goo blog サービス終了のお知らせ 

ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

こんな本を読みました

2011-12-05 09:24:31 | 読書日記

季節的には相応しくない話題ですが…親父譲りで妖怪話が大好きです。
「恨み晴らさでおくべきか~~」の幽霊は出現する理由が陰惨で、おどろおどろしく、好きではありません。しかし個人的に余程の恨みを買わない限り、出てくる事はまずないでしょう。それに比べて妖怪(化け物)たちは怖い中にもどこか滑稽で可愛いところ?があります。しかも「相手かまわず」現れるので、ひょっとすると出くわす機会もあるかも知れません。閑話休題<それはさておき…>

この本は105円でBookOffで買った畠中恵の「しゃばけ」シリーズの一冊です。
題名から右の着物を着た猫が主人公のように見えますが、これは「猫又(ねこまた)」といって歳とった猫が色っぽい年増に化けたもの。膝に抱いている猫をよく見てください。尻尾が二つに分かれ「かけて」います。完全に分離すると猫又になるのです。
 千両箱の上に載って小判で遊んだり、シャボン玉を吹いたり、桃色の雲に乗ったりして小鬼たちは「鳴家(やなり=漢字を反対に読みます)」という、古い家に棲みつく化け物たち。大して悪いこともしない悪戯好きです。
 左下に座っている神主のような恰好の妖怪は「犬神」。元はと言えば弘法大師が猪の害に困っている村人を救うために書いたイヌの絵から変化したものです。ふだんは商家の手代「佐助」として、その上に顔が半分だけ見える緑色の着物の「若旦那」を守っています。痩せ衰えて渋団扇を持っているのは、一目でわかる「貧乏神」。

 さて主人公は江戸通町の廻船問屋兼薬種問屋・長崎屋の若旦那「一太郎」。病弱で寝込みがちですが手代の「佐助」と「仁吉(これも白沢という妖)」に守られ、他の妖怪たちにも助けられて、さまざまな事件を解決します。

つまり、これは岡本綺堂の「半七捕物帳」の流れを汲む推理小説なのです。しかもロジックの組み立てやトリックは久生十蘭の「顎十郎捕物帳」のように本格的です。背景には緻密な時代考証に基づいた計算が見えます。単に軽い妖怪話だと思って読むと、きっと化かされること請け合いの面白い小説でした。


山岳霊場巡礼 (5)熊野三山

2011-09-27 08:11:47 | 読書日記

**2011年9月3日、西日本を襲った台風12号により被害を受けられた皆様へ、心からお見舞いを申し上げますと共に、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。また熊野三山はじめ世界遺産である「紀伊半島の参詣道」が、元の美しい姿に帰りますよう心から祈っております**

奥駆道最後の行程は、この玉置神社から始まる。そして、大森山、五大尊山を上下して次第に高度を下げて七越峰から熊野川の河原に下りる。

『吉野から熊野への、奥駈け修行の最後の行は、本宮の旧社地に近い音無川の川畔で営まれる勤行で終る。』
私の奥駆道の終点もこの河原だった。国土地理院地図に「奥駆道備崎」と記されている地点の向い側は熊野本宮である。修験者たちは熊野川を渡渉して本宮に向かうが、私たちは堰堤の上を少し歩いて140kmに及ぶ全行程を終えた。

写真は別の年に中辺路を歩いた時、小辺路と交わる辺りから見下ろした景色で、深い谷間の向こうに大雲取、小雲取の山並みが何重にも連なり、見下ろす熊野川の河原に大齊原(本宮大社旧社地)の大鳥居が見える。

『興味深いのは、この本宮の旧社地が、かつて熊野川と音無川の合流点にあったことである。川の合流点に聖地をおくのは、インドのヒンドゥー教の聖地をはじめ、さまざまな宗教にその例は多い』 

吉野と熊野は、もともと一体として考えられていたものではない。それぞれ別の宗教的世界が、連続する山岳地帯を移動して修行の場とした修験道信者・山伏によって結びつけられたのである。

