見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

時代は変わり、歳月は続く/中華ドラマ『大江大河之歳月如歌』

2024-02-10 11:45:37 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『大江大河之歳月如歌』全34集(東陽正午陽光影視、2024年)

 2018年公開の第1部、2021年公開の第2部に続く第3部。おそらくこれが完結編になるのだろう。1993年、宋運輝は東海化工を追われ、彭陽という田舎の農薬工場勤務を命じられる。新しい同僚たちからは暖かく迎えられるが、工場の経営は振るわず、やがて停業命令が下る(国営なので政府から)。東海化工に呼び戻されかけた宋運輝は、別れ際に中年女性の技術者・曹工から託された資料に目を通すうち、彭陽工場を救う希望を見出して戻ってくる。それは、竹胺という物質を用いた新しい安全な農薬を製造することだった。最終的に、屋外の農地で使用する農薬としては成功できなかったものの、家庭用の殺虫剤として製造ラインに乗せる見通しが立ち、彭陽工場は存続を認められる。

 この竹胺プロジェクトの段は「プロジェクトX」風味もあり、見ていて胸が熱くなった。彭陽工場の副工場長・老王(黄覚)とその下の優秀な女性技術者・曹工(劉丹)、曹工を支える夫の老斉(寧文彤)は、おなじみの名優さん揃いだった。

 個人経営者の道を歩む楊巡は、梁思申を事業協力者として、東海市に新たな商業施設を建設しようと奮闘するが、二重帳簿を用いていたことが梁思申に見つかり、協力関係は破綻。失恋の打撃で荒れる楊巡だが、少しずつ事業への意欲を取り戻していく。その楊巡を、データ処理と的確な提案で助けるのが経理担当の女性職員・任遐迩(xia er 読めなかった)。彼女の能力と人柄に惚れ込んだ楊巡は猛烈なアタックをかけるが、地道な生き方を望む任遐迩は戸惑うばかり。それでも最後は幸せいっぱいの結婚式を挙げる。やったね! 饅頭(マントウ)売りの少年時代を思い出して、親戚のおばちゃん気分で感涙にひたった。楊巡は、亡き両親に代わって弟や妹の成長を助け、家長の役割も立派に果たしていくことになる。

 梁思申は、東海化工に戻った宋運輝に自分の気持ちを打ち明け、宋運輝も彼女を受け入れる。梁思申の両親に育ちの違いを心配されたり、梁思申が仕事の関係で一時アメリカに帰国したり、事件はいろいろ起きるが、賢い二人は着実に新しい道を歩み始める。

 そして雷東宝は、電線を製造販売する雷霆工場を郷鎮企業として立ち上げ、広州交易会に潜り込んで海外に販路を拡大し、股份有限公司(株式会社)に成長させる。雷総(雷社長)と呼ばれ、つきあいで高級酒を飲み歩き、高価な外車を乗り回すようになり、最初の妻・宋萍萍の面影のある若い女性秘書・小馮に手を出して妊娠させる。実は、現在の妻・韋春紅が子供を産めない身体であると分かった後の話で、いったんは妻を労わる態度を見せていたのに解せない。どうしても自分の子供がほしい、と春紅に懇願するのだが、この気持ちは中国人的に「分かる」んだろうか。夫の不実が許せない春紅は、子飼いのチンピラたちに小馮のマンションを襲撃させる(うわなり打ち?)。その結果、小馮は赤ん坊を置いて姿を消してしまい、東宝は赤子の小宝を連れて春紅と元の鞘に収まる。

 それでも雷東宝は、郷里の小雷家村の人々には、冠婚葬祭のお祝い金や老人の生活手当を欠かさなかった。しかし1997年、アジア通貨危機の影響が中国にも及ぶ。雷東宝は、小雷家村の福利厚生よりも雷霆工場の資金繰りを優先し、工場の成長を継続することが、最後には小雷家村の利益になると主張するが、村人たちの怒りは爆発する。抗議に押し寄せた村人たちに囲まれた雷東宝は地面に昏倒する。中風(脳卒中)だった。

 その後の雷東宝は、意識は戻ったものの、言語障害、運動障害を発症して社会復帰は不可能となる。雷霆工場の事業は整理され、小雷家村の老朋友でもある史紅偉たちが分担して引き継ぐことになった。小雷家村への福利厚生は停止(事実上の廃止)。韋春紅は、かつて楊巡が育った家屋を譲り受け、介護が必要な東宝と赤子の小宝を連れて移り住む。たぶん東宝の老母の生活も彼女が支えなければならないので、韋春紅、それでいいのか?と思ったが、どこかで「私は古い女だから」と言っていたように、これが彼女の選んだ幸せなのかもしれない。このドラマは、前に進む、成功を勝ち取る人間だけを称揚するものではないのだ。

