「日本共産党の80年」より、1941年12月を紹介させていただきたと思います。
【アジア・太平洋への侵略の拡大】
「日本軍は、1940年9には北部仏領インドシナに、翌41年7月には南部仏領インドシナに侵攻しました。そして、1941年11月、日本は、昭和天皇の出席した『御前会議』で、中国での侵略戦争にいつづいて、アメリカ、イギリスとの戦争を開始することを最終的に決定しました」
「41年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾の米海軍を攻撃し、マレー半島への上陸作戦などアジア・太平洋地域にいっせい攻撃を開始しました。同日、日本は、アメリカ、イギリスに宣戦し、侵略の手を東南アジア諸国にものばしました。こうして、天皇制政府は、日独伊三国のファシズム・軍国主義の侵略同盟の一員として世界に巨大な惨禍をあたえ、国民を破局的な結果にみちびくにいたりました」
「昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、絶対の権力者として、また軍隊の最高責任者として、侵略戦争を拡大する方向で積極的に関与しました。さらに、個々の軍事作戦に指導と命令をあたえ、敗戦が予測される45年にはいっても戦争継続に固執して、惨害をひろげました」
「新聞は、『東亜解放戦の完遂へ』(「東京日日」)、『支那事変の完遂と東亜共栄圏確立の大義』のため『反日適性勢力を東亜の全域から駆逐』(「朝日」)と侵略戦争推進の立場をはじめから鮮明にしました。日本の新聞、ラジオ放送などの報道機関は、戦争中、天皇制軍部の『大本営発表』を国民におしつけ、最後まで侵略戦争をあおりつづけました」
「国民は、『聖戦』と『愛国』の名のもとに、侵略戦争にかりだされ、侵略戦争の末期には、中学生にいたるまで勤労動員をうけ、軍需工場などで働きました。衣類や食糧の不足、父や夫や息子が戦死した悲しみ、前途への不安などを語りあうことさえ、当局は監視の目をひろげ、処罰しました。天皇制軍部や高級官僚とむすびついた大資本家たちは、資金や資材をわがものとし、巨大な利益をおさめていました。こうした状況は、国民のあいだに戦争と天皇制政府への不安と批判の気分を生み出しました」
【植民地、占領地でくりかえされた戦争犯罪】
「また、朝鮮で徴用、徴兵を実施し、多数の朝鮮人や中国人が日本の鉱山、工場で強制労働させられました。東南アジアの人びとも『ロームシャ』として、強制労働をしいられました。軍の指揮・管理のもとでいわゆる『従軍慰安婦』などが植民地や占領地の住民をふくめて組織され、非人道的行為を強要されました」
「さらに、天皇の軍隊は、中国をはじめとするあらゆる占領地で、現地住民にたいして略奪、凌辱、虐殺、細菌兵器の使用、人体実験などの残虐行為をくりまえしました。これらは、国際法上も人道上もゆるされない犯罪行為であり、今日も、戦争犯罪としてきびしく告発されているものです」
【治安維持法がさらに猛威を】
「開戦にさきだって、12月、700人を超える人びとが検挙され、開戦翌日の12月9日には、金子健太、宮本百合子、守屋典郎ら396人が『共産主義者』としていっせいに検挙、拘束されました。共産主義者の名は、戦争反対とつながっていたのです」(「日本共産党の80年」61~63頁)