現在、熊野本宮の祭神はスサノオ大神が祀られているが、明治の神仏分離令の前までは信仰の中心は證誠殿に祀られた阿弥陀如来だった。

また、速玉大神はイザナギノミコトがイザナミノミコトの死体に触れた穢れを払うために吐いた唾から生まれたとされ、新宮の速玉神社の祭神となっている。しかし、ここには明治まで薬師如来が安置されていた。

そしてイザナミノミコトを祀る熊野那智大社に隣接して、

 

観音菩薩を巡拝する西国三十三観音霊場の第一番札所、青岸渡寺がある。三十三ヵ所巡拝は花山法王の頃から盛んになったと思われるが、法王は出家して那智に千日の籠山行を果たしている。

青岸渡寺から那智の滝が見える。

落差120m。那智ではイザナミノミコトを祀る本社よりも、ここ飛滝権現への奉仕が重んじられてきたという。この滝は千日籠もりには「山籠もり」の他に「滝籠もり」があり、明治に入っても42歳でこの滝で捨身入定を果たした行者があった。 また、近くには観音菩薩の住むといわれる聖地「ポータラカ」へ小さな箱に入って渡海入定した、多くの僧たち所縁の補陀落寺がある。

『蔵王権現から郡智の観音信仰へ。この一大山岳霊場には、いまも地つづきの信仰が生きている。大自然の息吹きと、その尽きないエネルギーが、神仏習合という、日本のもっとも自然で力強い宗教世界をつくってきたのである。』


山岳霊場巡礼(4) 大峰山

2011-09-25 08:53:59 | 読書日記

**吉野山から山上ヶ岳を経て、遥か南に続く峰々に散在する七五の靡(なびき)を巡拝しながら、熊野にいたる厳しい修行の道を「奥駆け道」といいます。『奥駈けの道は、懐の深い吉野金峯山から大峯の山中へとつづき、下っては登り、山中に六泊、およそ百八十キロ余の道を駈けることになる。そしてこの三分の二の行程は、男性のみが参加できる山駈けの行となる。』変愚院は数度に分けてこの道を縦走しました。また、山上ヶ岳には別の機会にも二度、登っています。詳細は拙HP「紀伊山地の参詣道」をご覧ください。以下は紹介中の書物では、5.大峰山と熊野三山のうち「山岳霊場の行と蘇り」の章にあたります。**

奥駆道は古くは吉野山から先が女人禁制の聖地だった。今も吉野山に、このような石標が残っている。

今でも山上ヶ岳周辺だけは女性が立ち入ることができない。奥駆け道の縦走路では、この五番関から竜ヶ岳を過ぎた柏木道との分岐点・阿弥陀ヶ森(靡六十五番)の間が女人禁制区間になっている。

『山岳宗教においては、とくに結界による聖域の規定が厳しく、また、奈良時代以前ごろまでは、どの山も、山頂近くはタブー視され、登ることが許されていなかったと思われる。その名残りが女人禁制となって、いまも金峯山上<変愚院註・山上ヶ岳>を支配しているのである。 』


                                <蛇腹>

金峯山は一つの龍体であると言われている。山上蔵王堂(大峰山寺)の内々陣須弥壇の下には「龍の口」と呼ばれる神秘の大岩があり、大天井岳の東には「蛇腹」がある。そして吉野山は「龍の尾」とされる。『龍体である吉野山を山上ヶ岳までたどり、その間に登拝者は、自身の罪を消滅させることができるのだった。』




                                    <山上蔵王堂(大峰山寺)>

 金峯山は、山の神・金山彦命を祀る金峯神社、水神信仰の水分神社、農耕の山神・大山祗神を祀る勝手神社をかかえている。『山の神と、農耕を司る神とが、あたかも水の流れを暗示するように、龍体という名で呼ばれているのだ。奥駈け修行は、この出を駈け、熊野三山にいたる七十五靡と呼ばれる山上山下の行場を踏みしめて進む懺悔の行にほかならない。』