 雷霆工場の破綻の直前、現下の経済状況を全く理解できていない雷東宝を、義理の弟である宋運輝が厳しく諫める場面があるのだが、「你的文化程度、学習能力」ではこの問題に追いつけない、という物言いが、率直すぎて胸に刺さった。ふと、ドラマ『覚醒年代』で陳独秀が言っていた「現在の保守派は過去の進歩派、現在の革新派も未来には保守派となる」が頭に浮かんだりもした。雷東宝役の楊爍さんは、この結末を知っていてこの役を引き受けたのかなあ。スタイルもよく紳士服モデルもできるイケおじ系の俳優さんなのに、最後はよだれかけをされて介護される姿が凄絶だった。

 ラストシーンは、雷東宝の発病から半年後くらいだろうか。韋春紅と雷東宝のもとに、楊巡夫妻、宋運輝夫妻が訪ねてくる。幼い子供たちも交えた和やかな食卓。楊巡が「敬生命、敬生活、敬我們的這箇時代」(生命に、生活に、我々のこの時代に)と乾杯を促す。第3部のエンディング曲『敬敬』につながり、かつ映像的には第1部の冒頭がよみがえる演出に涙。ほんとによい大河ドラマを見せてもらった。

 ただ、第3部は(当局の方針である話数制限に応えるため)かなり削られた部分があるらしいのは勿体なかった。私が好きだった登場人物のひとり尋建祥は、最終話に「我媳婦(うちの嫁)」というセリフがあるのだが、そこはドラマの中で見たかった。

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織田長好の魅力/織田有楽斎(サントリー美術館)

2024-02-06 23:45:10 | 行ったもの(美術館・見仏)

サントリー美術館 四百年遠忌特別展『大名茶人 織田有楽斎』(2024年1月31日~3月24日)

 有楽斎(織田長益/おだ ながます、如庵、1547-1622)は織田信秀の子、織田信長の弟として生まれ、武将として活躍し、秀吉、家康にも仕えた。2021年に400年遠忌を迎えた織田有楽斎という人物を、いま一度総合的に捉えることを試みる。私は有楽斎のことは、名前くらいしか知らなかったので、軽い気持ちで見に行ったら、意外とお客さんの姿が多く、みんな地味な古文書を熱心に眺めていたので感心した。

 有楽斎の風貌を伝えるのは、僧形の坐像(江戸時代)。温和だが意志の強そうな四角い顔である。有楽斎が再興したことで知られる正伝院の流れを汲む建仁寺塔頭・正伝永源院に伝わった。同寺院からは、ほかにもたくさん書状や文書、ゆかりの品が出陳されていた。

 茶道具類は、正伝永源院に伝わったものもあれば、別の所有者に渡ったものもある。『唐物文琳茶入 銘:玉垣』(玉垣文琳)は、有楽斎から豊臣秀頼に献上されたことで知られる。大阪夏の陣で破壊されてしまうが、本多正純が焼け跡から破片を拾い集めさせ、9つの茶入を復元させた。このうち『付藻茄子』『松本茄子』は、現在、静嘉堂美術館が所蔵し、『玉垣文琳』は遠山美術館が所蔵している(参考:遠山記念館だより 第50号/PDF)。また『唐物茄子茶入 銘:宗伍茄子』は、有楽斎の孫・三五郎が所蔵していたもので、現在は五島美術館が所蔵している。

 この三五郎(織田長好/おだ ながよし、1617-1651)のことは、有楽斎以上に何も知らなかったが、遺書(丁寧な現代語訳つき)を読んで、その人柄に触れ、とても好きになってしまった。祖父の茶の湯・有楽流を継承し、茶人として名を成したが、妻子のない独り身で35歳で早世した。遺書の中では家来の奉仕に深く感謝し、『遺品分配目録』では、家来とその娘にも金子小判を分配している。『遺品分配目録』の冒頭に挙げられているのが『京極茄子』で「公方様」に割り当てられたが、取消線(?)で消されている。別の文書では、京極茄子が三五郎の借金(金千両)の質となっており、紆余曲折を経て正伝院の什物になったという解説が添えられていた。

 有楽斎ゆかりの茶道具には『青磁輪花茶碗 銘:鎹(かすがい)』(マスプロ美術館)もあった。東博の馬蝗絆に似ているが、やや浅めだという。永青文庫の『呼継茶碗』は、茶色い土の古瀬茶碗の欠けたところに、南京染付の欠片を継いだもの。なんともおしゃれ!

