宮応かつゆきの日本改革ブログ

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”1941年6月22日。そしてその日が来た” ヒトラー対ソ戦発令。 「スターリン秘史」第16章

2014年04月15日 | 綱領関連

 不破さんは、「なぜスターリンはヒトラーにだまされたたのか」「不意打ち攻撃を防げなかったのか」 第2次世界大戦の長い間の大きな謎であったことを語っていました。 いま、その「謎」が解き明かされようとしています。

 「ジューコフ(ソ連軍参謀総長)によると、6月21日の夜、ジューコフは、キエフ軍管区の参謀長から、”国境警備隊に投降してきたドイツ兵が、ドイツ軍部隊の攻撃が6月22日朝から始まると告げた”との報告を受け、直ちにスターリンに知らせたとのことです。 呼ばれてクレムリンにかつけたジューコフは、スターリンがこの段階になっても報告が真実かどうかを疑い、深夜の21日が終わろうとするぎりぎりの時間に、”不意打ち攻撃の可能性があるが、挑発にひっかかってこちらから紛糾を起こさないよう注意せよ”という中途半端な戦闘準備指令をださざるをえなかったことを、記録しています。(「回想録」。 こうして、スターリンとソ連は、1941年6月22日未明、完全な”不意打ち”の状態で全国境線でドイツ軍の大兵力による強襲に見舞われたのです」「「前衛5月号228~229頁)

 ”なぜスターリンはヒトラーにだまされたのか”

 不破さんはこの大問題について、イギリスのチャーチル首相の「回想録」を紹介しています。

 「~彼らは、ヒトラーが6カ月以上もの間彼らを撃破しようと決意していたことを、まったく感じないでいたように見えた。 もし彼らの情報機関が、ドイツの大軍が東方に向けて毎日大規模に展開していたことを彼らに報告していたとしたら、彼らはそれに対処する必要な措置を怠っていたことになる。 こうして彼らは、全バルカンをドイツが席巻するがままにまかせた。 ~スターリンと共産党首脳部がバルカンにおけるあらゆる可能性を投げ捨て、ロシアに降りかかろうとした恐ろしい襲撃を何もせずに待ったというか、それに気づくことさえできなかったというか、そこで彼らが犯した過失にくらべられる過失が歴史の上であったかどうかは疑問であろう」(「同誌」229頁)

 「われわれはこれまで彼らを利己的打算者と見てきた。 この時期に彼らは間抜けでもあったことを証明した。 母なるロシアの力、大衆の規模、勇気と耐久力が情勢を左右するようになるのはまだ先のもとだった。 しかし、戦略、政策、先見性、能力が審判者であるという限りでいえば、スターリンと彼の人民委員たちは、自分たちが、第2次大戦中のもっとも完全に裏をかかれたしくじり者であることを示した」(「同誌」229~230頁)

 そこで、不破さんは、チャーチルに批判されても反論の言葉さえないような間違いー大失策をなぜ犯したのかについて、次のように述べています。

 「”イギリス崩壊後の世界の4ヵ国による再分割”というヒトラーの構想にスターリンの覇権主義的欲望の強さを見抜き、そこに付け込んだ見事な謀略作戦でした。 そしてヒトラーは、対ソ作戦の準備を進める途上の一歩ごと、一局面ごとに、すべての軍事行動を対英作戦に必要な行動として意義づける謀略工作を、最後まで綿密に続けました」(「同誌」230頁)

 「スターリンがそこで犯した決定的な誤りの一つは、1939年以来のドイツとの同盟で成功をおさめたことから、ヒトラーの行動の根底にある『反ボリシェビズム』の強烈さを見落としたことにありました」(「同誌」230頁)

 その証左の一つとして、不破さんが紹介しているのが、1941年3月17日、ヒトラーが国防軍首脳部とともに、首相官邸に東部戦線を担当する将軍たちを呼んで、きたるべき対ソ戦に臨む心構えについて「訓示した」内容です。 その訓示の中心部分について紹介しています。

 「ロシアに対する戦争はことがらの性質上騎士道に添ったやり方でおこなうことは不可能であろう。 この戦いはイデオロギーとイデオロギーとの、そしてまた異なった人種間の戦いであり、従って前代未聞の、無慈悲な、仮借のない苛烈な態度で戦わなければならないであろう。 全ての将校は古くさい、廃れてしまった理論を脱却しなければならない。 余は、そのようなやり方で戦争をおこなう必要性は諸君の考えおよばなかったことであろうことを知っているが、といって余の命令を変更することはできないし、なたそうすることはないであろう。 余は、余の命令が疑問の余地のない無条件の服従を受けることになるよう強調しておきたい」(「同誌」231頁)

 「これが、対ソ戦の行動原則になった」と不破さんは述べています。

 



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