この「懺悔の行」の中でもっとも有名なのが「西の覗」での「逆さ吊り」である。写真はこれから行に入る変愚院(2003年7月)。両手を合わせて絶壁から膝のあたりまで身を乗り出し、「親孝行するか」などと問いかけられる。山伏姿の人も含め3人が支えているが身が竦む。最後には少し綱を緩めてぐいとさらに押し出される。 これには誰でも、ただただ「ハイ、ハイ」と答えるしかない。肩にかけた命綱に身を任せるこの行は「捨身の行」といい、日本三大荒行の一と言われる。

同書は山上ヶ岳から奥駆道での筆者の行の体験を、雨に打たれ、霧に巻かれ、時には非日常的な世界に引き込まれそうになる人を見るという神秘的な現象も含めて、綴っている。様々に変化する山の表情…『古木や巨木に手を合わせ、巨岩を拝む。それはそこに山神が降臨するからだった。ここでも神は、自在に移動する。もともと日本の神は、遊行し放浪した。そして新しい神の力を帯びてやってくるのが山伏だった。山伏も巫女も神の御杖代だった。自然の不思議、驚異のたたずまいに、神は宿るのだった。山岳霊場での行は、そのことを信じる以外にない。そのことを信じ得るからこそ、苦界を抜け出て、再び現世に蘇ることができるのだった。』

そして、『奥駈け修行は、七日目に玉置山に入り、いよいよ熊野の三山を目前にする。熊野の海が見える。
芝地のようなまるい玉置山の頂から、それまで六日をかけて辿ってきた大峯の山なみに向かって「拝み返し」という勤行を営む。ここまで歩かせてもらった山々へのお礼の思いをこめて、振りかえって拝むのである。』


山岳霊場巡礼(2) 比叡山

2011-09-09 10:08:37 | 読書日記


(1984年3月 両親と)

比叡山には何度も行ったが、いつもバスやマイカー利用で歩いて登ったのは一度しかない。
2004年9月12日、日吉神社近くに車を置いた。

『正面に日吉(ひえ)大社とも日吉山神社とも呼ばれる日吉神社の深い森が見える。比叡の山は、この辺りからは近すぎて、連峰の一部が厚ぼったい樹林の塊にしか見えない。』
日吉神社の末社は全国に3800あまりあると言われている。『神仏習合の思想示す日吉山王一実神道とよばれて…今では仏法を守護し、伽藍を守る神としても信仰されているのである。』
もともと農業神と神体山としての比叡山の地主神の性格と持っていた神を祀る日吉神社から『最澄は奥に聳える比叡の山なみに分け行っていく』

私たちも日吉大社横手から石段を登って山に向かった。
林道が山道に変わり、次第に高度を上げる。見晴らしのない送電線鉄塔の立つ台地からは、なだらかで歩きやすい道になる。東塔本坂という参道で、昔はたくさんの人が利用した参道のようだ。短い急坂を過ぎると三体の石地蔵立つ草地に着き、ここからも坂本に下る道がある。亀堂を過ぎ、法華堂を見ると舗装の坂道になり、まもなく延暦寺の境内に入った。日吉神社から、途中の休憩を含めて1時間15分ほどだった。

 

 

後に伝教大師と呼ばれる最澄は比叡山で修行を終えたのち唐に渡り、帰国後、大乗仏教を広めるために比叡山寺(現在の根本中堂)を建立する。しかし、悲願であった戒壇を勅許を得て設立できたのは没後7日目。822年のことだった。『あらゆるものに生命が宿っている、この自然に満ちた山に入って、人は誰もが救われ、成仏することができるにのであった』

延暦寺は最澄の弟子で「念仏」を広めた円仁、中興の祖・良源(慈恵大師)、恵心僧都・源信など数々の名僧を生み発展し、鎌倉時代には、ここで学んだ法然、親鸞、道元、日蓮などが新しい宗教(宗派)を広げていく。しかし南北朝時代から戦国時代にかけて『多くの僧兵をかかえた比叡山は、大きな権力として、歴史の中に大きく揺れ動くこととなる。』織田信長の焼き討ちによって、山内すべての伽藍が灰となり、数千人の僧俗が殺戮された悲惨な歴史はよく知られるところである。

