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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

送別の宴

2010-03-27 11:43:16 | ファイヤー

 宮仕いの定め、年度末は長年職務にあたった方々の退職やら異動での送別の宴が行われる時期でもある。

 我職場でも長年勤務され、仕事面はもとより私生活面でもご指導をいただいた上司4名の方々が定年を迎えられ、「旅立ちを祝う会」としての送別の宴に出席いたしました。

 

 

 我職種的には生え抜きで、まさに陣頭指揮をとった強者といっても過言ではない先輩の方々、現場経験も豊富で、まだまだ現役でご指導やら叱咤激励をいただきたいが本音でもあります。

 この先輩方が30歳前後で体力気力が十分満ち溢れていた時代に小生は新人として今の職種に就きました。

 先輩方には直接的に指導され、同じ釜の飯を食べ、時には私的部分でもたいへんお世話になった思い出が蘇り、色んなことがついこの間のように思い浮かぶ瞬間でもありました。

 

 長い間、たいへんご苦労さまでした。

 そしてお疲れ様でした。

 とりあえずは、少しのんびりされまして、第二の人生を楽しまれてください。

 たいへんお世話になりました。

ありがとうございました。

 

 

 ということで、今回退職された先輩方とは、長いお付き合いだったということもあって、色々と昔話的な思い出として、何か語ってくれ・・・とお願いされてましたので、ある上司の方のエピソードなんかをご披露いたしました。

 素晴らしい事、凄かったエピソードを語れば良かったのですが、どうしても面白かったことが主となってしまい、その上司には失礼な内容となってしまったことを少し反省しております。

 しかし、楽しいエピソードには事欠かない上司でもありましたので、逆にいえば、この方ならでは、この方らしい・・・・そんな場面だったのでは?・・・汗

 

 いずれ、皆さん、個性溢れ、それぞれの得意分野を持ち職務に精通された方々ばかりなので、その別れを皆さん大いに分かち合ったという送別の宴であったと思います。

 

 

 

今が旬、バッケの天婦羅(ふきのとう)

 

大いに語り、そして食べて飲んで・・・・

 

 

そして・・・

二次会は・・・

 

 共に一年間、同じ部として寝食を共にし、汗を流した同僚達との送別の宴を場所を移して行いました。

 新年度から部体制の入れ替え、昇進、異動、さらに長期出向となる同僚もいて、それぞれの立場を越えて楽しむことができました。

 一年間、ありがとうございました。

 

 

ピンボケですが、酒の肴として出た毛ガニのから揚げ・・・。

 

 もちろん、全部食べれます・・・・時折、口の中で何か刺さって痛いのがたまに傷・・・・汗

 

 宴たけなわでしたが、嫁さんも別場所で送別会の宴に参加しており、そちらでも二次会に流れたらしく、そろそろ終わるので帰ろうコール・・・・。

 後ろ髪を引かれる思いで同僚達と別れ、嫁さんと合流して帰りました。

 

 しかし、いつもなら皆と〆のラーメンとかを食べるのが常であり、何か物足りない・・・・お腹一杯という嫁さんに何処かでラーメンが食べたいと懇願し、地方都市の街道沿いにチェーン展開されている某外食店のバイパス店、ラストオーダーぎりぎりの時間に飛び込む・・・。

 

 

 和風ラーメンをいただく。

 酔っていたせいもあるかもしれませんが、これが案外美味かった・・・・。

 

 それにしても今月は週に1~2度くらいのペースで飲会に顔を出している。

 来週からは新年度、今度は歓迎会等も予定されており懐もかなり寂しくなってきておりますし内臓系も少しお疲れモード・・・涙

 いずれ年度末、新年度の恒例ということで、もうひと踏ん張りといったところです。


出初式

2010-01-10 18:58:08 | ファイヤー

 新春恒例の消防出初式が行われました。

消防団員等約7百名が参加、早朝よりたいへん御苦労さまでした。

 

 

市民センター大ホールにて

 

正午前に出初式も全てを終了、ひきつづき午後からは成人式が行われた。

 

消防団員の高齢化、新団員不足ということで、成人式会場で消防団加入のキャンペーンも行われたようです。

 

興味のある方、是非に消防団に入っていただければと思います。


旧遠野消防沿革・消防本部

2009-03-15 16:14:34 | ファイヤー
 市村(旧遠野市・旧宮守村)合併以前の常備消防は昭和48年発足の遠野地区消防事務組合でありましたが、平成17年10月での市村合併により遠野市消防本部となり現在に至っております。

