第41回赤旗まつりの不破さんの「科学の目講座」-「『科学の目』」で日本の戦争を考える」が「しんぶん赤旗」7日付に、「紙上再現」されました。
私が注目した「どんな仕組みで戦争をやったのかー世界に例ない体制」について改めて紹介させていただきます。
「日本の戦争指導は、世界に例のない異常な体制によって行われました。 それは、開戦の決定には首相が参加するものの、戦争の方針は天皇と軍首脳部がすべて決めるというものでした。(これが、軍の統帥権は天皇に属するという明治憲法の仕組みでした)」
「不破さんは、首相と政府の無力を示す二つの事例を紹介しました。 日中戦争が始まってしばらくたった37年7月下旬、閣議で閣僚が『だいたいどの辺で軍事行動をとめるのか』と質問したのです。 海相がこの辺だと答えると、陸相が『こんなところ(閣議)でそう言っていいのか』と海相を怒鳴りつけました」
「弱った近衛文麿首相が、天皇に、『将来の計画を立てる上でぜひとも必要なものはお知らせ願いたい』と求めたところ、天皇はしばらくして”軍部は政党出身大臣の同席する閣議では報告できないと言っている。 必要なことは、天皇自身が首相と外相だけに伝える”と回答したのでした。 政府は戦争にノータッチということが当たり前の体制だったのです」
「もう一つは、太平洋戦争の冒頭、12月8日に行われた真珠湾攻撃です。 これは、極東国際軍事裁判(東京裁判)での東条英機(太平洋戦争開戦時の首相・陸相)自身が証言していることですが、東条は、いつ真珠湾攻撃について知ったのかと問われ、『作戦計画を聞いたのは12月2日ごろ』、それも『(首相)としてではなく)陸軍大臣の資格で参謀総長から聞いた』と答えたのです」
「真珠湾攻撃の作戦命令は11月5日に発せられ、連合艦隊は11月23日に千島の基地を出発していたのですが、東条のような軍人首相でさえ、作戦計画にはまったく関与しなっかたのです。 これが旧憲法下の政府と首相の実態でした」
「この体制で戦争指導の実態はどんなものだったのか。 法制上は天皇が絶対的権限をもっていましたが、作戦を立てるのは軍首脳部で、軍は天皇に作戦を『上奏』して許可を求めます。 天皇はそのときに『それで勝てるか』『外国を刺激しないか』などの質問や意見を言いますが、こういうやりとりで戦争が進むのです」
「では、作戦を立てる軍そのものはどうかというと、陸軍と海軍は互いに仲の悪いことで有名でした。 しかも、日中戦争から8年間を数えても、参謀総長(陸軍の最高幹部)は4人、軍令部総長(海軍の最高幹部)は5人と次々に交代します。 結局、15年戦争の全期間を通じて戦争指導部にいたのは天皇だけでした。 さらに、天皇と軍首脳部とのやりとりで大まかな方針が決まっても、実際の作戦計画の立案と実行は、大本営に陣取る作戦参謀たちが勝手に行いました」
ー中略ー
「ですから、15年戦争の3段階をとっても、まともな展望をもって始めた戦争は一つもなかったのです」
-中略ー
「太平洋戦争では、緒戦は真珠湾への不意打ちの奇襲攻撃などで大戦果を挙げましたが、アメリカは42年早々には反攻の態勢を整えました。 しかし、日本の戦争指導部は米国の反攻は43年6月以降になると楽観し、ミッドウェー海戦を仕掛けて空母部隊全滅という大敗を喫し、太平洋での制空権を失いました。 これが決定的な転換点となり、これ以後は戦争らしい戦争は一つもできず、敗戦への道を一歩一歩たどり続けることになりました」
そして、軍部の無謀な作戦が繰り返され、海外に派兵された230万人の兵士の半数以上が餓死(うえじに)したのです。