しかし、『焼失した本尊薬師如来像を、新たに美濃の横蔵寺から迎えた1543年に、千日の回峰行を満行した一人の僧があった』。この好運法師ら数少ない僧たちが比叡山に修学し、行を続けたために法灯は引き継がれ、再び現在見る姿になった。本書では、この章を今も行われている「千日回峰行」に同行した著者の貴重な体験記で終わっている。

『比叡の山上からは、琵琶湖が東に、西に京の市中が望める…盆地を囲む山なみのうちでもっとも高い比叡山を、京都の人たちは「お山」と呼んで親しんできた』

 

 

その「お山」の最高点へは、東塔と阿弥陀堂を結ぶ回廊の下を潜り、墓地と古いお堂の横を登る。給水設備があり、その裏の暗い杉木立の中の高みに登ると、「大比叡」の山名板があった。一等三角点(848.3m)がうずまっていたが、残念ながら背の高い杉木立に周囲を囲まれて、展望は全くなかった。


山岳霊場巡礼(1) 木曽御嶽

2011-09-05 10:04:43 | 読書日記

今年、出羽三山へ旅したのを機に、27年前に読んだこの本を再読しました。

羽黒修験の「峰入りの行」、大峰山系の「奥駆け修行」を体験し、比叡山の回峰行者を追って早暁の山中を駆けるなど、実際に山岳巡礼を身を以て体験した筆者は、この本のあとがきで『山が日本の宗教のあらゆる要素を含む文化の母体であることを知った』と書いておられます。

この本に登場する山岳霊場は八か所。
1.恐山━みちのく三世の山   2.出羽三山━生死永劫の山  3.木曽御嶽山━ものみな集う敬神の山
4.比叡山━日本大乗仏教の発祥   5.大峰山と熊野三山━山と海の他界信仰
7.高野山━大師信仰の祖山  8.立山━地獄滅罪の山   9.白山━観音示現の白き峰  です。

筆者は「山に挑戦するとか、征服するとかという思いはただの一度も抱かなかった」と述懐されていますが、私も霊山に限らず、どんな山に入るときも「登らせてもらう」気持ちをでいます。山で危うい目に会ったとき、思わず神仏の加護を祈ったことも何度かあります。それでも、若い頃は宗教心など微塵もなく、ただただ山頂を目指すだけでした。この本に出てくる山も、とくに霊場として意識したのは中年になって以降の比叡山、大峰、熊野、高野山くらいです。そんな私でも「霊山」と呼ばれる山には、足を踏み入れると身が引き締まるような特別な雰囲気を感じます。

 以下、この本の一部紹介を兼ねて想い出を綴ってみます。『』の部分は同書からの引用、写真は変愚院のアルバムからのものです。恐山はまだ訪ねる機会がなく、また出羽三山はつい先日レポートしましたので、木曽御嶽から始めます。

「木曽御嶽」の名は山を始める前から「木曽のな~仲乗りさん…」の木曽節で知っていた。関東の御岳も大峰の金の御嶽(金峯山)もすべて「みたけ」で「おんたけ」、しかも「おんたけさん」と呼ばれるのは木曽御嶽だけである。古い記録では、この山は「王嶽」と呼ばれていた。『「おんたけ」と呼ばれるようになるのは、室町時代の中期という』

初めてこの山に登ったのは1972年5月、八合目田ノ原へ登る道はまだ舗装のない地道で、月夜に浮かれた野兎がヘッドライトに照らされて慌てて笹原に逃げ込んでいった。夜中の1時に田ノ原について車の下で寝袋に入って仮眠した。二度目は、75年7月でこの時はバスで田ノ原へ登った。写真はこの時のもの。

鎌倉時代ころまでは御嶽は「修験の山」で百日または七十五日の長い精進潔斎を経た「道者(どうじゃ)」の他、登拝は許されなかった。その限られた『霊峰御嶽の一般への開放を願って』新しい信仰の道を開いたのが覚明である。1791年、彼が唱えた精進の簡略化によって黒沢口からの登拝者が増え、更に普寛が「講」を作って王滝口からの登拝が一般化される。幕末期には『全国に御嶽信仰の講大小五百余といわれるほどに、隆盛の時代を迎えるに至った』

