ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

山の番組二つ

2013-08-12 19:39:10 | 四方山話

今日はNHKBSプレミアムで山の番組を二つ見ました。

まずは14時45分からの「北アルプス大縦走」。田部井淳子さんとNHK内多アナとの22日間にわたる立山~奥穂高ジャンダルムの縦走の記録です。

最後のジャンダルムは私たちも2000年に登っているので懐かしく見ました。涸沢で知り合った東京・調布市のN夫妻が「ジャンへ登りたいが二人では…」と言っておられたので、前に登っている変愚院がご一緒することになりました。




頂上直下は少しオーバーハングしていて、アブミがかかっているのが見えます。無理をしないように3
人には西穂側から捲いてもらって、変愚院だけアブミを使わせて貰いました。後は適当なホールド、スタンスが続き、快適な登りで広い頂上(3183m)に着きました。頂上からは期待通りの大展望で、目の前に西穂へ続く縦走路、奥穂から前穂への吊尾根。噴煙をあげる焼岳。遠くに浅間、乗鞍、御嶽、八ヶ岳が浮かび、槍の向こうに立山も後立山連峰も見えました。


19時半からは日本百名山「大峰山」を見ました。ここも私たちには何度も登った馴染みの山です。もっとも女人禁制の山上ヶ岳には♀ペンは登れませんが、弥山や八経ヶ岳は何度か一緒に登っています。これは番組でも見た弥山からの八経ヶ岳。


始めて二人で登った1994年7月の八経ヶ岳山頂


山上ヶ岳の行場・西の覗きで修行?中の変愚院

 

八経ヶ岳のオオヤマレンゲの大群落。この番組も懐かしい想い出を次々と蘇らしてくれました。


お盆の山の想い出

2013-08-12 10:03:06 | 過去の今日

去年の8月11日は前年のイタリア旅行で知り合った仲間たち7人と大台ケ原にいました。前夜、入之波温泉・山鳩湯で鴨鍋やアマゴの塩焼きでうまい酒を飲み、この日はドライブウェイを山頂駐車場へ。

日出ヶ岳に登頂したあと正木ヶ原、牛石ヶ原と周遊。心配していた空模様は大蛇クラに着く頃から怪しくなり、シオカラ谷への下りでは激しい雨足に道は滝のようになりました。しかし、全員元気に東大台周回を終えて山の空気を満喫できた山歩きでした。

この時期、道路は渋滞、山は満員の事が多いので、リタイヤ後は出来るだけ遠出の山行を避けています。しかし若い頃は長い休暇の取れるお盆休みは絶好の夏山シーズンでした。少し変愚院の「お盆の山」を振り返ってみます。

1959年、変愚院25歳。8月10日に新穂高から入山して小池新道を大ノマ乗越に登って(今は殆ど鏡平経由でしょう)弓折岳から双六岳へ。ここから槍へ西鎌尾根を辿るうちに台風が接近。危険な稜線歩きを避けて横尾廻りで涸沢へ。ここで台風に直撃されて小屋で二泊したあと、ザイテングラードを登って奥穂へ。その日(14日)のうちに奥穂、前穂を経て上高地に下山しましたが、帰りのバス道も寸断されて散々な山行でした。(写真は前穂頂上から槍ヶ岳)

1960年のお盆は9歳下の弟と南アルプスに行きました。戸台から入山しましたが、3日間降り続いた雨の後で高捲きや渡渉を重ねて、更に八丁坂の急坂を登って北沢峠へ。翌日は仙丈岳を往復。3日目は仙水峠から甲斐駒に登り、黒戸尾根を下り七丈小屋泊。翌日下山して松本から夜行で帰りました。当時の記録を読み返してみると、小屋泊りとはいえ装備・服装とも周到な準備で、真剣に山に取り組んでいたことが思い出されます。(甲斐駒頂上にて。富士山が頭を出しています)

 

1963年は顧問をしていた大阪市立YS高校山岳部の夏山合宿。13日.折立~薬師峠。この年はリーダーをしていた社会人の会で♀ペンと一緒に前月に同じ道を登っています。14日.薬師岳往復~カベッケ原。頂上で差し入れの西瓜を切りました。15日.黒部源流を徒渉して雲の平へ。16日.雲の平~三俣蓮華~双六。快晴。17日.雨で沈殿。18日.予定の槍はあきらめて小池新道を下山しました。この時の教え子たちが、もう68歳。経過した年月を思うと感無量です。(後の大きな山容が薬師岳)

 

翌、1964年も同じ山岳部合宿。この年は白馬から唐松~五竜~鹿島槍~爺岳と後立山連峰を縦走しました。写真は八峰キレットの通過。

 

山岳部顧問は、他のクラブ顧問と違って生徒達と全く同じように行動しなければなりません。荷物はやや軽めですが、生徒の命を預かる責任は重大。本当に好きでないとやってられません。しかし、教師と生徒を越えた人間としての絆はいつまでも強く、お互いの心に残っています。

1970年は蝶ヶ岳にいました。社会人山岳会で5パーティに分かれた槍ヶ岳集中登山のチーフ・リーダーでした。この年も台風に遭遇、結局、槍に登ったのは、なんと最難関の北鎌パーティだけでした。今と違って通じにくいトランシーバーだけが唯一の連絡手段で、各パーティの安否確認が大変でしたが、全員無事に下山できてほっとしました。

 

1978年8月14日。東鎌尾根にて。
赤い帽子の♀ペンの後に息子10歳、娘13歳、この頃は家族でよくキャンプや登山をしました。この年は燕~東天井~常念~蝶と縦走。その子供たちも40歳を過ぎ、今は孫たちが「ジイジと富士山に登りたい」と言って喜ばせてくれます。