 なお、有楽斎が正伝院に建てた茶室・如庵は、愛知県犬山市の有楽苑に移築されている(京都・正伝永源院にも復元されたものが建っている)。一度も行ったことがないのに、なじみがある気がするのはなぜだろう?と考えたら、三井記念美術館の展示ケース内に如庵の一部が再現されているのだった。Wikiによると、明治から昭和40年代までは三井家が所有しており、一時期は大磯に移築されていたのだそうだ。茶室って、案外、移動できるのだな。

 展示の後半は、正伝永源院の寺宝を紹介。狩野山楽の作品が目立った。16図に及ぶ『蓮鷺図襖』は金地にうっそうと茂る緑の蓮の葉、その間を彩る白蓮と小さな鳥たちの姿が夢のよう。あと室町時代の『蛸足香炉』がとても珍しく、かわいかったのでここにメモしておく。正伝養源院、近いうちに行ってみたい。どちらかというと三五郎長好の足跡を訪ねて。

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民藝の王道/鈴木繁男展(日本民藝館)

2024-02-05 23:21:57 | 行ったもの(美術館・見仏)

日本民藝館 特別展『柳宗悦唯一の内弟子 鈴木繁男展-手と眼の創作』(2024年1月14日~3月20日)

 鈴木繁男(1914-2003)は、柳宗悦の唯一の内弟子として1935年に入門、陶磁器、装幀、漆絵など多岐な分野にわたる作品を残した。没後20年に合わせ、工芸家・鈴木繁男の手と眼による仕事を顕彰する。というのは、本展を見たあとに、あらためて確認したもの。実は、鈴木繁男の名前もよく知らずに、ふらりと見に行った。

 玄関を入ると、階段の壁には大きな藍染の布が2枚。暴れ熨斗と熨斗に菊散らしの文様でどちらもめでたい。踊り場の箪笥の上と、階段下の左右の展示ケースには螺鈿、漆絵、卵殻貼などの漆工芸品。なんだかとても懐かしい感じがした。同館は、中世ヨーロッパの木製椅子とか、アフリカや中南米の工芸品など、幅広い収蔵品を誇るけれど、やっぱり日本の風土に根ざした民藝が王道だと思う。

 その気持ちは、2階の特別展示室に入ったときも感じた。「手の創作」つまり近代的な意味で鈴木を作者とする陶芸・漆芸・装幀などと、「眼の創作」すなわち鈴木が価値を見出した伝来品の両面から構成されているが、全てが「民藝」の王道の空気をまとって融和していた。陶芸では白磁の美しさが印象的だった。中でも、朝鮮時代の虎足文机(これは伝来品)の上に載って、阿弥陀の名号の掛軸(これは鈴木繁男作)に供えられていた、丸っこい白磁の蓋物が記憶に残っている。逆に鉄釉凸帯文水指は、真っ黒な表面に微かに緑の光が浮かぶようで美しかった。シャープな四角い皿を何度か作っているのもおもしろかった。

 「眼の創作」で気になったのは、小さな木製の厨子。子供が積み木を積んだようなシンプルな造形だった。平安時代の灰釉蓮弁文壺は、歪み具合が味なのだと思う。

 併設展はどの部屋も面白かった。「室町~江戸時代の絵画」は大津絵のほか、丹緑本や奈良絵本断簡など。『大江山図屏風』は、左上隅に首を斬られる酒呑童子も描かれている。こんな趣味の悪い(?)屏風を誰が用いていたのだろう。やっぱり遊女屋だろうか?などと考えた。「絵馬と神祭具」は、上辺の中央が尖った五角形の絵馬ばかりでなく、素朴な四角形の板に絵を描いたものも多数あった。願い事は分かるような分からないような。子供が入浴する絵は何だろう?と思ってネットで調べたら「子どもがお風呂好きになるようにとの願いが込められている」という論文が見つかった。本当だろうか?