『山神が、山麓の村々を見守る御嶽の山頂へ、人知れず苦しみに堪えて登り、また降りてくる。この御嶽への登拝も根の国めぐりと同じような、新たな蘇りのための行為にほかならない。…この人を蘇らせる力を秘めた山を、信仰登山の人々は白衣をまとって辿る』写真は八丁ダルミにて(1976.08.08)

『山は下界と異なり、そこには地獄も浄土も、現実のこととしてあった』
ここ剣ヶ峰を仰ぐ王滝頂上から登った鞍部を左に行くと、奥ノ院と呼ばれる地獄谷の荒々しい噴火口を見下ろすことができる所に着く(1975年7月)。この写真を撮った4年後の1979年、御嶽は歴史上初の大爆発を起こした。この辺りの風景もかなり変わっていることだろう。

『北アルプス最南端の山頂(3063m)には大峰修験の影響を受けて蔵王権現が祀られている』
5月の頂上の祠はびっしりとエビノシッポに覆われていた。

『そして180度の視界の北方すぐ間近かに、覚明行者が入定したという二の池が望める』

近くには「賽ノ河原」と呼ばれる荒涼とした場所がある。ここにも日本宗教文化の特色である「神仏習合」が見られる。5月には地蔵の石仏は純白の雪に覆われていた。

『この山上の二の池、また近くの一の池、三の池の池水を、登拝の人々は、水筒などに入れて持ち帰る。御神水として、延命に、病気治療に不思議な力をもっていると、いまも多くの人が信じている。』
写真は1976年、三の池にて。左から息子と娘。

五ノ池から白山に沈む夕日を見る(1975年7月)

『日本アルプスの南端に位置し、信州・美濃・飛騨にまたがる独立峰として、ふるくから「名山に富士、名嶽に御嶽」とたたえられたこの山の頂上からは、中部地方の主要な霊山が一望のもとに見える』 


エヴェレストの初登頂は?

2011-08-14 17:33:22 | 読書日記

エヴェレストの初登頂は1953年。初めて世界最高峰(4,884m)の頂きに立ったのは、エドマンド・ヒラリー(この功績でのちにサーの称号を与えられました)とシェルパのテンジン・ノルゲイの二人ということは、歴史上の定説になっています。

しかし、それより30年も前の1924年にふたりの英国人が頂上に到達していた「かも知れない」という、これも歴史上の事実があります。
二人が頂上近くまで登っていることは別の隊員に目撃されていますが、その後、高所キャンプC6に帰りつかずに姿を消しました。彼らの遭難は登頂前か、それとも下山中か?これは山岳史上の大きな謎になっています。



二人の名はジョージ・マロリーとアンドルー・カミン・アーヴィン。マロリーは1924年隊の登攀隊長であり、彼が選んだ若い隊員が弟子ともいえるアーヴィンでした。

「え?マロリー?そんな人の名前、知らん」…という人も「なぜ山に登るのか」という問いに「そこに山があるからだ」と答えた人といえば、「ああ、その人か」と思い出すかも知れません。
<マロリーはそんないい加減で投げやりな返答をする性格の人ではないと思います。その前の遠征後、アメリカでの講演会での記者とのやり取りの言葉の一端を、別の記者がそのように捉えたというのが真実のようです>



この1924年のエヴェレスト登頂にまつわる謎を小説にしたのが本書です(原著は2009年刊)。
著者のジェフリー・アーチャーは、彼自身の生涯が小説になりそうな波乱万丈な人生を送る人。イギリスで最年少の下院議員、それを辞めざる得なくした詐欺事件、娼婦とのスキャンダル…その一方、ミステリ作家としてはベストセラーの連発。変愚院も「大統領に知らせますか」「百万ドルを取り返せ」など何冊か読んでいます。