 昭和48年以前は旧遠野市単独の遠野市消防本部であり、その消防庁舎は鍋倉山下にあって、現在の「あえりあ遠野」さらにその前は遠野市民センターの広場辺りにあったと記憶しております。



 旧遠野市消防本部遠野消防署庁舎


 画像の消防庁舎時代に職員に採用された上司がこの春、3月末日を以て退職されます。
 この時代を知る唯一の現職でありましたが、何処かひとつの時代が終わりを告げるといった思いがしております。
 内容的に何かの節目とかそんな事ではないのですが、退職される上司には今現在の庁舎での思い出と共に、かつての庁舎での思い出もあるのだろうな・・・なんて勝手ながら思ったりして・・・・。


 向かいには望楼があって、こちらは平成に入ってから取り壊されたと記憶しておりますが、組合消防以前からの先輩方は望楼勤務を経験され、特に真冬の望楼勤務での過酷さ等を聞かされた記憶もございます。





 近年の望楼が写っている画像はこちらをご参照願います。




 さて、昔の消防署、昭和48年には遠野市民センターとなり、さらにホテルあえりあ遠野が建って、かつての薄い記憶があっても、はて?どの辺りだったのか?

 古写真から辿れば、唯一銀杏の木が確認できる。














 もう少し山際かと思ってましたが、あえりあのレストラン部分が残された銀杏からしてかつての消防署が建っていた場所であろうと推測できます。

 西側には遠野小学校(西小)の校庭、校舎がありました。






 昭和29年(1954)一町七ヶ村が合併して遠野市が誕生。
 昭和30年消防団常備部を開設。団員4名常勤
 昭和31年11月 遠野市消防本部を新設、職員5名
 昭和34年4月 常備部を廃止し遠野市消防署を新設 職員6名

 
 

表彰祝賀会

2009-03-13 21:46:40 | ファイヤー
 遠野市消防団が全国消防団優良表彰旗を受賞、昭和30年代初期に一度受賞して以来の快挙でもある。

 とっいっても市民の皆さんも含めて一般消防団員にはほとんど何のことかわからない、興味も覚えないことかと思います。
 全国には約2千5百の消防団がございますが、毎年10団体の消防団が受賞という中での今回の受賞・・・50年近くを経ての受賞である。
 
 ということで県の表彰も併せての祝賀会となりました。













 


 何故か第1分団幹部と個人的に2次会をしておりました・・・汗


基本あっての応用

2009-02-22 21:54:35 | ファイヤー
 消防団員の初任教育訓練が、この程開催されました。
 この教育訓練は消防団に入団して5年未満の未教育の団員が対象ということですが、中には入団してすぐ火災等の災害現場出動やら消防操法競技会の操作員に選ばれたり第一線での経験を有する者もおりますが、大半ははじめての教育訓練という内容でもありました。











 何事にも基礎、基本は大事、消防の場合は災害等での難局では応用というものが、その打開となり得ることでもありますが、この応用も基本があってのこと、基礎がしっかりしていてのこと、訓練指導に当たった小生も、当り前のことながらもこうして基本というものにあらためて触れるということで、初心に還った思いでもありました。





おまけ

大雪の後ということで、春の訪れは少し遠ざかったかな?・・・という思いではありますが、雄猫が近所を歩きまわっているということで、猫にとっての春、恋の季節到来となっている。

 ニューハーフの我家のネネにも近所のボス猫が毎日のように顔を見せにくる。




 外で出くわしたら最後、ネネは追いかけ回され負け猫状態、大人しく家でのんびりしていた方が性にあっているようです。



誓い・無災害

2009-01-04 18:28:53 | ファイヤー
 新春恒例の消防出初式が開催された。
 正月第一週の日曜日開催というのが定例となっておりますが、今年は4日が第一週の日曜日となり、正月気分も抜けないといいますか、ほとんど正月の真っ最中といったところでしたが、案外穏やかな気候の中、厳かに開催されました。







 画像は式典、表彰式会場(第三会場)である市民センター大ホール



 昨年、2008年は大地震2度、大雨警報発令による警戒態勢の頻発、火災も例年では多い年でもありました。

 今年、2009年は、なるべく災害が少ない年であってほしいと願っております。
 


 500名以上の市内消防団員が参加した消防出初式、団員総数は900名を超えるのですが、これほどの組織力を誇る消防団はやはり災害活動やら防火活動には欠く事は出来ない。
 有事の際に大きな力となる消防団・・・・概要ですがその近年の発足に係る歴史を覗いてみますと・・・・。


