしました。
野生動物防御用の金網の柵を開けて山道に入ります。
落ち葉を踏んでしばらく登ると尾根に出て、見下ろすと春日の
町並がもうかなり低くなっています。

「赤門」と言われる「石踏の段跡」。
本城を囲む防御陣地・曲輪のひとつです。門から見ると正面に
大きく向山が横たわり、後ろの草地の中に「丹波の赤鬼」と
呼ばれた赤井直政公招魂碑が建っていました。(11:23)

多田への分岐のすぐ上が東曲輪です。このような野面積みの
石垣の跡が、山中のあちこちに残っています。

山頂は、本丸のあったところで広々した芝生の周りをサクラの
木が取り囲んでいます。三等三角点の後ろに見える標柱にには
「保月城址」と書いてありました。(11:35)
黒井城は南北朝時代の建武二年(1335)、赤松則村の次男、
貞範が山頂に築城したのが始まりです。戦国時代の天文23年
(1554)荻野直正が大改修して現在の規模になりました。
天正7年(1579)、明智光秀の丹波攻めによって落城しました
が、現在に残された城跡からもその偉容が偲ばれます。
(駐車場にあった「ふるさと街道」説明版などによる)
雲が多いお天気でしたが、周囲遮るもののない大展望に恵まれ
ました。本当に素晴らしいロケーションにお城を作ったものです。

上の写真と同じ方角(西北)の眺めです。昼食(~12:20)を
すませて手前に見える千丈寺山に向かいます。
昨日は遠いところをお疲れ様でした。
低山で、千丈寺山へもすぐですので、お二人にはもの足らなかったのでは、と思います。
でも、展望すっきりでよかったです。
また、わざわざ職場までご足労いただき、ありがとうございました。
お二人にお会いでき、とてもうれしかったです。
元気をいただきました。
また丹波へお越しくださいね。
久しぶりにお目にかかれて、二人ともとても喜んでいます。お土産まで頂き恐縮です。
猪口山からは、五台山、五大山や向山がよく見えて、ご案内頂いたあの日のことを懐かしく思い出しておりました。
丹波の山は姿かたち優しいだけでなく、麓の人々も優しく接して下さって、日本の里山の雰囲気がほんとうに良く残っている感じがします。
これからもお世話になりますが、どうぞよろしくお願いします。