その彼が「エヴェレストに消えたマロリー」を小説にした本著は、文庫裏の惹句「山岳小説の白眉(上)」「冒険小説の頂点(下)」というには一寸…と思います。しかし構成の巧みさはさすがですし、愛妻家であった彼の側面もよく描かれています。理想とする男性像(もちろんジョン・ブル的な…)をマロリーの生涯を通じて表現する試みは見事に成功したと言えるでしょう。



「遥かなる…」を読んでいるうちに何か所か確かめたいことが出てきて、本棚に眠っていたこの本を再読しました。オビにあるように75年ぶりにマロリーの遺体を発見した、登山隊のレポートです。
これが下手な小説(「遥かなる…」のことではありません)よりもずっと面白い。

マロリーの謎に取りつかれたドイツ、アメリカ、イギリスの男たちがチームを編成して、エベレストへ向かい、マロリーが姿を消した地点(そして最後は頂上)まで登る様子を、随所で1924年マロリー隊の足取りと対比させながらレポートしていきます。

そしてついに75年ぶりに遺体発見。しかし登頂の決定的な証拠となるカメラが見つかりません。そこで「謎は残った」のですが、遺品から当時の状況を科学的に再現していく様子は、非常に興味深く読みました。

「二人が登頂したか」どうかよりも、二人が当時の貧弱な装備、食料、情報で世界最高峰に挑んだ、体力、精神力、登山技術…「仮に登頂していなくても彼らを畏敬する心がいささかも損なわれることはない」というのが読み終わった変愚院の感想でした。

*蛇足1 1953年のヒラリーらの登頂は南のネパール側から。1924年隊、と1999年遺体捜索隊は北面のチベット側からの登頂

*蛇足2 「遥かなる未踏峰」の原著名は「Path Of Glory」  栄光への途
     「そして謎は残った」の原名は「Ghosts Of Everest」エベレストの亡霊

*蛇足3「そして謎は残った」の日本版発行は1999年12月10日。変愚院夫婦がカラパタールからエベレストを仰いだ旅から帰って5日後のことでした。年末に購入して翌2000年初読み?の本でした。


こんな本を読みました(2011.06.02)

2011-06-02 11:09:57 | 読書日記

谷川 彰英著 KKベストセラーズ 「ベスト新書」2010年4月(初版)刊

数日前にレポートした「大阪地名の由来を歩く」と同じシリーズです。

ただし、著者は別人で表紙裏の紹介によると「筑波第教授、副学長からノンフィクション作家に転身」
「各種テレビ番組でも活躍。」している方で、本書「はじめに」によると「柳田國男の教育思想研究」
で学位を取り、「一連の作品はその延長上にある」。

内容は第1章「春日に隠された謎」に始まります。なぜハルヒと書いてカスガと読むのか、筆者の結論
は「霞んで見える山」つまり「カスミヤマ」ではなかったか。ということで、「太古の時代からこの山
一帯は春がすみの立つところで…その証拠ともいえる歌を発見した」と記されています。
 
ただ、この証拠は万葉集の中の一首で筆者自身「たぶん八世紀の後半に読まれたものであろう」と言わ
れていますので、先の「太古の時代から」の文章と矛盾します。これは一例ですが、どうも変愚院には
他の個所でも「こじつけ」とまでは言いませんが、自説へ少し強引に誘導されるように思えます。

第二章は「神武天皇の足跡を地名で追う」、つづいて「神社名から奈良の歴史を説き明かす」、「現代
に生きる奈良仏教」、「峠を越える」、「奈良の難読・おもしろ地名」、「奈良に集まる・奈良に消え
る」と続きます。

最後の思わせぶりな章は、簡単に言うと「明治30年まで今の奈良県は存在しなかった」「明治9年か
ら10年間近くは奈良は消えていた」という歴史上の事実に過ぎません。結びは「このような歴史を見
てくると、奈良県が何となく近代の流れに押されてきたという印象はぬぐえない。もっと反骨精神を
持って改革に取り組んでほしいという期待が湧いてくる」これで本書はおしまい。