明治16年4月  遠野町(横田村・現遠野)・遠野郷初の公設消防組が発足
明治39年    達曽部村 遠野町以外では一番早い消防組の発足
明治40年    宮守村
明治40年    綾織村
明治41年    鱒沢村
明治43年    上郷村
明治44年    小友村
大正8年     青笹村
大正10年    附馬牛村
大正12年    土淵村
大正13年    松崎村

 各町の発足時期の違いがありますが、後の方で公設消防組が発足された地域では、村民や青年層を主に消防組織が結成されていたともいわれます。

 今の消防団の前身といえます。




 おまけ

 こちらは寝正月・・・汗・・・毎度のことですが・・・笑


スカイハイ

2008-10-31 19:35:25 | ファイヤー
 東北方面に展開する某国防機関の大規模な震災対処訓練実施、近い将来必ず起こるだろうといわれる宮城県、岩手県の三陸での大地震を想定しての訓練であり、三陸沿岸への後方支援地域と位置付られる遠野市を主会場として、三陸沿岸各地の被災地に向けて続々と関係部隊車両が集結、或いはそのまま現地へ・・・・上空からはヘリコブター飛来、流石国家機関が関る訓練は規模が違うと実感する。

遠野運動公園



早瀬川緑地公園



 本日の一曲・・・親父の洋楽時代
http://jp.youtube.com/watch?v=ZO549tEGgRI













 爆音を轟かせ上空から双発大型ヘリ「チヌークCH47」が早瀬川緑地公園上空に姿を現した。














 被災地釜石に向けて遠野から消防職、団員併せて14名が災害派遣ということで釜石市中番庫へ・・・・。


 釜石市中番庫では、釜石市内各地で被災された負傷者をヘリで輸送、DMAT(医療チーム)と、地元救急隊がその処置等に対応、遠野から派遣された隊員14名は、その応援といった位置付で訓練に参加する。













 遠野、釜石双方の救急隊コラボレーション





 岩手県内医療機関から派遣された医師、看護師もヘリにて現地入り。





 なんとかお手伝いといった意味合いでもありましたが、たいへん勉強になった派遣訓練でもありました。


 帰りも遠野までヘリで帰還・・・。


 行きは左手に六角牛をみて仙人峠付近を通過しての釜石入り、帰りは日没間近ながらも笛吹峠北側のルート、貞任高原のブンブン丸の至近を通過した時は、その光景に感動、すばらしかったです。
 残念ながら画像はプレプレで使いものにならず・・・・。




 釜石に飛び立つ前に同僚達と・・・途中何があっても良いように・・・大汗


追悼式

2008-10-19 19:19:06 | ファイヤー
 午後から災害活動にて殉職された方々を慰霊する追悼式が行われましたが、当直明けの本日、まずは一旦帰宅して午後に備えるべく若干自宅で休んでいますと、我家からみると東の空がスカイブルー・・・これは紅葉に少し早いとはいえ、それでもそれなりの画像が撮れるのではないのかと思い、福泉寺へ・・・・。


 ということで、まずは10月19日午前中の福泉寺の紅葉等・・・・。


 副住職を発見・・・笑




 庫裡付近



 本堂付近






 好天に誘われ、参拝者も時折訪れている。



 池








 いずれ午前中勝負でしたが、まだ遠野各地の紅葉の進み具合も少し早いとの情報でもあり、また時間的な余裕もなく極近場にての撮影となりました。
 結構良い色合いの青空でもありましたが、それでも少し薄いような・・・オリンパスブルーと紅葉・・・なんとかモノにしたいものです。




 ということで、本題・・・汗

 大日山日枝神社境内



 昭和6年から昭和17年まで、5名の消防関係者が火災現場活動にて殉職されている。
 消防追悼碑は5名の方をお祀りしているものですが、幸いなことに当市では以来消防関係者の殉職はない。

 当時は葛屋(茅葺屋根)や柾葺がほとんどであり、一旦火災ともなれば、ほぼ全焼という場面が多く、しかも軒や屋根が走る・・・といわれるように一気に火炎に包まれた屋根が落ちるといったことが多く、殉職された方々の多くが下敷きという場面でもあったようです。
 また飛び火といって数百メートル離れた場所の建物が火災になり、集落でも家々の間隔があるのに集落ひとつを呑み込むような大火があったと語られるのはこの飛び火が原因ということもある。