 2階の階段まわりにあった『熊野比丘尼図』(箱を抱え傘を差し、子供(?)を伴う)は、褪色のせいか白描のように見えた。同じ展示ケースには、東大寺の什物だという湯桶や盥。その隣り、壁に掛かっていたのは駕籠かきの葬儀用衣装で、袖がやや長く、紺色に横縞と花を散らした文様が配されていた。

 階段まわりの反対側には、おなじみの朝鮮民画『山神図』。「朝鮮の石工と白磁」ではレモンイエローの石でできた煙草入れが目を引いた。「民藝運動の作家たち」では舩木研兒、その父親・舩木道忠の作品を見ることができた。くりっとした眼の山羊や鹿の絵がかわいい。

 1階は「植物文様の焼物」「B・リーチ、濱田庄司、富本憲吉」「柚木沙弥郎の仕事」、そして玄関は「日本の漆工」だったのだな。柳に扇面の丸盆とか、柏文の瓶子とか、大好きな名品を見ることができて嬉しかった。

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説話と史料から/地方豪族の世界(森公章)

2024-02-04 22:16:04 | 読んだもの(書籍)

〇森公章『地方豪族の世界:古代日本をつくった30人』(筑摩選書) 筑摩書房 2023.10

 先日、久しぶりに神保町に行って、三省堂の仮店舗をのぞいた。ふだんと違う書店に入ると、ふだんと違う本が目につくもので、本書が気になって手に取ってみた。そうしたら、読みかけの『謎の平安前期』に出て来た春澄善縄の名前に出会ってしまったので、運命を感じて買って帰った。

 本書は、著者の専門である地方支配・地方豪族の様相の探究をふまえて「これまでの名言・名場面や人の動向ではほとんど取り上げられていない人物」30人を紹介したものである。神話・伝承の時代から奈良時代末までが15人、平安時代末までが15人、地方豪族が主題なので、坂東武士のような中央からの土着者は除く。著者は、女性の事例が少ないことを遺憾としているが、思ったよりも女性が混じっていた。1人あたり6~8ページの記述で、関連地図や図表(古墳の分布図・木簡の写真など)が多いことが本書の特色となっている。

 はじめ、目次で30人の名前を見たとき、奈良時代編ですぐに分かったのは、野見宿禰、筑紫君磐井くらいだった。しかし読んでいったら、『常陸国風土記』に出てくる箭括氏麻多智(やはずのうじ またち)とか『日本霊異記』に出てくる田中真人広虫女(たなかのまひと ひろむしめ)など、あ、知ってる知ってる!と思い出した例がいくつかあった。平安時代編の相撲人・真髪成村(まかみのなりむら)が登場する『今昔物語』も本朝世俗部だけは読んだ。私はこうした説話を、ほぼフィクションとして読んできたが、たとえば成村やその息子の事跡が『中右記部類』や『小右記』に載っているなど、「歴史」として確認できることに新鮮な驚きを感じた。

 麻多智は常陸国行方(なめかた)郡の小首長で、新田を開発しようとして、角のある蛇「夜刀神(やとのかみ)」の妨害に遭う。麻多智は甲鎧を着装して夜刀神を駆逐し、神の地と人の田の境界を定め、神を祀ることを約束する。これについて著者は「6世紀初頭の同時期、同じく東国の上毛野地域で発生した榛名山の大規模噴火によって壊滅した村々の首長を想起させる」と書く。群馬県渋川市の金井東裏遺跡からは、甲を着装した成人男性が、頭を火砕流が向かってくる方向に向け、両腕・両脚を折り曲げて、あたかも火山の神に対峙する姿勢で発見されたという。いや、死んでしまっては無益かもしれないが、「自然と対決し、家族や配下の人々を守ろうとする首長の気概を看取することができる」という記述に深く同感した。

※参考:よろいを着た古墳人、正体は村の長? 火山の下から覚醒(朝日新聞デジタル 2020/6/13)

 私は『水鏡』は読んでいないのだが、光仁天皇が井上皇后と戯れに博奕をして「私が負けたらいい男を奉りましょう」と約束し、皇后に責められたので、山部親王(のちの桓武天皇)を奉ったという話、まあとんでもないんだけど、こうした「歴史物語」が書かれていたというのは興味深い。

 「中央からの土着者は除く」という選択の結果、東北関連の人物は相対的に多くなっている気がする。大墓公阿弖流為(たものきみ あてるい)、安倍頼時(あべのよりとき)、そして伊治公呰麻呂(これはりのきみ あさまろ)。呰麻呂の乱は、昨年、久しぶりに東北歴史博物館を訪ねたとき、ビデオ等で詳しく紹介されていた「多賀城炎上」のエピソードだ、と気づいた。

 地方豪族出身で僧侶として名を残した空海、円仁も取り上げられている。空海の関連で、讃岐国の出身者には訴訟好きが多く、奈良時代以降、著名な明法家を輩出したほか、宗教界にも讃岐人脈が広がっていた、という指摘はおもしろかった。大安寺の戒明、天台宗の円珍も讃岐の人。円珍は空海の姻戚でもあったが、教義上の論争は別で、空海の著作を厳しく批判しているという。人となりが分かるようで、苦笑してしまった。