読み終わっての感想は、この結論に象徴されるようにこの本は「どうも旅行者の目線、他者もんの観察
やなあ」ということです。前に紹介した「大阪の地名…」は、地名についてはもちろん、文章の端々に
「消え行く古きよき時代の大阪」への愛惜の念があふれていたように感じました。

この違いは何故でしょう。「奈良地名の…」の著者は長野県松本市生まれの方でした。

こんな本を読みました(2011.05.30)

2011-05-30 14:56:01 | 読書日記
 変愚院の生まれは大阪市住吉区(現東住吉区)の田辺で、家は小学校のすぐ西側で卸業も兼ねた
文房具屋を営み「紙屋」と呼ばれていました。
 この小学校(私の入学した年から大阪市田邉国民学校に改名)の校章が大根の双葉をデザインした
もので「町の中でなんで大根や」と不思議に思って父に聞くと「田辺は昔は大根畑が多かったんや」
と教えられたことを思い出します。事実、その(1940年)頃には、現在の民家の密集している近鉄
大阪線東側にはまだ青々とした畑地が残っていたのです。
田辺という地名は京都府京田辺市、和歌山県田辺市などがありますが、京都の場合は田辺氏の支配
する土地であったため、また和歌山の場合はその地に館があり、その館に積み置く「稲を作れる田部
(たのべ)なるべし」と地誌にあるそうです(Wikipedeia,日本辞典などより)。
 この本には「田辺」の地名の由来は記されていませんが、コラム「大阪の伝統野菜」の中に田辺大
根が紹介されていて、小学4年生まで過ごした生まれ故郷を懐かしく思い出しました。


若一光司著 KKベストセラーズ 「ベスト新書」2008年9月刊

 11章からなる本書は、第1章の「難波から大坂、そして大阪へ」から始まり、大阪の四季のにぎ
わいを訪ねて、大阪の食道楽も市場のおかげ、商都の歴史を語る問屋街、時代のメロディーで口ずさ
まれた大阪、「八百八橋」の多くが町橋だった、大阪の近代化を象徴する洋風建築、大阪の熊野街道
を歩く、あの人の墓碑を訪ねて寺めぐり、交野が原に刻まれた七夕伝説の謎、文学に描かれた大阪の
人と風土…とさまざまな角度から大阪の地名に由来に迫ります。

 各章の終わりにおかれたコラム「大阪生まれの食べもの」で、モミジの天ぷら、ホルモン焼き、
船場汁、串かつ、うどんすき、たこやき、チキンラーメン…といかにも大阪生まれと思うものが並ぶ
中に、鴨南蛮や「しゃぶしゃぶ」が紹介されていたのは、どちらも全国版の食べ物と思っていただけ
にちょっと意外な驚きでした。
 
 本書には大阪を離れて北河内、池田、そしてまた北河内へと現住の大和郡山に落ち着くまで大阪で
青春の多感な時を過ごし、定年まで天王寺区の職場に通った変愚院にも、堺で生まれ育ち結婚まで中
央区にある会社勤めをしていた♀ペンにとっても懐かしい場所が続々と登場します。随所にこれまで
知らなかった数々の大阪のエピソードがちりばめられていて、最後まで楽しく読めました。

 なおこの本で興味を持って調べてみると、「田邊」の地名はこの地に田辺氏が祖先の天穂日命を祀
った田辺神社(現・山坂神社、氏神様でした)があったことが由来のようです。田辺氏はもともと西
国から移住した渡来系氏族で、現在の柏原市を中心に勢力を広げた一族といわれています。

関西人なら絶対オモロイ!