 現代は当時に比べれば格段と消防力が進化し、装備も充実はしているが、災害は複雑多様化という時代でもあり、関係者もそれらに対応する技術と判断力、戦術を模索する昨今でもある。

 こういった殉職といった悲劇はできるだけ避けなければならない・・・決して手抜き活動ということではない、勇猛果敢に立ち向かう中でも適切な判断力、冷静さを失ってはならない・・・・と日々思っているのですが・・・・いずれ火の用心が肝心ですね。

南部火消

2008-09-08 13:59:39 | ファイヤー
 朝から青空が広がる遠野、それなりの暑さも感じられるが、吹きわたる風は秋風であ~る・・・宝飯爺方式・・・笑


伝承園で捕まえた青空・・・。







〇南部火消の祖

 江戸時代における大名火消といえば私的ながらも第一のイメージは加賀火消を思い出す、そして次にこれもなんの根拠もないのですが「南部火消」とくる・・・。

 しかし、消防に関わる仕事をしていると随所で南部火消の言葉、文字に遭遇しており、どこか南部火消の言葉と共にそのイメージに憧れを感じたりしております。


 さて、南部火消の根源は何か?当然ながら南部藩で組織した消防隊ということになりますが、少し資料を紐解けば・・・・。


 延宝4年(1676)10月、南部太守であった南部重信は幕府より江戸丸の内大手町一帯の火消し役を仰せつかったとある。
 しかし、南部重信公は老齢でその任に堪えないということで、一族一門の中からその代理役を検討し、遠野城主で遠野南部家第二代、八戸三五郎義長公(後の弥六郎義長)に白羽の矢を立てたと言い伝えられている。

 命を受けた義長公は遠野武士を以て消防隊を編成して江戸に上って火消しの任とあたったとされている。
 南部火消といわれるその元祖の名目は南部藩による大名火消ではあるが、その実情は遠野武士、すなわち遠野八戸家による消防隊であり、南部火消の元祖ということになると思います。(遠野古事記には、当時のその模様が掲載されている)
 遠野武士による江戸詰めは翌年の8月まで続いたと記録されている。

 なお、八戸義長公は三五郎と称していたが、父弥六郎直義公が名乗っていた弥六郎の襲名を太守南部重信公から許され、八戸氏(遠野南部家)については後の歴代公は弥六郎を名乗っている。


 次に遠野南部火消について伝えられる内容としては・・・・

 元禄9年1月、七戸外記(太守南部行信の弟、1千石)と共に八戸家第三代八戸義倫公(よしとき)は盛岡城下の火消役の任を仰せつけられる。
 相役の七戸氏は太守行信公の弟で名門であるが1千石余りの知行高に過ぎず、南部家中第一の家、八戸家は一万二千石を超える大身の家柄、人員もその費用のほとんどを遠野方で負担していたと語られる。

 この時代、火消役すなわち消防隊の編成は戦支度と同じで、その隊列、陣構えは戦時と同じであったという。
 盛岡城下での遠野武士による消防隊は100名以上がその任にあったと伝えられるが、交代要員も含めるとその倍の人員とも考えられ、当時1万石辺りの諸侯の兵員(武士階級)は250名といわれるので、一万石強の八戸家(遠野)の家臣のほとんどが盛岡城下の火消の任に何かしら携わったことになるかもしれません。

 この義倫時代、盛岡城下の火消の任と共に遠野城下での火消役を家臣の中から定め、これが遠野での組織的消防の創始と伝えられている。

 
 昭和30年代辺りまでの消防屯所のイメージ

 たかむろ水光園内、ふるさと消防館


 街場の消防屯所として当時の面影を残す旧下組町消防屯所



 現在の消防屯所・・・消防コミュニティセンター





 タイプ的には旧遠野市分は9割以上が画像のようなタイプとなっており、消防屯所と地域、集落集会場が併設されているものとなっている。






 八戸弥六郎義倫公が創始した武家火消に対し、町方の組織的火消の創始については詳しくは伝えられていないが、火災が発生した場合は各戸から1名の男子が出る決まりがあったとか、本格的な遠野での町方による火消は文久3年(1863)城下の床屋職人による町火消だったようです。
 これが今でいう義勇的消防組織、すなわち消防団の元祖といえます。