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桓武王朝の試行錯誤/謎の平安前期(榎村寛之)

2024-02-03 23:27:19 | 読んだもの(書籍)

〇榎村寛之『謎の平安前期:桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(中公新書) 中央公論新社 2023.12

 今年の大河ドラマ『光る君へ』が紫式部を取り上げていることもあって、平安時代に関する書籍がけっこう注目を集めているように思う。平安時代は平安京遷都の794年から12世紀末期まで約400年間、我々がイメージする、なよやかで上品な貴族たちの時代は、だいたい後半の200年間であるが、本書はそこに至るまで、奈良時代に導入された律令制がこの国の実体に合わなくなり、いろいろ試行錯誤を繰り返して、ひとまずの安定したシステムを作りあげるまでの200年間を論じている。

 制度的な要点は、序章に挙げられた「徴兵制による軍団の廃止」「私有地開発の公認」「地方官の自由裁量権の拡大」になるだろう。大きな政府(律令国家)から小さな政府へ。中央政権の権限や徴税機能は弱まったのに、国家経営の合理化と民間活力の利用によって、国全体は豊かになっていった。

 本書は、具体的に何人かの人物に即して記述を展開する。最初はもちろん桓武天皇。桓武は「聖武系王権」から徹底して離脱するため、平城京を離れ、渡来系氏族を重用し、著者の表現によれば「天皇を『皇帝』に近づけ」ようとした。桓武、交野郡で郊天上帝祭祀(郊祀)をおこなっているのか(交野天神社というのがあるらしい)! 女系天皇の可能性を封じたというのも興味深いところ。また伊勢神宮も桓武新王権において、その権威を公認されるとともに、王権の監視下におかれるようになり、伊勢斎宮にも新たな意味付けがなされた。

 平安前期においては、寒門の出身でも学識を認められれば政治の中枢に参画することができ、門閥貴族と文人はライバル関係にあった。中国の宮廷みたいである。平安前期は、基本的に、中国起源の律令制から遠ざかる過程だと思うが、「この時代らしさ」には、かえって奈良時代より、中国の伝統文化に接近したところが見られる。ここで名前が挙がっていたのは、郡司の孫が貴族(参議)にまで昇った春澄善縄。おや?聞いたことのある名前だと思ったのは、春澄善縄朝臣女(むすめ)が勅撰歌人であるためのようだ(私は国文学専攻だったので)。

 歴代の天皇ではもうひとり、9世紀の文徳天皇を論じた段もおもしろかった。文徳も、桓武以来久々に郊祀をおこなっているのだな。また、郊祀の直前には、春澄善縄に勅して『晋書』を講義させたという。晋が「最初の、禅譲により成立した統一国家である」点に興味を示したのではないかと著者はいうが、本当にそうなのかな。「桓武天皇を司馬氏に擬して」というのを読んで、ドラマ『軍師聯盟(軍師連盟)』のすさまじい権力抗争と簒奪の歴史を思い浮かべてしまったのだが。『文徳実録』には怪異の記録が多いというのも記憶に留めておきたい。

 また本書は、女性についての記述も豊富である。奈良時代の宮廷女官は男官に伍して活躍しており、名前を歴史に残した女官も多く、職場結婚の例もあり、天皇のお手付きとなって後宮に入ることもあった。ところが、次第に女官の採用年齢が高齢化し、天皇の性生活はキサキ(女御・更衣を含む)を出す氏族に限定されるようになり、女官にかわってキサキに仕える若い女房たちが「天皇を引き付ける甘い蜜」として用意されるようになる。10世紀後半の紫式部や清少納言の時代は、女流文学が隆盛をきわめたと言われるが、彼女たちが実名を残せなかったことを見ても、前時代に比べて、女性の地位が低下した状況だったのではないか。これは私も(奈良時代びいきのせいもあって)むかしからそう思っている。

 再び天皇制について。「律令体制下で天皇が名実ともに最高権力者であった時期は意外に長くない」というのは、ちょっと目からウロコの指摘だった。奈良時代から平安前期にかけて、天皇と上皇が同時に存在した時期は意外に長いのだ。そして嵯峨院以降は、藤原良房をはじめとして、藤原摂関家氏が天皇の「護送船団」をつとめていく。平安末期の「院政」が特異な政治体制ではなく、奈良時代からつながっているのだなと感じた(そういえば、橋本治『双調平家物語』も奈良時代から始まるのである)。

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