2011-04-23 06:00:00 | 読書日記


前に「鴨川ホルモー」を読んだ娘のリクエストで買った本ですが、先に読ませて貰いました。



本に挟まれていた新刊案内とオビ。来月末、映画が公開されるようですネ。
いつもはカバーに巻いたままのオビを別に紹介したのは、「綾瀬はるかの顔に目が行ってしまう」
からではなく、イラスト中央の女性のすんなり長い脚が隠れてしまうためです。

主人公は、この東京からやってきた個性も体格も違う会計検査院の3人。場所はカバーイラスト
の大阪城だけではありません。
さらに重要な主人公は、大阪は空堀中学校二年生の男女二人。重要な場所は「空堀商店街」
なのです。

この本に、地下鉄鶴見緑地線松屋町駅を出て松屋町筋を南に150m行ったところから始まる
「商店街は約八百メートルにわたって、一直線に坂道を駆けあがる。八百屋、魚屋、昆布屋、
肉屋、和菓子屋、豆腐屋、時計屋、鰹節屋、カーテン屋、おもちゃ屋、ジャコ屋--などの
商店をびっしり両脇に従え、谷町筋までひたすら急な坂道が続く」と記された空堀街…実は
ここは私、変愚院の青春時代の思い出が詰まった場所なのです。

上に出てくる店の一つの息子が変愚院の大学同級生でした。店が閉まったあと、勉強すると
いう名目で悪童どもが集まり、店の商品を肴に酒盛りをして雑魚寝をしたものです。変愚院
たちに山の楽しみを教えてくれたのも、二人で冬の伯耆大山へ行ったのも、この男です。
年賀状を交換するがらでもなく、故あって何年間か音信不通ですが、元気でいるのでしょうか。

さて本の内容は紹介すると興味を削ぐので省きます(写真で推測してください)が、注意して
頂きたいのは登場人物の姓名です。歴史の好きな人なら、きっとほくそ笑むと思います。
もう一つ、お馴染みの大阪の情景が次々と出てきます。

大阪人(変愚院はもともと大阪生まれの河内育ちです)ならずとも、関西人なら読んでみて
損のない一冊…おすすめです。

久しぶりの山岳小説

2011-04-09 10:12:47 | 読書日記
世界第二の高峰・K2を舞台にした笹本稜平の「還るべき場所」は、久しぶりに「ページ
を繰るのがもどかしい」思いがする山岳小説でした。



主人公(の一人)矢代翔平は未登のK2東壁登攀中に人生でもクライミングでも最高の
パートナーであった栗本聖美を失います。それも急な雪崩で二人が宙吊りになり、下に
いた聖美が自らザイルを切断して墜落するという事故によるものでした。
 以後の翔平は生きる目的を失い、自分の命を救うために聖美が自らの命を犠牲にした
のではないか…という思いにさいなまれます。
 4年後、やっと山の世界に帰ってきた彼に、高校時代からの山仲間でもあった板倉亮太
がK2に近いブロードピークへ誘います。亮太は登山専門の旅行会社の経営者になって
いて、ブロードピークへの公募登山隊を成功させたあとK2東壁を登ろうというのです。

この登山隊の顧客の一人、神津邦正が第二の主人公です。医療器具会社の会長で、自らも
自社製の心臓ぺースメーカーを埋め込みながら、ヨットを操るスポーツマン。初めは
「究極の製品PR」のためにエベレストへの挑戦を試みますが、そのトレーニングの
過程で次第に本当の山への情熱を燃やしていきます。本の帯の「魂の糧」というのは彼の
言葉ですが、後半での彼の行動は「人間はどう生きるべきか(そして死ぬべきか)」と
いう命題を、改めて考えさせてくれます。60歳を過ぎてエベレストの頂きに登り、さらに
新しい8000m峰を目指す彼の姿は、困難に耐える勇気と大きな感動とを与えてくれました。

そして、この本の本当の主人公は冒頭の章で遭難死してしまう聖美でしょう。「K2」
は彼女のイニシャルでもあるのが象徴的です。「山で死んではいけない」という信念の
彼女がなぜ自らザイルを切ったのか…最終章のK2でその意外な回答が語られます。

登攀場面の大部分はK2ではなくブロードピークですが、孤高の三角錐K2を目でも
心でも絶えず間近に見ながらの登攀場面は緊張と危険の連続です。次から次へと襲い掛
かる苦難に、顧客を含めて山男たちがどう立ち向かっていくか…。神津の秘書兼山の
師匠の竹原、高所ポーターのイクバルほかの登場人物も、類型的でなく描かれていて
500ページ近いボリュームを感じさせない、最近出色の山岳小説に出会えました。