 その後の明治16年(1883)県令による公設消防組発足により、その伝統精神は消防団に受け継がれているものと思います。





 おまけ

 リンゴの季節到来ですね。





 下組町の大叔父宅前の無人販売所

 母方の大叔父は長らく消防団員として地域防災に活躍されていた。
 50数年の長きにわたる消防団活動、部長という階級でその役目を終えましたが、退団する頃、「オレの方が副団長だの団長より長く勤めている」と誇らしげに語っていたのが印象的でした。
 部長という階級ながらも叙勲の栄誉を受けている。
   

熱き戦い08

2008-08-10 12:17:45 | ファイヤー
 去る8月8日(金)岩手県消防学校において、県内各地区支部を勝ち抜いた代表隊(市町村消防団代表)による岩手県消防操法競技会が夏空の下、行われました。

 本来は、7月25日に開催されるはずでしたが、7月24日に発生した岩手県北を中心とする地震によって順延されておりました。





 遠野釜石地区支部はポンプ車の部に遠野市消防団第10分団第1部(宮守町達曽部宿)、小型ポンプの部に遠野市消防団第5分団第2部(松崎町光興寺)が、それぞれ出場しました。

 小生は小型ポンプの部に関わっており、しかも住まいする松崎町ということもあって5分団2部の出来が一番気になっておりました。

 9番目スタート・・・・いよいよ操法が開始されました。










 かなり良い線いっている出来、強いていえばタイムがいつもより2秒近く遅いということくらいか、少し慎重になっての操法という感想もありますが、目立ったミスもなく、手応えは十分と感じましたし、選手はもちろん、指導等に関わった皆さんもそう感じたに違いないと思います。


 こちらはポンプ車の部、10分団1部・・・・。





 聞くところによると約30年ぶりの県大会出場、支部大会では伏兵というイメージでしたが、常連で本命の隊を破っての出場、2度目の県大会出場といっても、初出場に近いもので、彼らの指導にあたった同僚や消防団の幹部の方々の指導をよく聞いて練習に励んだという努力のチーム、タイムも練習以上の結果でもあり、かなり良い線であったという印象でもあります。





 5月半ばから消防操法の練習がはじまり8月上旬まで・・・約3ヶ月間にわたって自分も関わってきましたが、後は結果を待つだけ、特に小型ポンプの部、第5分団第2部は、記憶によれば県大会出場は4大会連続、10回目出場のいわば県大会の常連チーム、そろそろ上位入賞も・・・という声もチラホラ、選手の皆さんも上位入賞を視野に入れ、期待を背に浴びての練習内容でもあったことは確かなことでもありました。

 さて・・・今大会の結果は・・・?




 
 小型ポンプの部・・・

 前回8位入賞、優良賞となりましたが、今大会も8位入賞・・・。
 入賞という好成績ながらもどこか選手の皆さんの顔がほころんでいない、前回以上、できれば上位入賞の目的に届かなかった悔しさが少し感じる画像でもあります。

 しかし、県大会で入賞するということ、普段の練習の成果をミスなく出すということは、かなり難しい中での入賞、これは見事であると私は思っております。


 一方、ポンプ車の部に出場の第10分団第1部、こちらは入賞にあとわずか、第9位という成績、しかし、初陣に近い出場でこの成績は見事、次回の活躍が期待できる内容でもあり、楽しみな存在でもあると思いました。




 戦い終わって・・・・









 反省も含み悔しい思い、逆に今回はこれで良し次につなげる何かを掴んだ・・・思いは個々によって微妙に違う思いが交差する中、慰労会が行われました。
 私も指導に関わった立場でもあり、むしろ反省する側となりますが、出るからには勝つ、より以上の成績を・・・・これを旨としながらも、内容が伴っていなかったこと、深く反省しているところです。

 あの消防学校という最高のステージで、練習の成果を遺憾なく発揮できれば、自ずと良い結果はついてくるものと信じてはいますが、それプラス、何か他とは違う光るもの、観客も審査員も「おっ・・・」と思わせる何がなければ、そう簡単に上位に食い込めないと痛感しております。

 以前からこんなことを感じていながらも、指導に生かせなかったことも敗因のひとつに挙げられるものかもしれません。

 しかし、皆さんと一丸となって取り組めたこと、我々との交流、親睦がより深くなったこと、これもひとつの良い財産でもあります。

 次回も是非によろしくお願いします。
 ご苦労さまでした。


 2次会に流れた後、またしても・・・・汗



 翌9日は早朝より少年野球大会があり、その準備に早くから出なくてはならず、22時頃に退散となりましたが、その野球大会終了後に御苦労さん会があって、二日連続の酒宴・・・汗




 最後の〆は冷麺・・・昨晩のはいい味でした・・・・笑